My master.
視聴教材閲覧用の個室を借りて行われるお絵かき教室。
名画を紹介する映像資料を無音声で流しながら森須くんと一対一のレッスン。
勉強に疲れたらペンを置き視聴室で筆をとる。
この流れがすっかり板についてきた九月の末。
夏休みも残すところあと僅か。
森須くんの上達度はといいますと……
「どうかな? 結構自信作なんだけど……」
自信作というわりに森須くんの声は小さくて、そんな矛盾に気づかぬふりをして私は答えます。
「素晴らしいです。もうデッサンの基礎はばっちりです!」
私の言葉に嘘偽りはありません。
始めた当初は何といいますか……そう、例えるなら五次元の世界から三次元を覗いた様な……いえ、やはり適切な比喩が見つかりません。
とにかく、色彩がどうこうという問題ではなく、まず三次元的な捉え方に難があると判断した私は、デッサンを通して遠近感や、立体の捉え方、陰影の取り方を中心に教えました。
教えた当日はお世辞にも上手とは言えないものの、私が勧めた視聴用教材を持ち帰って家で練習してきたのでしょう、次に会った時にはきっちりモノにしてきてしまうのです。
彼はとんでもない努力家なのだと会うたびに思い知らされます。
彼の描いたリンゴはまだ線のブレから迷いを感じるものの、奥行や光を鉛筆の濃淡で表現する事に成功していました。
「これならすぐにでも色塗りの工程に移れると思います。ああ、でも今度は単一のものだけでなく風景画のスケッチの方がいいのかも……いえ、やっぱり――」
これまで絵を人に教えたことのなかった私はどういう道筋で教えるのが一番効率がいいのかわからず右往左往。
子供のころから我流でやっていたので、余計に難しくて。
「僕はどんな順番でもいいよ。向島さんの教えてくれる知識はいつも新鮮でどんなことでも成長を感じられるんだ。それに僕は焦らない……いや、焦りたくないんだ。この……向島さんと過ごせる時間がぼ……ぼくにとっては……その……楽しいから」
森須くんと話していると心がぽっと暖かい気持ちになります。
「そういってもらえると助かります。私は何か……変に焦ってしまっていたみたいです」
何となく、夏休みが終わったらこの楽しい時間が終わってしまうような気がして。
でも落ち着いて考えればそんな事はありません。
確かに卒業というタイムリミットはありますが、夏が終わっても秋と冬、そして色鮮やかな春が待っているのです。
「それでは次は……これとこれを配置して……距離感や質感の違いに注意して描いてみてください」
「わかった。やってみるよ」
森須くんは絵を描いている時は一切口を開きません。
被写体と手元を鋭い眼差しで交互に見やって、口は堅く引き結んで。
絵を描いている時の彼の真剣な横顔は鬼気迫るものがあって、つい魅入ってしまいます。
私も頑張らないと――。
そうして彼の隣で私は筆をとります。
私が好きな画家はフィンセント・ファン・ゴッホさん。
親しみを込めてゴッホ先生と呼んでいます。
なぜ好きかというと誕生日が同じ3月30日だったから。
というのはあくまできっかけの一つに過ぎませんが、ゴッホ先生の絵はとにかく色彩が豊かなのです。
画家という者は心境の変化や時代の流行に合わせて絵のタッチも変化するもの。
なのでゴッホ先生の作品と一概に言っても暗い色調のものから明るいものまで多岐にわたるのですが、私は特に印象派や浮世絵を取り入れていた頃から補色を研究していた頃の比較的明るい絵が好きです。
補色を意識して色を付けるとそれぞれの色が引き立ちあって、さらにそこに私なりの配色や光の技法を加えると“きらきら”が――少なくともその片鱗が顔を出すのです。
ゴッホ先生の絵に出会えていなかったら、私は“きらきら”を諦めていたかもしれない。そう思えるほどに先生の絵は私の最も深いところに根付いていたのです。
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