第2話 山越えの先

 ぱち、と火のはぜる音が響いた。闇の中、どこからともなく梟の鳴き声が聞こえてくる。木の根を枕にして横になったシェリルは、穏やかな夜に微睡んでいた。

「なあに、マリウス」

「……」

 シェリルの髪を優しく梳いている悪魔に声をかける。一瞬だけ、その手が動きを止めるも、すぐにまた梳き始めた。確実に声が届いたにも関わらず、彼は黙って髪を梳き続けている。


「……」

「……」


 どれ位たっただろうか。そんなに長い時ではなかったかもしれない。アンドロマリウスは黙ったままシェリルの髪を梳き続けている。

 すぐ近くに腰を下ろしている彼の体温が、背中に伝わってくる。

 うとうとしていた彼女は、ゆっくりと起きあがる。そして、今すぐにでも立ち上がってどこかへと行きそうな雰囲気の彼を見つめて微笑んだ。アンドロマリウスは少しだけ目を見開いて、完全に動きを止めた。

 シェリルはその様子に満足そうな笑みを浮かべ、アンドロマリウスの太股の上に頭を乗せた。

「この前、強引に魔力を奪ってごめんなさい。

 でも、とても助かったわ」

「――構わん。

 俺をこき使えと言ったのは俺自身だ」

 数日ぶりのまともな会話に、シェリルはほっとする自分がいる事に内心で苦笑した。シェリルの髪を梳くのが余程気に入りなのか、手の動きが再開する。

「あの後、いつの間にか力を使ってたらしいアンドレに力を分けてあげられ――」

「口付けたのか」

 言い終えぬ内にアンドロマリウスが早口に言う。思わずシェリルは彼の顔を見つめて眉間にしわを寄せた。

「は? 添い寝しただけよ?」

「……そうか」

 早とちりを反省するかのように、彼の視線が横へと流れていく。シェリルは目を閉じ、再び背を向けた。彼女の髪が視界に戻ると、彼はまた梳き始める。

「――もう、寝ると良い。

 明日村に着くとは言え、長い道のりには変わらない」

「ん」

 彼が髪を撫で梳くリズムに誘われ、シェリルの意識はどんどん薄れていった。




「ひっさびさの人里だぜ」

 ぐいと背伸びをしたアンドレアルフスが嬉しそうにする。心なしかリリアンヌの表情も明るい。砂漠を越え、山を越え、ようやく緑の多い平原へ辿り着いたのである。

 まだ小さく見えるだけだが、家が並んでいるのが分かる。

「今度の村は、名物もないただの農村だ」

「ゆっくりできそうでいいじゃねえか」

 うきうきとした様子を隠そうともしないアンドレアルフスがアンドロマリウスを追い越し先へ進む。

 シェリルとリリアンヌは顔を見合わせ、くすくすと笑ったのだった。


 疲れた様子を見せ始めたヒポカをどうにか元気づけながら、村まで疾走させる。村に着けば休めるとしっかり理解したかは分からないが、見事な走りっぷりを見せていた。

「泊めてくれる家があれば良いけど」

「俺様に任せな」

 村の入口で不安そうなリリアンヌの頭を軽く撫でながら自信満々に答える。

 彼が言う通り、泊めてくれる家はすぐに見つかった。小さな子供が四人いる賑やかそうな家であった。

 元気の良い夫人が家の事は取り仕切っており、たまにやってくる旅人を彼女の一存で泊らせる事もあるようだ。

「入用なものがあれば、できる限りで用意するから。

 こんな美男美女の組み合わせなんて初めてさ。

 村のみんなが噂しとったよ!」

 威勢のいい声でそう言われ、シェリルはただただ無言で笑みを作った。彼女の相手をアンドレアルフスに任せ、3人は割り当ててもらった大部屋に移動する。


 無音である。この家に入ってから初めての静寂に、アンドロマリウスがようやく肩の力を抜いた。よほど夫人の明るさが苦手だったのだろう。

 シェリルはテーブルに荷を広げながら、くすりと笑った。リリアンヌは椅子に腰掛け、シェリルの様子を興味津々に見つめる。

「何をするの?」

 シェリルが旅のはじめにアンドレアルフスから受け取ったクロマを広げ、その縁に刺繍を始めたのである。

「これ?

 まあ……秘密兵器、かな」

 不思議そうなリリアンヌに曖昧に答え、シェリルは針を進める。

「役立つ時は来ないかも。

 でも、折角の贈り物だから実用的にして有効活用させてもらおうと思って」

 “贈り物”という単語にアンドロマリウスがクロマを胡散臭そうに見つめた。だが、刺繍に集中しているシェリルはもちろん、針の動きを追いかけるリリアンヌもそれに気付く事はなかった。

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