Sweet temptation. 2



「んー……。ん?」



 ……あれ、ここどこだっけ。



 霧がかかったように霞んだ視界が少しづつ鮮明になってきて。


 暖簾のれんに椅子にカウンター。

 火照った左頬をなでていく隙間風が冷たくて気持ちいい。


 ただ、何かが変だ。まるで世界が90度ずれているような。



 ……あ、ずれてるのは俺か。



 カウンターに頬を乗せていつの間にか寝てしまっていたのだと気づく。


 やけに体が気だるくて上から鎖帷子でも掛けられてるんじゃないかと思えるほど。



 ……えーと、思い出せ。俺はここで何してたんだっけか。



 確かビールを飲んでそれから――



 ……ああ、そうそう。あのレモンチューハイのアルコール濃度が思ったより高くてなんか気持ち良くなってきて……あれ、そのあとどうしたんだっけ?


 それ以上思い出せず、とりあえず重たい体を何とか起こし、辺りを観察する。


 机の上には食べかけの皿が四つ。


 ……あ、そうだ。確か無性に腹が減ってきて追加で食い物を頼んでそれで飲み物も足りなくなって……て、あッ⁉



 ――まて⁉ 俺はいったい何杯飲んだ⁉


 机の上には飲みかけのビールジョッキしかないのでわからない。



「おっようやく起きたか兄ちゃん」


「あ、どうも」



 ……いや、そんな事より今何時な――



 『10時50分』



「うあ⁉ まずい!」


「まずいってあんなにおいしそうに食ってたじゃねえか兄ちゃんよ」


「いや、そう意味じゃ……って、すいません、一万円しぶさわえいいちで足りますか⁉ 釣りはいりませんので!」


「お……おお、まあ足りるが。兄ちゃん、キャッシュレスの現代社会で現金払いとは粋だねえ。しかも、釣りはいらねえとは……ってもう行っちまいやがったか」





 ――まずい、まずい、まずい! 走れ、走れ、走れ!


 

 ……くそ、まだ頭がくらくらする。



 耳の近くを流れる血管の拍動がうるさい。


 きっと春美さんの事だから時間を過ぎても待ってくれているはず。


 だけど、そんな彼女の優しさにつけこむなんて。しかもこんなくだらない理由で。



 ……とにかく一秒でも早く! 彼女を待たせるな!



 



 


 マンションまで全力疾走で走った俺は、玄関のドアを吹き飛ばす勢いで開けて帰宅した。




 俺はまっすぐにローテーブルへ向かい、スリープモードにしていたノートPCを起動する。



 時間は11時00分ジャスト。



 ……よし。何とか間に合った。



 息はまだ少し荒いがエレベーターで上昇中に少し回復できた。


 ファシリを起動している間にモニターを鏡に見立てて髪型を整える。


 と、ファシリが現れて、



「お帰りなさい。勉さん、少し顔が赤いようですが大丈夫でしょうか?」


「ああ、問題ない。それより春美さんはもうログインしてるか?」


「はい、30分程前からスタンバイされていたご様子です」


 かなり待たせてしまったみたいだ。


 ……吉報を伝えたくて早くにスタンバイしていたのか。いや、逆の可能性もある。 


 ファシリに聞けば済む話かもしれないが、それは違う気がする。


 とにかく一刻も早く会いたい。



「ライブチャットを繋げてくれ」


「分かりました」



 ロード画面の間に最初の出方を考える。


 とにかくサインを見逃さないように春美さんの表情や雰囲気を良く観察しなければ。

 


 そう覚悟を決めて、覗くカメラの向こう側は――




「こんばんわ、勉さん」


「こんばんわ、春美さん。遅れてすいません」


「遅れたなんてそんな……気にしないでください」



 ここまで、春美さんは笑顔を絶やさずにいるし、表情も穏やか。

 仮眠をとったのか目の周りの疲れも取れている。


 これは上手くいったということだろうか。


 しかし結果に関わらず、やり切った後の吹っ切れた状態なのかもしれない。



 春美さんの気持ちになって考えてみる。



 そうだ。以前、俺が服部部長に異動願いを受理してもらった時の報告では、是非がわからなくて反応に困っていた。


 だが、今は笑っている。


 ……えーと、つまりこれはどういうことだ?


 とても嬉しい事があったから抑えきれず笑みをこぼしているのか。

 それとも俺が笑いかけているからミラーで返しているだけなのか。



 だめだ、アルコールが残っているせいか頭が今一つ回らない。


 

 そして二人とも穏やかな笑顔のまま硬直状態へ。




 ……く、苦しい。



 このままでは埒があかない。

 


 ……よし、まず俺から報告しよう。


 春美さんの結果がどちらであれ、先にさらっと何気ない感じで言ってしまえば後腐れないはず。



「春美さん、俺の結果から報告しても良いですか?」


「はい、お願いします」


「はい。異動がほぼ決定しました」


 すかさず“春美さんは?”と聞こうと思ったが、春美さんの満開の笑顔に見とれてしまって言い損ねてしまう。

 


「よかったぁ! 勉さんなら必ずやり遂げるって私……信じてました!」



 そう言うわりに、大粒の涙を流すほどに心配してくれていた春美さん。



 この時の彼女の笑顔は何物にも代えがたい最高の祝福だと心の底からそう思えた。

 


 そんな風にして見惚れていると春美さんがぼそり言葉をこぼす。



「勉さんの夢がこれでやっと叶うんですね……」


「きっと春美さんに出会わなければ俺はマイナス思考の海に沈んだままだったと思います。それに――」



 ……そうだ。さらっと流すなんて春美さんに失礼だ。


 これまでの感謝をちゃんと言葉にして伝えないと――



「――この半年にも満たない期間が俺にとっては人生で一番満ち足りていて、春美さんと過ごした一つ一つの瞬間が俺なんかにはもったいないようなものばかりで……」



 これまで上手くいかなくて捻くれてばかりいた惨めな記憶が次々に浮かんでは消えていく。

 そしたら急に熱いものが込み上げてきて、

 


「……本当に……これまで……こんな俺を支えてくれてありがとうございました!」



 と、喉の奥が苦しくなって声が出なくなる前に勢いに任せて言い切ってしまう。


 涙が溢れて止まらない。


 こんな顔を春美さんに見せたくなくて俺は俯いて、体が震えるのを押し殺す。たとえ無理だとわかっていても。




「勉さん、私は嫌です」


「えっ?」



 春美さんの沈んだ声に、思わず涙渇かぬ内に顔をあげてしまう。


 彼女の瞳にはいっぱいの涙が浮かんでいて、口も引き結ばれて歪んでいて。

 春美さんの方が俺なんかよりきっと人に見せたくない表情のはずなのに、涙で滲んでろくにピントも併せられないはずなのに。


 その瞳はまっすぐに俺を捉えていた。



「……ありがとうございましたなんて、もうこれで終わりみたいな言い方は止めてください……私はこれからもずっと勉さんと……一緒に……一緒に……」



 俺は何てことを言ってしまったんだと後悔した。

 そんなつもりじゃなかった。俺だって同じ気持ちだ。



「俺も……これで終わり何て思ってません。いや、終わらせたくない……俺は春美さんと――」



 さしでがましいのは分かってる。

 

 だけど、肝心な事を伝えきれていない。


 そんな気がして。もどかしくて。



 俺が本当に伝えたいことが何なのか、それが少しだけわかりかけてきて――




「勉さん。私勉さんに伝えたい事があるんです。私、勉さんの事が――」






 そこで彼女の言葉は途切れてしまった。





「春美さん? どうしました?」


「……あの、ウェブカメラの調子が悪いみたいで勉さんの顔が見えなくなってしまいました」


 確かに眼球を模した可動式のウェブカメラが下の方を向いている。これでは手元しか映っていないだろう。


「分かりました。今手動でカメラをリセットしてみますので……」



 急いでパソコンの設定からカメラを初期状態に戻す。



「どうでしょう、春美さん。ちゃんと映って――」



 俺が言葉を途切れさせたのは春美さんの雰囲気が“異常”だったからだ。


 俯いて表情が見えなくて、だけどさっきまでのすすり泣くような声も体を震わせる事もなく、ただ静かにたたずんでいる。


「あの……どうかしました? 春美さん?」



 呼びかけてみたがすぐに返答がない。微動だにせず、ずっと下を向いていて。


 と思っていたら、急に口を開いた。



「すみません。今日は疲れたのでもう寝ます」



 緊張が解けて溜め込んでいた疲れがどっときたのだろうか。

 春美さんの結果をまだ聞いていないが無理に急かすことではない。

 また体調が戻ってからゆっくりと聞けばいい。


 

「……はい、わかりました、ゆっくりと休んでくだ……さい」



 余程疲れていたのか、俺が言い終わる前に通信を終了してしまった。



 PCを閉じて、最後の春美さんの様子を振り返る。


 すると何か取り返しのつかない事をしてしまったような。そんな漠然とした焦燥感に駆られる。



 ……いや、きっと気のせいだ。



 思い出したように全身の倦怠感が襲って来て、今はそれ以上考えられず、フカフカのベッドに吸い寄せられるようにして倒れこむ。



 ……そういえば今日はまだ風呂に入っていない……な……でも、まあ、いいか……明日朝に……して……それ……から……




 俺は抗う事もできずに深い深い眠りへと落ちていった。

 

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