◇2-6 ミア

 霧の甲冑が幽鬼のように私に手を伸ばす。


 次の瞬間、甲冑は穴だらけになった。

 一秒を数える間に、十数発の突きを食らわせたのだから当然だ。


 私は素早く剣を収め、ぽかんとするシーフに笑いかけた。


「じゃあね、泥棒さん」


 踊るように鎧の手をかいくぐり、対岸を目指す。


「…………上等だ、捕まえてやんよ」


 声が聞こえたかと思うと、目の端でシーフが〈眠れる精霊〉の群れに突っ込むのが見えた。無謀ね。


 無数の腕がシーフに伸びる。


 少年は走るスピードを緩めず、甲冑の手をかいくぐった。避けきれないものはナイフで叩き落とし、素早い身のこなしで回避する。


 と、私のそばの甲冑が動いた。

 とっさに剣でなぎ払って避ける。


 危なかった、ぼんやりしていたら私のほうが夢の中だ。

 正面は複数の甲冑で隙間なく塞がれている。

 私は呼吸を整えて、一気に仕掛けた。


 スパン! と小気味良い音がしてガントレットが宙を舞う。〈眠れる精霊〉は本物のようだけど、中身はスカスカだ。


「ハアッ!」


 ステップを踏むように攻撃し、軽やかに甲冑の手をかわす。

〈眠れる精霊〉は一定の範囲から動かない。テリトリーを抜ければ安全だ。


 群れを突っ切ったところで後ろを確かめた。

 シーフは甲冑に取り囲まれていた。私が抜けたせいで攻撃が集中している。

 あれをかいくぐるのはまず無理ね。


「いい夢を」


 三十体に膨れあがった霧の甲冑がいっせいにシーフに襲いかかり、少年の姿をのみこんだ。


 と、甲冑の間でなにか動いた。


「え?」


 まばたきした瞬間、甲冑の間から赤毛の少年が躍り出た。複数の〈眠れる精霊〉を相手にナイフ一本で攻撃を捌いている。


「うそでしょ……」


 信じられない、ナイフのリーチは剣の半分もないのに! あの近距離で一度も甲冑に触られないなんて、どういう身体能力をしてるの?


 シーフは針の穴に通すような正確さで、わずかにできたルートを駆け抜けた。


 すごい、あと少し!


 と、いきなり地面から巨大な甲冑が湧き出た。シーフの進路を塞ぎ、巨大な手が彼を捕らえようとする。


「あぶない!」


 思わず声を上げてしまったけれど、心配いらなかった。


 少年は一瞬も怯まなかった。


 それどころか速度を上げて巨大な甲冑に突っ込み――ジャンプ! 飛び蹴りをあびせ、反動を利用して空中で身をひねって背後の甲冑の脳天にかかと落としを食らわせた。着地と同時に勢いよく地面を蹴り、あっという間に巨大な甲冑の足元をスライディングで抜ける。


 うそみたい、一人で切り抜けちゃった。


 感動すら覚えとき、はっとした。

 見とれている場合じゃなかった、逃げなくちゃ。


 回れ右をして通路を急いだ。道は二手に分かれている。

 落ちていた小石を北の通路に投げ、音を立てないように西方向の通路に滑りこむ。

 

 少ししてシーフの足音が北の通路に消えた。


 私は動き出した。通路は天井の高い一本道で障害物はなし。


 念のため罠がしかけられていないか注意して進むと、魔力の気配を感じた。なんだろう? おかしなものは見当たらないけど……壁の中から気配がする?

 

 大気中の〈ワイズ〉を触媒に魔法の気配を探った。


 やっぱりそうだ。宮殿の回廊を思わせる石壁の向こうに高密度の魔力の壁がある。けっこう大きそう。隣の通路……ううん、もっとずっと向こうまで続いている。これは結界?


「おっ、いた!」


 いきなり後方から声がした。


 しまった、見つかった!


 走ったけど、足音がどんどん近づいてくる。追いつかれると思った瞬間、驚くべきことが起こった。

 急に足音が消えたかと思うと、後ろを走っていたはずのシーフが上に現れたのだ。


 正確にいうとシーフは天井を走っていた。


「な……っ!?」


 よく見ると足は天井についてない。結界の上を走ってる!

 ぽかんとする私にシーフは笑いかけ、身をひねって前方に着地した。進路を塞がれて私はたたらを踏んだ。


「くっ!」

「逃がすか!」


 シーフの手をよけて横に飛び退く。石壁に背中が触れた。そして、壁が抜けた。


「え?」


 がらがら、と石壁が積み木みたいに崩れ、勢いそのまま私の体は宙に投げ出されていた。

 足元にはなにもない。底なしの闇だけがぽっかり口を開けている。


「ミア!」


 すべては一瞬だった。


 シーフは穴に飛び込んで私を掴んだ。抱き寄せられ、頭を腕で抱えられる。落ちる。落ちる。落ちる。落ちる。落ちる。まだ落ちる。

 固い地面に叩きつけられるのを覚悟して数秒後、衝撃が全身を貫いた。


 ドォオオオオオオン!


 巨大な水しぶきが上がる。


 気がつくと私たちは水中に投げ出されていた。


 どっちが上? 地上はどこ? 私は必死であたりを見回して目の端に光を見つけた。


 シーフも気づいて光のほうへ泳ぎ始めた。はるか高みに見える水面を目指して泳ぐ。

 もう息が限界……!


「ぷはっ!」

 

 水面から顔を出したとたん、一度にたくさんの空気を吸ってしまい、むせた。

 なんとか岸に泳ぎ着いたけど、上半身を水面から引き上げるので精一杯だった。


 装備が重すぎ。服は水を吸って絡みつくし、地下はすごく寒い。もうこれ以上動けない。

 シーフも同じ状況みたいで体半分水に浸かったまま、仰向けに寝転んだ。


 とても静かだった。

 この湖は地下深くから水が湧いて溜まったものだろう。ちょろちょろと水の流れる音以外、なにも聞こえない。


「ハア、ヤバかったな……っ!」


 隣から聞こえたぼやきに、笑ってしまった。

 薄闇の中でシーフが怪訝そうにこちらを見るのがわかった。


「なんだよ?」

「ううん。びっくりしたから。すごく怖かった」


 私は寒さに震えながら笑った。


 生きた心地がしないってこういうことだ。壁が抜け落ちるなんて思わなかった。しかもその先が大空洞で、下に湖が広がっているなんて。驚いて。怖くて。安堵して。暗くて寒くて温かくて嬉しくて。一度にたくさんの感情が押し寄せて、どうしてか笑ってしまう。笑っちゃうのに泣きたいような気もする。


 きっとすごくまぬけな顔をしていたんだと思う。赤毛の少年は私をじっと見つめて、小さく笑った。


「だな」


 胸がどきどきした。本当に怖かった。だけど、もう怖くない。


 目の前にいるこの少年は、落ちる私を迷わず助けてくれた。暗闇に自ら飛びこんで、私を抱えて自分の体を下にした。


 ごめんなさい。

 心の中で呟いた。


 私が逃げたのはシーフが仲間かわからないから。よく知らない人に執拗に追いかけられたら誰でも逃げる。だけど逃げた自分が急に悲しく思えた。


「ありがとう、助けてくれて」


 シーフが目を丸くして私を見た。

 そんなに驚かなくたっていいのに。


「今なんて?」


 ……もう、失礼な人。


「あれ見て」


 私は仰向けになって頭上を指した。

 シーフはなにか言いたそうだったけど、天井を仰ぎ、息を呑んだ。


「すっげー……」


 青い闇の中に星雲が渦巻いている。鉱石だ。魔力を含んだ鉱物が星のようにまたたいて、微細な結晶は岩盤の中をうつろう。雲のように刻々と姿を変える魔力のきらめきは、この世のものとは思えないほど美しかった。


「俺たちが落ちたの、あそこかな」


 シーフが天井にぽっかりと浮かんだ闇を指した。


「どこ?」

「右側の天頂付近。ほら、真っ黒なところがあるだろ。穴が開いてるんじゃないか?」

「本当。ずいぶん落ちたのね」

「よく無事だったよな。下が水で助か――」


 シーフが私のほうに顔をかたむけて声をとぎらせた。どうしたんだろう?

 視線を向けて、私は息を呑んだ。


 彼の顔が触れるほど近くにあった。


 すっと通った鼻筋にきりりとした眉。整った顔立ちは中性的だけど、瞳は違う。優しくて強い、澄んだ薄茶色の瞳には、強い意思となんでも包みこむような包容力がある。


 知っている。この瞳も、声も、体温も――――

 

 記憶の断片をつかみかけたとき、私はがばっと体を起こした。


 い、今のなに!?

 

 恋人みたいに体を寄せる場面が浮かび、あわてて妄想を打ち消した。


 恥ずかしい、どうしよう、シーフの顔が見られない。というか見つめ合ってしまった、顔が熱い、やだ、ドキドキしてきた。


 私はわたわたと立ち上がった。


「どこ行くんだ?」


 知りません! 心の中で叫んで、あわてて逃げ出した。

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