第5章 体調を崩した召喚術士

第1話 アンドロマリウスの心境変化

 アンドロマリウスは驚いていた。この世界に居座る事になってから、一番の驚きかもしれないとさえ思っていた。目の前には、ぐったりと力なくうつ伏せたシェリルがいる。


 ここ百年以上健康を保っていたシェリルが、体調を崩したのだ。顔色は悪く、今にもまた吐き出しそうに見える。数時間前から下痢と嘔吐が続いているが、変な食べ物を出した記憶はなかった。

 基本的に料理や掃除などはアンドロマリウスが請け負っており、少なくとも、食事を用意していた彼にはシェリルが食中毒にも似た症状を出す原因となるようなものを入れた記憶がなかった。

 そんな彼にできるのは、辛そうな彼女の身を清めたりといった世話を焼いてやるだけだ。


 詳しく彼女から直接話を聞きたい彼であったが、症状の緩和を優先させるしかない。少しすれば、体内の物を出し切ったのか、ほとんど何も出なくなった。

 更に様子を見れば、たまに吐きそうになっていたのも落ち着いてきた。症状の激しい時から手洗い場の近くにいたが、その必要はなくなったと判断したアンドロマリウスは、彼女の身体を寝台へと移す事にした。

 ずっと何も言わずに耐え続けるシェリルは、アンドロマリウスに不思議な感覚を呼び起こさせる。今日はずっと、拒絶の言葉がないからかもしれない。もしくは、心の奥底にくすぶっている感情を隠しながらの言葉がないからかもしれない。

 体調を崩してからのシェリルは、アンドロマリウスに全てを任せきっていた。強い信頼ともとれる程に。彼がシェリルの身体を抱えて移動する時には力を抜いてもたれ掛かっていた。

 体調が悪いとはいえ、無防備すぎる。我をなくす程に精神的なストレスを感じた時以外で、これ程無防備な姿をアンドロマリウスは見た事はなかった。


 アンドロマリウスは改めて横になっているシェリルを見つめた。最初の頃よりは、顔色が良くなってきていた。だが、まだどちらかと言えば青白い。

 震えてはいないから、寒くはないのだろう。

 吐き気のせいか、それとも腹痛のせいか、息の浅い彼女の首筋に彼は手の甲をあてた。熱は上がっていないようだった。普段と同じやや高めの熱を皮膚に感じる。いつもと同じ体温の割には、汗をかいているらしい。

 しっとりと肌が吸い付いてきた。

 風呂上がりの肌とは別の、汗特有の湿り気があった。浅い呼吸を繰り返す唇はやや乾き気味で、力なく小さく開いている。頬に手の甲をあてれば、そこにすりつくような動きすらあった。

 野良猫が懐き始めたかのように感じられたが、人間である彼女は決してごろごろと喉を鳴らす事はない。心の中で馬鹿な例えをしたと苦笑し、その喉元を見つめれば、生きている証に小さく動いているのが分かる。

 彼女を観察するアンドロマリウスは無意識の内に喉を鳴らした。アンドロマリウスの耳へと音が届き、はた、と動きを止める。彼女に触れていた部分を離し、眉を寄せた。


 今、何を感じたのか。看病している女に何を思ったのか。アンドロマリウスは己の心境の変化に首を傾げた。俯けば、先程までシェリルに触れていた手が見える。何となしに、その手を握っては開く。

 ロネヴェから託されたから、守らなければいけない、助けなければいけない。彼女はそういう対象のはずだ。だが、今、ロネヴェの事抜きにしても守ってやりたいと感じたのだ。きっかけがない訳はない。物事には理由がある。


 感情だってそうだ。


 アンドロマリウスは思案しながらシェリルへと手を伸ばした。額に張り付いた前髪をよけてやる。いつもさらさらとなびいていた髪は汗で湿り、ぱらりと脇へ落ちた。脇へ流した髪を再び手に取り、くせっ毛だったロネヴェとは違う髪の感触を楽しんだ。


 ロネヴェがまだ幼い頃、はしゃぎすぎてプロケルにお仕置きされる事が多かった。そういう時は決まってびしょ濡れになって戻ってきたものだ。アンドロマリウスはどちらかと言えば直毛で硬い髪質だ。ロネヴェは細くて針金のような髪だった。シェリルはそのどちらとも違う。絹糸のようによくしなる、細い髪だ。

 濡れたロネヴェの髪は、扱いが大変だったとアンドロマリウスは思い出す。それに比べてシェリルの髪は、艶を増して美しい糸に変化していた。

 今度からは、櫛入れも面倒見てやろうと心の中で決める。


 そうしている内に、アンドロマリウスの中で、彼女に対する感情の変化に見当が付いた。きっかけは些細な事の積み重ねなのだろう。彼女に対しても、ロネヴェに感じていたような情が生まれたのだ。それは、庇護欲にも似ていた。

 ロネヴェに出会った時、面倒を見なければと直感が働いた。今回は直感が働いた訳ではないだろうが、とにかくそういう事なのだと納得する事にした。

 理由が分かれば、後は簡単だ。思った通りに行動すれば良い。アンドロマリウスは心なしか柔らかい表情で、シェリルの頭を撫でた。

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