Sweet temptation. 1


 2月16日。



 俺の誕生日であることはもはやどうだっていい。

 重要なのは俺の異動と春美さんの試験結果だ。




 二人の命運が決まる今日と言う日。

 普段通り出社した俺は自分のデスクの前で立ち尽くしていた。





 机に置かれた橙色の封筒。表には社内通知とだけ印字されている。


 給与明細の封筒は薄緑色。なのでこれは恐らく――




 封筒に親指の腹を乗せ、人差し指で封筒の角を掬い取るようにして摘まみ上げる。


 鋏を片手にとり封を切って、




 ……くそ。




 折りたたまれた紙を引き出す手が震える。


 何となく周りから視線が集まっている気がして、平静を意識するあまり逆に体の緊張が増してしまっている。


 それに、今日春美さんに報告する事を考えると余計に。


 ……彼女だけ合格して俺が落ちていたらどうすればいい?


 ……その逆は?


 片方だけ落ちるくらいないっそ両方が、なんて愚かすぎる考えまで頭を過り思考が乱され、恐怖が募る。



 ……いや、俺は何を考えてるんだ。


 二人とも受かるのが一番いいに決まっているし、それを春美さんも望んでいるはずなのに。



 体に染みついたマイナス思考は俺が自覚している以上に重症らしい。



 ……ここで負の連鎖を断つんだ。思い出せ、プレゼンしたときの手ごたえを。春美さんに支えられ過ごしたあの日々を。



 俺は受かってる。きっと……いや、絶対に――



 







 “開発部への異動希望が受理されたことをここに通達致します”




「……っしゃあ!」


 ……あ、声に……。



 視界を覆っている通達書をおそるおそる下げ、覗き込むように辺りを確認する。


 みんなそれぞれが机に向かい、自分の仕事に集中している。と、見せかけて肩が笑っている。押し殺したような笑い声さえ聞こえる。


 顔が熱くなって赤面するのが自分でもわかって、通達書をマスクにしたまま腰をおろす。


 寡黙で真面目な模範社員として通っている俺のキャラが今崩壊した。

 いや、それは服部部長に嘆願したときにとっくに崩壊していたか。



 そう思うと多少は気分が紛れてきて、マスクを引きはがす余裕が生まれた。



 改めて書面を眺める。




 今度は落ち着いて注意書きまでしっかりと。



“開発部への異動希望が受理されたことをここに通達致します。



       (※これは暫定結果です。正式な通達は後日改めて通達します)”




 俺が知る限り暫定結果が覆された前例はない。

 つまり、これは実質上の最終通達だ。


 気分が落ち着いたところで、服部部長に改めてお礼を伝えてから席に戻る。



 ……これで春美さんに良い報告ができる。


 

 安心したのは束の間今度は春美さんの事が気になってくる。


 今、春美さんはいったいどんな気持ちで過ごしているのか。


 指導教諭に作品を批評してもらうのは確か放課後。


 いっその事授業を全部さぼって最後の最後まで作品の仕上げにかかってほしいとさえ思うが、春美さんの事だ。きっと真面目に授業を受けているに違いない。


 納得のいく作品ができて覚悟を決めて構えているのであればいい。

 だけどもしかしたら不安と焦燥感に駆られて辛い時間を過ごしているのではないか。


 そう思うと、俺まで不安で胸が締め付けられような気がして落ち着かない。


 それにやけに時計が気になってしまって――




 そんな風にして長い一日が過ぎていった。

 



 


 帰り道。電車に揺られながら、これから報告会までどうやって過ごすかを考える。



 夕食がてら礼を言うために優を誘おうと思っていたが、忙しさを理由に断られた。

 まあ、Faciliの調子が悪いと言っていたので、そのメンテナンスや調整に奮闘しているのは容易に察しが付く。

 原因が突き止められず、万が一システム急停止にでもなれば会社の信用はがた落ち、せっかく上り調子のAI部門の勢いを削ぐことになる。


 ……俺が手伝ってやってもいいんだが。……ってそれはさすがに気が早いか。

 

 

 駅を出て、夕食をとる場所を探しながらぶらぶらしていると前に優と入った居酒屋がふと目に入った。


 ……そういえばこの前食べ損ねた串カツ旨そうだったなぁ。


 時間的にはまだそれほど腹は減っていない、だからこそ逆に居酒屋で二品くらい喰らって、夜食に何かをつまむぐらいがちょうどいい。

 などと、適当な理由を見つけて、暖簾をくぐった。


 

 和風ダイニングなんておしゃれなものじゃなくて、良く言えば伝統的な良い感じに寂れた大衆居酒屋。



 予想通り客は少ない。


 通路は狭いが奥には広々とした四人掛けの個室が見える。


 こういう店で食べるときはなるべく一人で落ち着いて過ごしたいので、カウンターではなく個室を選ぶ事が多いのだが、今日はなんとなくカウンターをチョイス。


 メニューを手に取り、黒板に手書きされた本日のおすすめも一応チェックするが、初めに注文する物は決まっている。


「すみません。串カツの盛り合わせを一人前」


「へい。お飲み物は何に致しやしょう」


 ……飲み物か。


 “水で”と言おうと思ったが、実は前に優がおいしそうに飲んでいたレモンサワーが気になっている。


 報告会が控えているのは分かっている。

 だが、今日は春美さんの都合で夜の11時から。

 チューハイの一ぐらいならアルコールも抜けているはず。


 それに今日はなんだかんだ言ってめでたい。


 自分にご褒美をあげたって罰は当たらないだろう。



「じゃあ、レモンサワーを」



 それから十数分後――。


 香ばしい香りを放つ、こんがりきつね色の衣。

 表面の油がまだ熱を帯びチリチリと音を立てている。


 ……まだおなかが減ってないなんて幻想だったな。


 と思えるほどに食欲を掻き立てられる。


 ……だが、まだだ。



 まずはクーッと一杯だ。



 レモンの爽やかな香り、パチパチと跳ねる泡が俺を誘う。

 キンキンに冷えたグラスを手に取り、最高の一口目を渇いた喉に叩きつける。


 ……クゥーッ! この爽快感が……て、あれ――。


 何かの間違いかと思ってもう一口。


 ――嘘……だろ。



 爽快感は確かにある。だが、それ以上に――



 ……なんだこの甘ったるさは。



 飲み込んで喉元から込み上げる炭酸独特の苦しさにも似た感覚、それが指数関数的に膨らみある閾値を超えた際に感じる最高の爽快感。だが、このレモンサワーはその一歩手前で甘さが自己主張してくる。まるで喉に甘さの膜が張り付いたように。


「お気に召しませんでしたか? 若者には割と人気なんですがねぇ」


「いえ、ちょっと変わった味だと思っただけで、十分おいしいですよ」


 おいしそうに飲むふりをしてとりあえず杯を干す。



 ……はあ、そうだった。勉は極度の甘党だった。


 思わぬ誤算に出鼻を挫かれてしまいテンションが下がる。



「次、何か飲まれます?」


 一杯だけにしようと思っていたが、これではあまりにも不完全燃焼過ぎる。

 もう一杯だけなら大丈夫だろう。


 ここはチョイスをミスれない。


 となれば、ここは外れの無いアレしかない。


「生ビールを一つ」


「へい」


 オヤジが微妙に気を利かしてくれたのか、秒で生ビールが出てきた。


 これなら、まだアツアツ串カツとビールのコンボを楽しめる。



 それでは改めて。



 ――いただきます!

 

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