Farewell word is ...


 俺は真理まりと契約を交わしたことを後悔していない。


 ……いや、あれは“契約”ではなくちゃんと“結婚”と呼ぶべきだ。

 

 婚姻届けも出したし、彼女のご両親に挨拶もした。

 中学の同級生という事もあって特に抵抗なく受け入れてもらえた。

 真理はここまで計算に入れていたのだと思うと恐ろしくなった事を覚えている。


 世継ぎに関しては内科医で院長の長男に既に子供がいるので問題はないらしい。

 ちなみに父親はグループの会長、母親が理事長で、真理はゆくゆくは一般外科の部長を目指し大学病院でキャリアを積んでいる。

 

 真理はとにかく多忙で病院に寝泊まりすることも多く、時間のある時は全国の学会に出向くなど、例え同棲していたとしてもナチュラルに別居状態なので、それぞれのライフスタイルを重視した生き方は黙認してもらっているのだ。



 とにかく真理と結婚したことで、心に余裕が生まれたのは事実。

 婚期を逃した男だと周りに思われなくて済んだ。


 それでも疑う社員には結婚指輪とそれようにスタジオで撮った結婚写真を見せてやれば黙らせられる。



 まあ、そんな事をするような人間は限られている。

 例えば今、目の前にいる優だ。



「すまない、勉。本当はあの面接のとき、ダメかもしれないって気づいてたんだ」


「いや、それ以上言わなくていい。もし俺が優だったら同じような反応をしていたと思うから。それに暫定通知で俺の異動が決まってたのはお前が推薦してくれたからなんだろ?」


 苦虫を噛んだように、口元をゆがませる優。


「もう少しの所まで行ってたんだ。本当に……本当に……」


「本当に今回は運が悪かった。ただそれだけの事だろ?」


 食堂のテーブルに手をついて頭を下げようとしていた優を止めるように俺はそう言った。


「勉……」


「大丈夫、俺はまだ諦めてないから。また力を貸してほしい時は頼らせてくれよ。ほら、そんな顔するなって。お前はにやにや笑ってないと逆に気持ち悪いんだよ」


 俺が茶化すと優の表情に明るさが戻った


「誰が気持ち悪いって? 全く……とにかくお前が前向きでいてくれてよかったよ」


「ああ。これまで何回挫折ざせつしたと思ってるんだ? 任せとけ」


「はは、何だよその謎の自信は……っとそろそろ時間だ。わりいが先に行くから」


「ああ、頑張れよ」


「お前もな、勉」





 優が去っていく背中を微笑で見送った後――



 ……はあ、何とかうまくいった。



 何気に俺が優をだませたのはこれが初めてかもしれない。


 本当はもう、これっぽっちも気概なんて残っていない。



 ただ通勤して日々のノルマをこなすだけで精いっぱいで、本当は何もかも投げ出してどこかに消えてしまいたい。


 だけど、そんなことをしたって何も解決しないのは分かっている。

 世界は俺が立ち直るのを立ち止まって見てくれるわけじゃない。


 会社の前の通りには桜の花が咲き誇り、落ち行く桜の花弁は決して元の位置に戻ることはない。


 そんなことが帰宅途中に頭を過る。



 俺が異動取り消しになった事は広報部の連中には既に広く知れ渡っていて、憐れむ目線に気づかないフリをして、これまで通り何事も無かったかのように自然に過ごす。


 これまでだって出来ていたことができないわけがない。


 ――俺は大丈夫だ。


 なぜなら大丈夫だと言えるだけの余裕がある。



 だから、大丈夫だ。大丈夫だ。大丈夫だ。




”もう二度とチャンスなんてこない”



“春美さんとはもう二度と会えない”



“俺は何のために生きている?”





 気を抜くとそんな言葉が顔を出し、俺の心をむしばんでくる。



 だけどこんな時に便利な魔法の言葉ある。



 ――何も考えるな。



 考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな……



 こうやって思考を埋め尽くしてしまえばいい。



 考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな、考えるな……




「あ……もう家か」



 気が付くと玄関の前に立っていた。

 今日も無事に家まで帰れた。


 ……ほら、大丈夫だ。



 俺はまだやっていける。



 希望を持ってしまったから絶望しただけ。

 大丈夫。全てが元に戻るだけ。

 満たされなくたって、虚しくたってそうやってみんな生きてる。

 苦しいのは俺だけじゃない。


 だから――





 俺はシャワーを浴び終わるとローテーブルの前に腰かけてPCを開いた。



 Faciliのバグは優に直接報告した。

 しかし、あのモザイクや砂嵐も他の端末では確認されていないそうで、メンテナンスの頻度を増やしながら運営はこれまでどおり続けていくとのこと。つい先日パッチも適応された。


 だから、バグを起こす前の彼女に会えるかもしれない。



 だけど、俺はあれ以来Faciliを起動していない。



 ――俺は怖かった。



 ファシリに心を見透かされてしまうことを。

 春美さんにまた会えるのではないかと僅かでも希望を抱いてしまう事を。





 ――だから全てを元に戻そう。



 僅かでも希望があるから絶望が膨らむ。

 だったら、最初から無であればいい。





 俺はFaciliのアンインストールを実行した。



 

 アンインストール進行度を示すゲージが画面中央に現れる。



 『残り予想時間5分』



 かなりの容量を占めているため、通常のアプリよりも時間がかかっているらしい。


 PC内蔵のドライブがカリカリと音を立てる。



 それがファシリの悲鳴のような気がして思わず目を逸らし耳を塞ぎたくなる。


 でも、最後まで見届けると心に決めていた。



 ――そうしなければまた希望を抱いてしまいそうな気がするから。



『残り予想時間1分』


 そして秒読みへと転じる。


 ――いよいよお別れだ。



「さよなら、ファシ――」



 ポーン♪



 


 ポップアップメッセージを知らせる音が別れの言葉を遮った。


 表示されたメッセージを視界に入れた瞬間、俺は神様に悪戯されているんじゃないかと本気で考えてしまった。



 ……まったく最期の最後に何なんだよ。




『春美さんがログインしました』



 

「やめろ! もう俺に希望を抱かせないでくれよ!」



『残り予想時間10秒』


 9


 8


 7


 6


 5


 4


 3


 2


 ポーン♪








『勉さん。あなたの事が好きでした』








 俺はとっさに画面の端をつかんで――


 メッセージは消去され画面には『アンインストール完了』の文字だけが浮かぶ。

 

 俺の見た幻覚だったと言われた方がまだ腑に落ちる。

 だけど、この目に焼き付いて離れない。





 俺は本当は彼女の気持ちに気づいていた。



 ――いや、違う。



 そうだったらいいのにって勝手に思っていたんだ。

 俺にはそんな事を思う資格すらないのに。



「春美さん……春美さん……春美さん……」



 自分への怒りか、嘆きか、後悔か。

 涙があふれ、彼女の名前を呼ぶたび、彼女と過ごした思い出が蘇ってくる。


 この思い出もいつか消し去らなければならないのだと自分に言い聞かせると、余計に涙が止まらなくて。


「ごめんさなさい……春美さん……。さようなら……」


 その姿はきっとはたから見れば醜くて、浅ましくて。

 だけどそれは、無責任で身勝手な男の夢の終わりにはふさわしい最後だったのかもしれない。

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