バーベナのせい


 ~ 六月二十四日(月)

      いたんだろうか ~


 バーベナの花言葉 勤勉



 先週は結局、おすすめされた下着を断り切れずに購入して。

 その分の補填とばかりに節約を宣言した藍川あいかわ穂咲ほさき


 軽い色に染めたゆるふわロング髪を複雑に編んで、さらにそれを芸術的と呼べるほど美しくつむじの辺りにまとめあげて。


 だというのに、バーベナの紅白のお花をぼんぼりに挿して。

 まるきり見えなくさせるという無駄の極み。


「酷い有様です」

「いつまでもぶつくさ言わないの。節約なの」

「いえ、お昼にいただいた、きな粉乗せ目玉焼きの話ではなく」


 最近は料理の量が増えていたので。

 ちょっと本日は物足りなくて。

 お腹は、ぐうと文句を言いますが。


 十数年来、いただいてきた一食分の量と同じわけですし。

 まったく問題ありません。


 さて、そんな目玉焼き職人さん。

 バーベナ頭を左右に揺らしながら。


 教科書を眺めて。

 ため息などついて。


「数学は嫌なの。そもそも、数学って名前が可愛くないの」


 滅茶苦茶なことを言い出します。


 しかも。


「今は数学の授業中では無いでしょうに。なんで、君の嫌いな人の悪口に付き合わなければならないのです?」

「それは、男子の義務なの」

「意味が分かりません」


 そう言えば。

 ドラマとかでよく見かける光景ですね、女性の愚痴を男性が聞き流すシーン。


 うちの場合、母ちゃんはよその人の悪口を言わないもんだから。

 まったく見かけない光景なのですけど。


 穂咲も、誰かの悪口を言う事はありませんので。

 教科の悪口くらい、聞いてあげるべきなのでしょうか?


「そう言えば、教えて欲しいの。お料理の学校に進むには、何の教科やっとかないといけないの?」

「なにを今更。前にも言いませんでしたっけ。大抵、試験は小論文なのですけど、学校によっては英語と数学もあるようです」

「いやなの」

「なにを今更」


 そして再び大きなため息をついて。

 ルート記号で割り算など始めていますけど。


「やっぱ数学は嫌いだから、名前を変えるべきなの」

「ダメです、全国の教科書を印刷し直すには、君のお小遣いでは足りません」

「じゃあ、シールでサブタイ付けるだけでいいから」

「サブタイトル? なんて?」

「メープル味」



 『数学 ~メープル味~』



 まあ。

 ちょっと甘めになりましたけど。


「ダメですね。きっと、誇大広告として叱られます」


 そんなに甘くないのです、数学。


「じゃあ、せめて小論文が書けるように頑張るの。……どう頑張れば?」

「漢字が書けるかどうか。あとは、慣用句を間違えずに書いたりですかね」

「漢字……、頑張ってみるの」


 文句を言いながらも。

 数学にチャレンジしていたり。


 その数学から逃げながらも。

 漢字の勉強を始めたり。


 今日は随分前向きに。

 勉強していますけど。


 最近では。

 それなり当たり前の光景になりましたね。



 なんだかんだ。

 学年平均より上の成績を取るようになった穂咲なのですが。


 夢が明確だから。

 一生懸命歩くことができるのでしょう。


 それにひきかえ。

 ただ、漠然と勉強する俺。


 だからでしょうね。

 成績は鳴かず飛ばず。


 いかに、目標が大切なのか。

 身にしみて感じるのです。



 ――携帯を机に置いて。

 『漢検二級の漢字』というページを開いて。


 一生懸命、ノートへ書き込んで。

 何度も何度も書いて覚えて。



 かつては、漢字の書き取り帳に。

 一画ずつ縦に書き込んでいって。

 字なんか、まるで覚えなかった君が。


 勉強する意味を知ったことにより。

 ここまで化けることになるなんて。



 窓のカーテンとダンスを踊る六月の風は、珍しく爽やかに。


 頬をさわりとくすぐると。

 俺が浮かべた、嬉しい笑顔の表紙を捲って。


 中にこっそり書き込んだ。

 寂しい表情をちらりと覗き見るのです。


「……書き取りするのをやめて」


 君が離れていくようで。

 寂しくなった心が、そう呟きました。


 でも、俺が穂咲に送った言葉を。

 風が吹き消してしまったのでしょうか。


 真剣に、集中している穂咲の耳に。

 その言葉が届くことはありませんでした。



 ……でも、今は。

 何度でも言いたい。


 そう。

 今は。


 立ち止まって。

 俺の顔を見て欲しい。


 ……だって。



「藍川。立っとれ」



 だって、今は。

 英語の授業中だからね。



 むすっとした先生が。

 穂咲を見下ろしながら口にした、その想いも。


 六月の風がつむじに巻いて。

 掻き消してしまったのでしょう。


 集中する穂咲の耳に。

 先生の声が届くことはなく。


 ただひたすら、黙々と。

 『忍術 』と、ノートに書き込んでいるのです。



 仕方ないですね。

 では、忍法・身代わりの術なのです。


 先生を制して。

 俺が代わりに席を立って。

 廊下へ出ます。


 そしていつもの場所へ立つと。

 床が、みしりと文句を言いました。



 穂咲が、時を経て成長したのに反して。

 君は。

 時を経て劣化しましたね


 四月に教室を変わってから。

 約三か月。


 毎日、俺に踏みつけられては。

 仕方のない事なのかも。


 ゆっくり、のんびりと体を揺らして。

 きいこきいこと乾いたリズムで。

 俺は考えます。


 いったい、俺は。

 ここでどれだけの時間を過ごしていたんだろうか。



 ボキッ!



「……あ」



 しまった。

 これでは。


 ……傷んだ廊下。


「同音異義語かい!」


 廊下へ激しく突っ込んだ俺に。

 教室内から、六月の風に乗せて。

 とてもやさしい声が聞こえました。


「秋山、やかましい。……直しとけ」


 そんな馬鹿な。


 この人が担任だと。

 俺は、将来大工にされそうです。



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