Starting Over.



 運命の日を迎えた。



 今日は朝からずっと晴とも曇りともつかない微妙な天気。

 世界は俺が企てた思いを知ることもなく、ただ普段通りに過ぎていく。


 そして、俺もその日常に逆らわぬようにひっそりと息を潜ませる。



 あえて異動申し込み期限最終日を選んだのには理由がある。



 俺はこれまで毎年のように異動希望を服部部長に申し立てていた。


 だから体に刷り込まれてしまったのだろう、部長はこの期間中、俺の気を察して気構えては話を逸らしたり、そもそも俺に話しかけられないように早めに帰宅してしまうなど露骨に俺を避けていた。



 その反省を踏まえてのこの二週間――



 休憩時間でも、終業前のわずかな時間でも、そのそぶりを見せないようにただただパソコンと向かい合い、なんなら部長よりも早く帰ってやったりもした。


 そして今日もそのはずだと部長は思っている。

 いや、むしろ俺のことなど気にも留めていないかもしれない。



 俺はその虚をつく。


 とにかく“イエス”と言わせるために。




 現在の時刻は16時50分。


 ほとんどの社員が帰宅準備を始める時間で、ちらちらと席を立つ音が目立ち始める。



 俺はコーヒーを飲むふりをしながら目が合わないように周辺視野だけで部長を捉える。



 ……よし、まだ帰る準備は始めていない。



 部長は責任感が強く、普段なら他の社員がほぼ全員帰宅する17時15分頃まで残る。



 可能な限り、部長とは一対一の方がいい。


 だから狙うは17時10~15分頃。

 部長が席を立ち部屋を出ようとしたところを後ろから。

 あるいはこちらから忍び寄って正面から。

 もし逃げようとしたらオフィスの出入り口に回り込んでイエスと言うまで帰さない。


 まるで獲物を見定めた猟師のような心持ちで待機する。






 が――



 ……そんな、まだ早すぎる。



 部長が荷物をまとめ始めたのは16時55分。


 室内にはまだ社員が半数以上残っている。



 こんな状況で玉砕でもすれば、良い笑いものだ。



 そうして頭を抱えている間も、部長は一歩また一歩と着実に歩みを進める。


 

 ……どうする⁉


 エレベーターの中で? いや、他の社員が乗り合わせる可能性が高いし、二人きりになれたとしてもロビー階に着くまでに話をつけなければならない。


 どこか別室を準備してもらって? いや、どう考えても不自然すぎて断られるのが目に見えているし、それがわかっていたからこうやって作戦を立てたのに。



 そして部長はとうとう俺のデスクの横を通り過ぎて――。



 ……ダメだ、ダメだダメだ! こんなところで終わらせてたまるか!



「部長!」



 椅子を蹴り飛ばすほどの勢いで立ちあがり、荒げた声に視線が集まる。



「な……何か、ようかね?」



 一瞬、眉を吊り上げるも、すぐに落ち着き払って問い直す部長の目を見て俺は悟った。




 俺の計画は見透かされていた――




 “ここでその話はよすんだ”と言いたげに俺にだけわかるように小さく首を振っている。



 できるなら俺だってそうしたい。

 穏便に、スマートに、大人らしく、事を荒立たせずに。



 ……いや、ダメだ。それじゃ今までと何も変わらない。



 またあの日常に戻るのか?

 中途半端に夢を引きずって、ただやり過ごしていくだけの日常に。



 ……それは……嫌だ、俺は……変わりたい。



 しかし、心の中でいきり立つだけで口はひき結んだまま痺れたように動かせない。


 これまで断られ続けた記憶が次々と蘇り、その重さに押しつぶされそうになる。



 だけど自分の本心は隠せない。それは自分自身が一番良くわかってる。



 でも、今勢いに任せて自分の欲望を吐いてしまえば、これまで積み上げてきたものをすべて失ってしまいそうな気がして――。



 

 “広報部だって十分やりがいのある仕事だ”


 “人にはそれぞれ役割がある。だからこれも決して間違いじゃない”


 “ただ与えられた事をやり続ければいい。みんなそうやって生きてるはずだ”


 ……




 これまで吐き連ねてきた、体のいい言い訳が頭の中を埋め尽くしていく。




 ……俺は結局前に進めない。きっと何もかも上手くいかない。




 そうして徐々に思考まで麻痺して来て頭の中が真っ黒に染まっていく。




 ……情けない。俺はこんなところで……






 俺は“彼女”と――





 ……そうだ。俺は彼女と約束したんだ。





 真っ黒な世界に彼女と交わした言葉が浮かんで――


 

 俺の体に重い鎖のようにまとわりつく自己暗示の呪いをかき消していく。




 彼女が俺に送ってくれた言葉を、表情を、声を、頭の中で反芻はんすうさせると不思議なほどに視界がクリアになっていく。



 絶体絶命な状況なのに、やけに冷静で、世界が色を取り戻すどころか今まで思いもつかなかった着想が――



 ……そうだ。俺は追い詰められてなんかいない。むしろ、この状況を……。




 そして麻痺は解けた。



「部長! 俺を開発部へ推薦してください! 俺にはやりたいことがあります! それはここでは叶えられない事なんです!」



 室内どころか廊下にさえ響き渡るくらいの声で叫んだ。


 頭は下げない。

 部長の目から視線を逸らさないために。



「は、はは……こ、困るよ、真鍋君。逆ならともかく開発部への転属は……ほら……ね、色々と難しくてだね」



 ……それはもちろん分かっている。部長クラスでも序列があることも。俺を推薦することで煙たがれる事も。

 部下の目から見たって要領が決して良いとは言えない服部部長がどれだけ苦労して今のポストを手に入れたのかも想像に難くない。それでも――。



 いつもはここから前に進めなかった。



 でも今は、“彼女”の言葉がそばにある。




 “あとほんの少しだけ――に”




 部長がどんな荷物を抱えているかなんて関係ない。


 人にどう評価されようが知った事じゃない。



 ……積み上げたものを全部犠牲にしたって手に入れたいと思うから、俺は、ここにいるんだ!

 



「……部長、お言葉ですが社内規則第18条7項をご存じでしょうか?」



「い……いや、すまないが……私は……」



 ……反証する隙を与えるな。



「会社が既定する特定期間中に転属願いが出された場合、直属の上司はその求めに応じ、適切かつ公正な対応をとらなければならない」



「うっ……それは……」



 ……あと一押し。躊躇ちゅうちょせず畳みかけろ!



「部長! これが適切で公正な対応と言えますか! 俺の目を見て答えてください!」



 自分でもなんて下衆げすな作戦を考えついたものだろうと思う。

 


 社内規則には“対応”というどうとでも解釈できる曖昧な言葉で書かれている。

 だからこれを一対一で主張したところで有耶無耶にされてしまう可能性が高い。



 ――だが、今は大勢の目がある。



 そして、部長は責任感が強く、気が小さい。

 他部署との軋轢あつれき以上に部長が恐れているのは部下からの信頼を失う事。




 だからきっと――。







「は……はぁああ……わかった……負けたよ」



 服部部長は空気が抜けた風船のように体をしぼませ、そう唸った。



「それでは⁉」



「ああ、開発部に推薦状を出すよ」



「あ、ありがとうございます!」


 思い出したように俺は全力で頭を下げた。



 ……無理を言ってすいません、部長。



「それで、希望の開発チームはもちろんあそこなんだろう?」


「はい!」


「はあ……よりにもよって……。あの人苦手なんだよね」


 他の社員に聞こえないように小声でそう溢した。


 

 ……ホントすいません。



「分かっていると思うが、彼と面接するところまでは私が責任を持って請け負うが、その後は君の実力しだいだ」


「はい。それで十分です、部長! 重ねてありがとうございます!」



 俺は服部部長が制止をかけるまで頭を下げ続けた。

 

 ドラマのように拍手など湧きおこらない。

 だが、顔を上げて周りを見渡すと、俺の事を煙たがった目で見る社員は一人もいなかった。


 帰り際に通り過ぎていく社員が、「頑張れよ」、「頑張ってくださいね」、「応援しています」などと次々と声をかけてくれる。


 俺は正直もっと冷たい反応を予想していた。

 


 “広報部から開発部へ転属? 何夢みてんだ? 身の丈を知ったらどうだ?”



 でも、蓋を開けてみれば世界はこんなにも優しかった。



 その優しさを素直に受け取る資格が俺にあるだろうか。

 俺はみんなの事を利用してしまったのだから。




 しかし、そんな事を考えても今さら引き返せないしそのつもりもない。

 ただ覚悟を決めて進むだけだ。



 その後、服部部長は「私は申請書類を準備するから君は先に帰りなさい」と言って居残ってくれた。


 部長は部下から転属希望を受けてから申請書を出すまでに一週間の猶予があるのだが、「鉄は熱いうちに打てと言うだろう?」と、しわの寄った頬を綻ばせながら笑いとばした。





 本来の計画から随分はずれてしまったが、ひとまず第一関門は突破した。


 

 本番はここから。


 だけど今日ぐらいは、克服の余韻に浸っても罰は当たらないだろう。



 ……今はとにかく、一刻も早く二人に報告をしたい。



 オフィスを出るときにもう一度だけ頭を下げて、いつもより軽い足取りで廊下へ出た時。



 “やつ”が待っていた。


 いつも以上ににやついた顔で。



ゆう、お前まさか一部始終――」


 俺の口を人さじ指で制して、


「まあ、積もる話はあるだろうが、今日はとりあえず……飲みに行かないか?」

 


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