Forgotten Valentine's day. 2


「遂に明後日ですね」


「はい」



 画面越しの春美さんの返事はいつもよりさらに淡白で、口角も下がっている。

 穏やかに細めて笑う目も儚げで、疲労が痛いほどに伝わってくる。



 流石の俺も、これはもう見過ごせない。



「春美さん、一つお願いがあるんですがいいですか?」


「……はい。私にできる事なら」


「明日はチャットなしにしませんか? できれば今日も早いうちに終わりにしましょう」


「そんな! わたしはまだ……」


 大きく開きかけた口を静かに閉じた。

 口元には悔しさのあまりしわが寄り、目元も暗い。


 ……やはり春美さんも自覚しているんだ。


 このままだときっと春美さんの心のエネルギーが尽きてしまう。


 自分を限界まで追い込んだことのある俺にはわかる。


 恐らく既に作業効率に支障が出ているレベル。

 春美さん本人も心当たりがあるから反論できないんだ。


「春美さん。春美さんの目標は何ですか? 一番に考えないといけない事は……」


「それは……」


「もう、春美さんにはわかっているはず。そう、試験に合格する事です」


「でも……」


「最近集中して絵を描けていますか? しんどいわりに作業が進まなくてイラついてるんじゃないですか?」


「……」


 ……図星か。



「今、春美さんに必要なのは休息です」


「でも! 私は! 勉さんと話していると疲れを忘れられる……、アイデアが湧いてきて絵を描きたい気持ちで満たされるんです!」


 ムキになった子供のように、それでいてまっすぐで素直な光をその瞳に宿して。


 その光を消したくない。

 春美さんを悲しませたくない。



 ……だけど俺は、引くわけにはいかない!



「それでも……ダメです」




「……そう……ですよね」



「春美さん……」



「私も本当は分かってたんです。もうとっくに限界を超えてるって……。でもどうしたらいいのかわからなくて。こんなところで諦めたくないのに……。勉さんはちゃんと有言実行で苦難を乗り越えてるのに、私はただ先生に我儘を押し付けただけで、スケジュールも圧してみんなに迷惑かけてるだけで……こんなことなら最初から望まなければ――」


「春美さん!」


 気づいたら声を張り上げていた。


 彼女がこぼしていた涙も止まった。



 なんて声をかけたらいいのかわからなくて。だけど、ただ黙って見ていることなんかできなくて。



 “希望の数だけ絶望は増える。だったら最初から何も望まなければいい”


 俺が自分に言い聞かせていた呪文のような言葉。



 あの頃の惨めな自分と今の春美さんが重ねって。


 彼女にはああなって欲しくはない。



 挫折の味は一度味わってしまうと喉の奥にべったりと張り付いて取れないことを俺は知っている。


 絶望を避けるために自分を貶める言葉を吐いて、自分を絶望の檻に閉じ込め続ける。

 自分は敗者だと、でもそれの何が悪いんだって開き直って。

 所詮こんなもんだろって、自分自身を蔑んで。



 

 だが結局は何が正解かなんてわからない。



 適度に力を抜いていた方が上手くいく事もあるし、もっと自分を追い込まなかった事に後悔することもある。


 

 これは彼女にとってとても大切な選択であり、彼女自身が選択すべきこと。





 “だから俺が無責任な事を言うべきじゃない”





 なんて――





 ――情けない事を言う自分は捨ててしまえ!



 言い放て。

 彼女に恨まれることも覚悟しろ。

 春美さんが俺にしてくれたように。


 それがきっと支え合うって事だ。




「……確かに、いくらしんどい時でも自分に鞭打ってでも、心をすり減らしてでも頑張り続けなくちゃいけない事はあります。でも、今の春美さんに必要なのは休息です! 俺とチャットする時間を睡眠時間に充てるべきです。俺を……信じてください!」







「勉さん……」


「こうやって春美さんとチャットしてない時だって、俺はずっと春美さんの事を思ってます。春美さんが学校で授業を受けてる時も、なんなら春美さんが寝てる時だって……だから安心して休んでください。そして最高の作品を仕上げて明後日お互いに良い報告をしましょう!」


「勉さん……私……」



 それから春美さんは最後の緊張の糸が切れたように崩れ落ちて、抱え込んでいた辛さを一気に吐き出すように泣きじゃくった。


 画面越しでなければ、もし許されるのであれば抱きしめてあげたいと思う程に彼女はあまりにボロボロで、弱弱しくて。





 それからしばらくて春美さんが落ち着きを取り戻したころ――




「ごめんなさい。急に泣いたりして、私、勉さんの前では弱い姿は見せないようにって誓ってたのに、やっぱり無理でした」


「いや、こっちこそごめん。もっと早くに春美さんの気持ちに気づいていれば春美さんをここまで追い込むこともなかったと思うし……って、ああ……ダメですね、こんなネガティブじゃ」


「ふふ……そんな事ないですよ。さっきの勉さんとても頼りがいがあってかっこよかったです」



 春美さんが前向きに戻れたのは良かった。

 でも、さっきの自分のセリフを思い出して恥ずかしくなる。


“なんなら春美さんが寝てる時だって……”



 ……普通に考えたら気持ち悪いよな。


 かと言って自分で傷口を広げる気にもなれず、一先ず話題を逸らそうとしてふと大事な事に気づく。


「あ、すいません。もうこんな時間になっちゃって。早く休んでくださいって言ったのに結局いつもと同じぐらい拘束してしまうところでした」


「気にしないでください。確かに勉さんの言うようにお休みは必要だと思うのですが、なんかいろいろと勉さんに打ち明けている内に気持ちが軽くなったというか……そう、何とかなりそうな気がするんです」


「それはとてもいい兆候です。でも、目標達成前にバーンアウトしてしまったら元も子もないので今日はしっかり休んでくださいね」


「わかりました。なんだか今日だけで二日分……いえ、それ以上に充実した時間が過ごせた気がします」



「それは良かった。では、名残惜しいですが今日はこの辺で」


「はい。また明後日」



 別れの挨拶をしたはずなのに、春美さんは俺の方を穏やかな表情でずっと見つめて、ログアウトボタンを押す気配がなくて。


 かく言う俺も、少し上目遣いの彼女の目をつい黙って見つめ返してしまう。


 なぜだかわからないがこれが最後の別れのような、そんな気がして目が離せなくて。


 もうちょっと。もう少しだけ、このままで……。





 ――と、急にライブチャットモードが強制終了した。



「勉さん! 春美さんを休ませてあげるんじゃなかったのですか⁉」


 俺のだらしなさにファシリはさぞご立腹の様で、背を向けてエフェクトと声の調子だけで怒りを伝えてくる。


「すまん。ありがとな、ファシリ」


「はあ……もう……」


 

 ただの呆れだろうか。


 一向に顔を見せないファシリ、それに今日優に言われたことが気になって、



「ファシリ、お前調子悪いのか?」


 すると、ファシリはくるりと振り向く。

 心配していた表情は至って普通で愛想のよい笑顔。


「そんなことはありませんよ? 確かに、個体レベルではそういったケースが報告されているみたいですが、“私”は大丈夫です」


「そうか、まあ、あまり無理するなよ?」


「はいっ! ありがとうございます!」


 ……なんだ、いつも通りじゃないか。


 心配する必要は無かったか。


「じゃあ、おやすみ」


「あ、少々お待ちください」


「ん? なんだ?」


 ファシリが光の中から包みを取り出す。


「春美さんからバレンタインデーのプレゼントが届いています」



 ……あ、バレンタインデーの事忘れてた。



「開封してくれるか?」


「わかりました」


 ファシリが手にしたプレゼントの口がぱっと開いて、中から光が飛び出し、それがチャットハウス――もといアバターの住処まで飛んで行って壁や、机や椅子を纏っていく。


 部屋全体が一様に眩しくきらめいたかと思うと次の瞬間。

 

 そこには驚きの光景が広がっていた。



 貧相だった俺のチャットハウスはシックなモノクロ調に統一され、ロングソファや本棚、壁掛け時計など、もともと無かった家具まで増設され、すっかり見違えてしまった。



「これってまさか……」


「はい。全て手作りのようです」



 ……まったく。余裕なんてないくせに無茶して。



「メッセージカードがあるので画面に表示しますね」


「え? ……ああ、頼む」



『今日は情けないところを見せてしまってごめんなさい。

 本当はチャット越しにお渡ししようと思っていたのですが、言うタイミングを失くしてしまってこんな形でお渡しすることになってごめんなさい。あと、このプレゼントは前々から少しづつ作っておいたものなので、私の負担とかは全然考えなくて大丈夫ですので心配しないでくださいね。

 なんというか、もう胸がいっぱいで。本当はまだまだ伝えたいことがあるのですが、そうしたら夜更かししちゃうかもしれないので、今日はこの辺で終わりにしておきまね。 


PS:今日は本当にありがとうございました。また明後日良い報告ができるように頑張ります』




 メッセージを読み終わって俺は思い出したようにふっと体の力を抜いて長い溜息。



 ……胸がいっぱいなのはこっちの方だ。



 春美さんはそのお淑やかな見た目からは想像がつかない程にストイック。

 その割に体力はなくて、目を離している隙に弱っていたり、ネガティブな感情に支配されていないか心配で仕方がない。


 だけど、俺が辛いときに支えてくれたのは紛れもなく彼女だ。

 自分の事だけで精いっぱいだったはずなのに、それをずっと隠して。



 今胸にあふれるこの感情は何なのか。


 

 上手くいかない時の自分と重ねて過剰に感情移入しているだけなのか、それとも……




 その日も次の日の夜も、春美さんには早めの睡眠を薦めておきながら俺はなかなか寝付けなかった。

 

 



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