Acting is over.
「それで春美さんとはうまくいってるの?」
真理の口から春美さんの名前が飛び出したことに限って言えば実はあまり驚いていない。
なぜなら真理に離婚を持ち出した時にその理由及び経緯を説明するために彼女の事を話さざるを得なかったからだ。
とはいえ一から十まで全てを包み隠さず話したわけでは無い。
真理に話したのは
①春美さんという別の女性を好きになってしまった事。
②結婚していた事が知れて微妙な関係になってしまった事。
③けじめをつけるために離婚させてほしい事。
大別すればこの三つ。
つまり真理は俺がまだ春美さんと仲を戻そうと奮闘していると思っているようだ。
――いや、もしかしたら既に諦めた事を悟った上で聞いているのか……。
と、心なしか悪戯に持ち上がる口角を見て思った。
だがその思惑に抗う気概もなく、
「いや、春美さんとはあれ以来連絡をとれていないんだ」
と正直に吐露する。
「そう……」
「ああ……」
「そうなの……」
「まあな……」
「――って、それで済むと思ってるの⁉」
「………………はい?」
突如テーブルを叩き激昂した真理を見て俺は情けない声を上げた。
「だって私と別れたのは何のためよ? 私の立場は?」
「いやぁ……それを言われると本当に申し訳ない所存で……」
「そんな平謝りなんていらないから! その子とどうなりたいと思っているのか今ここで正直に言いなさい!」
そう言って彼女が勢いよく突き出した指。
まるでランスで喉を貫かれそのまま磔にされたような衝撃を体に感じ、項垂れる。
と同時に、
“俺はどうしたいのか?”
という言葉がからっぽの頭の中で反響した。
「俺は……」
気づかないふりをして。
忘れようとして。
心の奥に大事にしまい込んでいた思いが溢れそうになった。
その情けない表情を真理に見られたくなくて俺はさらに頭を垂れて。
「俺は春美さんに――」
みっともないけど。
何が変わるでもないけど。
ここで本当の気持ちを吐いてしまえば楽になれる。
そんな気がした。
だけど、
「――俺にはもう彼女に会う資格なんてない」
俺の中のやけに冷たい部分が俺の喉を締め上げ、代わりに言葉を放ったような感覚だった。
「それがあなたの答えと言うわけね」
「……ああ」
俺がそう呟くと真理は突き出していた腕を下ろした。
「はあ……私はあなたのそういうところが嫌いだわ」
「でもこれが俺の――」
「会う資格が無いって……。それってつまり本当は会いたいってことじゃないの」
俺がゆっくりと顔を上げると呆れ顔の、だけどどこか優しい真理がいた。
「気持ちを押し殺してるようで駄々洩れ。大人ぶっているようで子供じみてる。それがあなたの悪いところよ、勉君」
「真理……」
俺は真理に礼を言わなければならない。なのに喉が震えて声を出せなかった。
ピリリリリ!
突然、スマホの着信音が鳴り響いた
「上司から電話だわ。少し失礼するわね」
俺は頷いて、真理が電話する間に高ぶった気持ちを落ち着かせた。
そして電話を終えた真理が俺に、
「はあ……今日の昼から病院の日当直代わって欲しいって言われちゃった。全くあの上司……こんなのパワハラよ」
と愚痴をこぼすように言った。
「え? じゃあゴッホのひまわり展はどうするんだ?」
「残念ながら私は行けないわ」
「そうか……」
「なんであなたが残念そうにするのよ」
「だってお前楽しみにしてたんじゃないのか?」
「まあね。まあ、私はあの憎たらしい上司から平日の当直でも変わって貰って無理やりにでも行って見せるわ。あなたは行けるときに行っておきなさい。今日の電子チケットも購入してあるんでしょ?」
「でもそれはお前も同じだろ?」
「そうね。じゃあ、もったいないから誰かに譲渡しようかしら、例えば――春美さんとか?」
「お前な」
俺が睨みつけると、真理は手をひらひらさせながら、
「ふふ、冗談よ」
と言って笑った。
そしてデザートを皿に残したまま彼女は手早く荷物を整えて、
「ここはあなたの奢りでいいわよね?」
「まあ……別に構わないが、そう当然のように言われるとなんか釈然としないな」
「ふんっ、これぐらいしてもらわないとわりに合わないわ」
「ん? 何か言ったか?」
「……うん。じゃあ、最後に一言だけ――」
「これが最後のチャンスだと思いなさい。行ける時にい行かないと後悔する事になるわよ」
遠くを見据えたような視線と俺の体を貫くような声。
……そんなにゴッホ見に行きたかったのか?
だけどただの皮肉ではない気がして俺はその言葉をひっこめた。
「じゃあね、勉君」
俺はあっけにとられたまま手を振ってバルコニーから去っていく真理を見送った。
ぼーっとした頭のまま、とりあえず残ったデザートとコーヒーを片付け、景色を眺めながら食事中に感じた違和感を思い起こす。
――そう言えば真理、今日はよくしゃべってたな。食事中はしゃべらないのが彼女のルールだったはずなのに……。
まあ、ただの気まぐれという事もあるし考えても仕方がないかと思い至り俺は会計伝票を手に取り立ち上がり、バルコニーを離れようとしたその時――
後ろから誰かが俺の袖を摘まんで引き留めた。
その感触はどこか懐かしく、なぜかあの時の思い出が蘇ってきて俺は無意識に、
「春美さん――」
と声にしてから振り向いた。
するとそこには白のパーカー、そのフードを目深にかぶった女性が俯いていた。
確か隣の席にいたお客さん。
顔は見えない。
だけどこの背格好、僅かに覗く蒸気してリンゴのように赤く染まった頬。
まさか――
俺は震える手でゆっくりとそのフードをはぐった。
漆を塗ったような艶やかな黒髪はあの時よりも少し短めで。
だけどその吸い込まれるような瞳やほっそりと美しく整った眉は見間違いようもない。
「勉……さん」
彼女が俺の名前を呼んだ時、俺は初めてこれが現実だと理解した。
「春美さん俺は……」
「……私も……会いたかった。だけど私は勉さんとあんな別れ方をしてしまって……もう勉さんと会う資格なんてない。勉さんの事は忘れないといけないと思ってて、それで……」
お互いに言葉に詰まって沈黙が訪れる。
気持ちがせめぎ合っていた。
あれだけ会いたかった彼女が今目の前にいる。
でもなんて声をかけたらいい?
会いたいという思いは叶ってしまった。だけどその後を全く考えていなかった。
そもそも俺に資格は――
――いや、その考えは捨てろ!
何だっていい。
この巡りあわせをここで終わらせたくない。
ふと真理の言葉が思い浮かんだ。
そうか、だったら――、
「「あの……ゴッホ……見に行きませんか?」」
せっかく解けかけた沈黙の中、遠くで鐘の音が響いているような気がした。
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