(5)
十二歳のとき、私は緑内障だと診断された。
最初は、学校の視力検査の結果がだんだん悪化していたから、眼鏡が必要かどうかを相談しにいっただけだった。そのお医者さんで、視力低下もあるけれど、それとは別に病気を発症しています、と聞かされた。
緑内障という病気は、だんだん視野が狭くなっていき、最悪の場合は失明します、と。
確かに変だとは思っていた。それまでの一年間ほどで、なんとなく、昔より視野が狭くなっていたような気がしていた。
空の一部が見えなかったり、霞んだり。階段に足をぶつけたり。
でも視力低下の一環だと思い込んでいたし、そもそも集中するとのめり込む方の「視野が狭い」タイプだったから、私も誰も深くは気に留めていなかった。
ちゃんと治療すれば、病気の進行は抑えられるとのことだった。ただし、完治することはない、とも言われた。
しばらくは夜空を見上げる度、天球の端に見えない星座があると感じることに、ショックを受ける日々だった。でも、私はいつからか、それならば見えるうちに、精一杯光を見てやろうと決意していた。
だから物理を勉強し、大学では光学を専攻した。大学ではカメラも始めた。車社会では過ごしづらかったから、就職活動は都会ばかりに絞って、結果的に東京へ出てきた。それからは首都の光を撮るようになった。
そして、十二年が経った。今はまだ、狭い視界とはいえ光と戯れていられる。
でも、いつか全てが闇に覆われてしまうのだろうかと、私はいつも心のどこかで怯えている。今夜の光さえも見えなくなるんじゃないかと、泣きたくなる朝も、時々、ある。
お店の予約までにはまだ時間があった。本当はショッピングで時間を潰す予定だったけれど、私たちは砂浜に腰を下ろし、海を隔てて向こう側にある都市の夕暮れを見ている。
「さっきはごめんね」
「ううん、事情は分かったし」
赤く眩しい夕陽。大きな夕空。穏やかな潮の満ち引き。真っ赤に光っているレインボーブリッジ。飛び交う海鳥たち。一つ一つに私は顔を向けていく。どの場所、どの瞬間を切り取っても素敵で、永遠に眺めていたいと思ってしまう。
「大丈夫、何回だって見に来られるよ。十二年間も平気だったんだから」
「平気じゃないよ」
「あ、ごめん、言葉が悪かった。十二年間、頑張ってきたんだよな、一人で。……志保はいつも偉いよ」
私は頷く。その言葉だけで、また泣きそうになってしまう。一方の悠輔くんは、ポケットに手を入れたり出したり、口も何やらむずつかせている。
「……私、不安なんだ」
「え?」
「悠輔くんと結婚して、ちゃんとした奥さんになれるか、不安なんだ」
彼のポケットに指輪があることを、今日レストランで渡されることを、私は勘づいていた。もちろん知らないふりをしようとしていた。でも、プランをぶち壊してしまうくらいに、私は不安で、余裕が一つもない状態だった。
今までは、しょせん一人だった。他人に助けてもらいながらだけれど、私は、極端に言ってしまえば、私自身の視界のことだけを考えていれば良かった。見えなくなっても、そのときはそのとき、自分の問題だ。
でも。彼と作っていく家庭。やがて生まれる子どもたち。私の人生に、誰かのために、という視点が加わる。
その未来を、干支何回り分もの未来を、私はきちんとこの目で見ることができるのだろうか。光を失ったとき、ほとんど何もできなくなって、家族に迷惑ばかりかけてしまうんじゃないだろうか。
「それはさ、志保が一人で背負うことじゃない」
悠輔くんは、私の肩に手を置いて抱き寄せてくる。
私の体の好きだという部分を、大きな手で包み込んでくれる。
「俺と、二人で半分ずつ背負えばいいから。ちゃんとそこまで考えて、結論を出したから」
治療用の目薬をさしているところも、手帳に通院予定を書いているところも、悠輔くんはいつも見ていた。何も面白くないだろうに、いつも自分の目で、しっかりと、見てくれていた。
「だから志保さん、僕と結婚してください」
太陽はもうビル街の彼方に消えてしまって、残照だけが空に広がる。光の変わり目のぎりぎりの場所で、私は彼の手の中にある指輪を見つめる。
大丈夫、私は、見えている。
「ありがとう、よろしく、お願いします」
彼の気持ちが、愛してくれている気持ちが、自分の全身を通して見えている。
口づけを交わして、彼の手から私の指へ、指輪をはめてもらう。
すっぽりと薬指に収まったリングは、眼鏡の向こうで、この世界で一番きれいに輝くものみたいに見えた。そして私はまた泣きじゃくる。悠輔くんはまた肩を撫でてくれている。
対岸の街にはもう明かりが灯っている。レインボーブリッジもぴかぴかしていて、今からロマンチックな夜が始まる。星は見えない代わりに、誰かが頑張って作り上げた素敵な夜の光たちを、今日も私は、一つ一つ順番に感じることができる。
今日からは、左手に、新たな光をはめながら。
「あっ……ごめんなさい、せっかくの予定壊しちゃって」
私は、唐突に、ようやく、自分のしたことの大きさに思い至る。お店にプロポーズの日だと話もしているだろうに、これからどうするのだろう。
「いや、いいよそんなこと。それか向こうでもう一回やる?」
「え? そんなのありかな」
「うん。嬉しいことは、何回やっても嬉しくない?」
振り返れば、洒落た建物の並ぶお台場の街はきらきらで、賑やかな夜を始めようと息巻いている。私は指輪をはめた左手を、その明かりに向けてかざしてみる。
嬉しいことは、何回やっても嬉しい。
ああ、本当だ。きっと、私はもう一度幸せになれる。
これから、あそこで、私はまた幸せなきらめきを見つめることができる。キャンドルの明かりを通して、優しく光るリングを。
私は彼に左手を握ってもらいながら、立ち上がった。
私たちは光の中心にいる。首都のビル街、その明かりを反射する海、明るいお台場の街、静かに月が昇り始める夜空。
あらあら、今日は、大丈夫かい? 月が笑っている。
はい、ご覧の通りです。私は、幸せな光を見つけたよ。……見つけてもらえたよ。
私と悠輔くんは見つめ合う。街明かりと月明かりに祝福されながら、二人で描いていく明日を確かめ合うように、互いにはにかんだ笑顔を見つめ合い続けている。
(了)
きっと今夜も、きらりきらめき 倉海葉音 @hano888_yaw444
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