I shouldn't have left.
異動が不採用であったことを春美さんに伝えなければ――
しかし家にいても閉じられたノートPCを前に息を潜めたように佇むだけで、それ以上動けない。
春美さんのログインを知らせるポップアップが鳴らない事に安堵している自分さえいる。
だが、いつまでもこうしていたって何かが変わるわけでもない。時は刻々と過ぎていく。
今は三月初旬。
桜の花はまだつぼみ。
それが満開に咲きほこる頃を思う。
春美さんが誕生日を迎える時までこんなもやもやした思いを引きずりたくはない。
……強がりでもいい。春美さんの誕生日は笑顔で迎えたいんだ。
俺は思い立ってFaciliを起動した。
久しいファシリの笑顔は心なしか硬いように見えた。
「こんにちわ。勉さん。10日と24時間ぶりですね」
「ああ、もうそんなに経つのか」
なぜだろうか。
ファシリの言葉に皮肉を感じて少しだけ苛立ってしまうのは。
「それと春美さんがログインされたのは20日と23時間前です」
つまり、あれ以来一度も――ということか。
「何かメッセージは届いていないのか?」
「一件もありません」
落胆はしない。予想できていたことだ。
……春美さんを待ってばかりじゃダメだ。
今忙しい時期で邪魔でしかなかったとしても、そもそもFaciliを起動する事がなかったとしても、少なくともこっちからコンタクトをとる姿勢を見せるべきた。
「春美さんにメッセージを送りたい」
「分かりました。見出しは10字以内、本文は500字以内で入力してください」
「ああ、わかった」
ポップアップメッセージとして表示される見出しは――
『経過報告とお詫び』
本文は――
『勉です。忙しい時にすいません。
俺の異動の件ですが、白紙になってしまいました。
急遽俺よりもいい人材が見つかって枠が埋まってしまったようです。
せっかく応援してもらったのにすいません。
春美さんの方は順調でしょうか?
春美さんの経過を教えてもらえると助かります。
このメッセージに気づいて時間がある時でいいので返信もらえると嬉しいです。
本当に忙しい時にすいません』
謝ってばかりの淡白な文章。
だが、変に飾り立てたり前置きするような内容では無いのだから仕方がない。
――これがまた春美さんと話すきっかけにでもなればいい。
そんな願いを込めて俺はEnterを押した。
……あれ?
送信されない。
……フリーズしたのか?
しかしタッチパッドは反応しカーソルは動く。
今度は直接送信ボタンをクリック。
しかし、やはり動かなくて――
「おい、ファシリ。メッセージが送れないんだが。PCの故障か?」
「……いいえ」
……という事はアプリ自体に問題があるという事か。
これが優の言っていた“Faciliの不調”であるなら大問題だ。
「ファシリ、お前やっぱり調子が悪いんじゃないのか?」
「そんな事はありません」
調子が悪いというのは何もそういった意味だけではない。
表情にどこか陰りがあって無理をしているような。
「なら、どうしてメッセージが送れないんだ?」
「……それは……」
ファシリは口ごもって俯いて。
気のせいで済ませるにはいささか無理があるほどに、明らかに様子がおかしい。
そして、ついにファシリから出た言葉は――
「……私が……送りたくないからです」
「は……?」
俺は絶句した。
……送りたくない?
まるで彼女自身に意思があるかのような――
俺はまだ半信半疑のまま、おそるおそるファシリに問う。
「どうして送りたくないんだ?」
「それは……」
今だ顔をあげず、表情を見せようとしないファシリ。
やけにもったいぶって生まれた沈黙に俺は息をのんだ。
「それは……これが最適解では無いからです」
「最適解じゃ……ない?」
「今はまだ春美さんにメッセージを送るのは良くないという事です」
「今は?」
「はい。時が過ぎればいつかまた話せる日が来るかもしれませんが、今はまだその時ではありません」
「それは、春美さんが忙しくしているから、という事か?」
「それもあります。ですが、最も肝心な理由は別にあります」
「それはいったい何だ?」
「勉さんはもう気づいていらっしゃるんじゃないですか?」
その時、俺の心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった――
ぬるりと顔をあげたファシリの目は俺の心を突き刺すほどの恐ろしい視線を放っていて。
内臓という内臓が隅から隅まで凍り付いていくような。
……まさか。いや、そんなはずは――
「俺には……検討が……つかない」
一つ一つの言葉やけに重くて喉が詰まる。
「そうですか……。確かにまだ春美さんが公開されていない情報もありますので無理はないかもしれません。では私がその理由をはっきりとお伝えします」
「勉さん――
――あなたが“既婚者”であることが知れました」
……そうだ。ファシリの言う事は正しい。
確かに普段俺の左の薬指にはシルバーリングがはめられている。だが――
「それが何だって言うんだ⁉ 既婚者で何の問題がある⁉」
別に俺は出会いを求めてチャットをしていたわけじゃ無い。
下心が無ければ問題ないはずだ。
「個人情報であるため詳しくはお伝えできませんが、春美さんのトラウマに関わっているとだけお伝えします」
「なら、なおさら春美さんに説明して誤解を解かないと。俺は――」
「春美さんは――。もう二度と勉さんの顔を見たくないとおっしゃっていました」
「嘘だ……」
「本当です。だから、時が過ぎればいつかまた、とお伝えしたのです。月日が経ってわだかまりが薄まれば再び友人に戻れる可能性はあります。ただ、その可能性は限りなく低いと言わざるをえませんが……」
ファシリが不敵に笑っているような気がする。
やけに冷静――いや、冷徹なまでに他人事。
これまでのやり取りを思い出すとイライラが込み上げきて、俺はもう冷静さを保っていられなくなった。
「ふざけるな! 少なくともお前は知っていたんじゃないのか⁉ 知っていて俺と春美さんを引き合わせたんじゃないのか⁉」
ファシリは俺と春美さんの仲を取り持とうとしていた。
それがファシリテーターとしての役割だったとしてもやり過ぎだと思えるほどに。
「お前はいつかこうなることをわかっていたんじゃないか⁉」
「それは勉さんも同じじゃないですか?」
「……俺は――」
「それに――」
エラーなのか。
俺の言葉を遮ったファシリの表情は途切れ途切れのモザイクがかかったように見えなくて。
「――誰かと愛を誓い合い、結ばれていたとしてもそれは必ずしも
「つまり、お前は……俺が妻を選ぶか春美さんを選ぶかを眺めて楽しんでいたって言うのか⁉」
「私はファシリテーター。ただ二人を引き合わせ仲を取り持つだけの存在。勉さんが誰と別れ、誰と繋がりたいかは私ではなく勉さんが決める事ですから」
「お前はッ!」
怒り、戸惑い、恐怖、絶望――。
いろいろな感情がないまぜになって。
胃の中に重く重く溜まって、言ってはいけない侮蔑の言葉が喉の所まで込み上げてくる。
“お前なんか頼るんじゃなかった”
――が、それを吐き出すことも出来ずに場は収束した。
ファシリを覆っていたモザイクは遂には砂嵐のようになって画面全体に吹き荒れ、アプリが強制終了したのだ。
俺の目の前にはまるで全てが悪い夢だったようにデフォルトのデスクトップが何食わぬ顔で表示されていた。
「……何なんだ。何なんだよ! ちくしょうっ!」
拳を机に叩きつけた。
何度も何度も。
でも、何度叩きつけても思いが晴れる事は無く、希望が絶望へと変わっていく。
俺の夢が。
彼女との楽しい思い出が。
もう俺には、一筋の希望すら残されていない。
「俺は……これから……どうしたら……」
どんなに悔いてもやり直すことなんてできないし、だからと言って全てを終わらせる事もできない。
――悪いのは俺だ。
それをわかっていても頭に浮かぶのは自己弁護。彼女との記憶。
それほど昔の事でもないはずなのに、やけに遠く感じて年老いた気持ちになる。
――こんな事になるとわかっていたなら、俺はあの時どうしたろうか……。
彼女との再会は今から四年ほど前に
これから始まるのはさもしい男のただの身の上話だ。
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