お爺さんとお嬢さん

ろくなみの

お爺さんとお嬢さん

少女と老人は言葉少なく船の甲板にて弁当に箸を伸ばしていた。二人とも外見的に似通っているところはない。丸眼鏡に白い無精ひげを生やしているが、それでも清潔感を損なっていない。女性の方はどこかあかぬけた若い女性であるが、水玉でぶかぶかのパーカーを羽織っており、幼い印象を受ける。孫と祖父ではなく、ご近所同士のようだ。弁当を女性の方が食べ終わると、そそくさとゴミを袋に詰め込み、柵をつかみ海を眺めた。

「何が見える?」

弁当のエビフライの尻尾をかじりながら老人は問いかけた。

「別に何も」

淡白に少女はそう返す。

「そりゃそうだな」

島や波、空を横切るカモメの感想でも適当に言えばいいものをと思うが、老人は彼女の淡白さをなんでもなしに受け止める。

老人も弁当を食べ終わると、のそのそと袋に詰める。少女とは反対方向から海を眺め、パシャパシャとタブレットで写真を撮っていく。一通り撮ると二人は対の位置で船の到着を待った。島に着くと女性の足取りは早くなる。老人は彼女の背中を見送りながら、降りる客たちの最後尾を歩く。

女性が島に着くより早く、島の人口よりも多いとされている三毛猫やキジトラの猫がわさわさとやってくる。まるでお待ちしておりましたかと言わんばかりに降りる乗客の足にスリスリと頭をこすりつけた。無論、彼女にも。

「猫好きだったんだな」

船でいる時とは打って変わって猫の頭を撫で回す彼女。老人の言葉に今度は返事どころか反応すらしない。その様子に老人は微笑み、タブレットで彼女と猫の姿を写した。

移動は彼女の気まぐれで始まる。一通り港の猫と触れ合った後は海沿いの道を北に進み出す。ゆったり彼女の背中を追いつつも老人はタブレットを構えていた。

「すまんな、餌を今日は持ってきてないんだ」

老人はそう言って猫の頭を撫でる。別に猫も気にしている様子はなさそうで、老人はホッとため息をついた。多分猫の方もダメ元で来てるところもあるだろう。今回がダメでも次の人がくれるかもしれない。その前例が猫たちのタフさを形作ってきたのだ。老人はそう思うことにした。

しばらく歩くと、古びた体育館と二階建ての木造校舎が突如現れる。防波堤のすぐ前にあるロケーションだ。

「ここにみんな通ってたの?」

 女性は足を止めて老人に自らそう問いかけた。

「ああ。昔は生徒も多かった」

「水泳はプールじゃなくて海?」

「ああ。波もほとんど穏やかだからな」

「それで、今はカフェになっちゃってると」

彼女のいう通り、廃校の中は当時使われていた椅子や机でカフェを営業している。

 店内に女性は老人の許可を得ずに入る。老人は店に入らない。煙草を一本取り出し、口にくわえて火をつける。海に浮かぶおにぎりのような形の島を眺めながら煙を満足気に吐きだした。

「ねえ! 理科室の人体模型が置いてるよ!」

 少しムッとした顔をして老人は振り返る。

「吸ってから行く! コーヒーブラックで頼んどいてくれ!」

 女性は返事をせずに店内に戻る。

(あいつ、これからどうする気だろう)

 老人は煙を吸いこみながら思考する。質問の言葉を頭の中で思考する。だが何を聞くのが正解なのだ。結局結論は出ないまま老人は店内に足を踏み入れた。学校で使っていた鉄琴やそろばん、赤い電話など、まるで博物館のように展示していた。

 女性は店の奥の二人掛けの机に座り、湯気の立つマグカップをそっと口につける。その様子は老人が昔から見ていた幼い姿の彼女そのものだ。

 彼女のいる机にそっと老人は腰かける。結局話しかけることなく、コーヒーに口をつけた。緊張の糸がほぐれたのか、彼女は脱力し、両足をだらしなく伸ばしている。老人は辺りを見回す。老人と女性以外に客はいない。子守歌のように波の音が聞こえ、それにコーヒーと紅茶のやさしい香りが鼻をくすぐる。これはいつの間にか眠ってしまってもおかしくない。

「なあ店員さん」

 老人は彼女とのコミュニケーションを保留し、店員を呼び止めた。

「どうしました?」

 三十代くらいの細身の男性が、レジカウンターから姿を現す。

「ここ、昔は職員室だっただろ? 合ってるか?」

「おっしゃる通りです。もしかして卒業生の方ですか?」

「まあそんな感じだ。てっきり取り壊されちまったと思ったが、有効活用してくれたもんだな」

「はい。とても素敵な場所だと思いました」

「変わりもんもいたもんだ」

 話がひと段落したと思い、店員はお辞儀をし、戻ろうとした時だった。

「ねえ、お兄さん。あそこのドアから出てもいいの?」

 女性は紅茶を飲みほし、席のちかくの引き戸を指さす。ガラス越しに中庭が見える。猫の鳴き声も微かに聞こえた。

「はい。トイレもあります。他の部屋は客室になっていますので、お入りにならないようお願いします」

「客室?」

 今度は老人が口を開いた。

「ここはホテルにもなってるのか?」

「はい。お客様は卒業生ですので、もしお泊りになられるのなら、割引もできますよ?」

「へえ、知らんかった」

 老人はちらりと店内の黒板に目をやる。船の時刻がかかれており、戻る船は一時間後の一本のみ。それを逃せば帰れなくなる。

「なあ、お前さん」

 女性に老人はカフェにきて初めてそう話しかける。

「あまり長々と遊んではいられんよ? 帰りの船までには」

 老人が言い終わる前に女性は中庭へと出向く。まるで躍るように校庭を歩きまわった。女性を歓迎するように猫が女性の後をついていく。尻尾はピンと雲一つない空へ吸いこまれるように伸びていた。老人はそんな彼女に口酸っぱく何かを言うことも憚られ、とりあえずコーヒーを飲むことにした。

 コーヒーを飲みつつ、店内にあった猫の写真集に目を通していると、あっという間に時間は船まであと三十分を切っていた。

 さすがに痺れをきらした老人は立ち上がり、二人分の飲み物の清算をすました。

 中庭の様子は当時の学校と何も変わっていない。久しぶりの里帰りの喜びを素直に感じ、胸が熱くなる。その懐かしい風景に夕日に猫と遊ぶ女性が自然に溶け込み、まるで最初からそこで猫と共に過ごしているようにすら見えた。

「おい、船までもう時間だ。行くぞ」

 老人はそう言うも女性は猫の頭を撫でたり、手元の猫じゃらしで遊んだりと上の空という表現が正しいだろう。

「おい」

 もう一度語気を強め、老人は彼女に一歩近づいた。

「帰るなら一人で帰っていいよ」

 猫を撫でながら彼女はぽつりとそう言う。老人はそういうわけにはいかないと思った。

「お前、一人でどうする気だ?」

「ここで猫と暮らす。適当に魚でも釣って生きていく」

「お前、釣りとかできたのか」

「覚えればいいし」

 彼女がまともな感情と判断力を持ち合わせていないことを改めて認識した老人はため息を吐き、財布から二人分の宿泊費が入っていることを確認した。

 日が落ちると、電灯も皆無に近いこの島には、真の暗闇が訪れる。借りた二人の客室にはベッドが二つ。老人と女性はお互いに背を向けながら寝転がっていた。

「変なことしないでよね」

 窓際のベッドに寝転んだ女性は、星を見ながらそう言った。

「もうそんな年じゃねえよ」

「昔だったらしてたの?」

「しねえな。堅物の石頭だったからな」

 老人はタブレットから今日撮影した島の風景を一枚ずつ、眉をひそめて眺めていた。

「今日は写真を撮りに来たの?」

「まあな」

 懐かしさに胸が少し温かくなる。ここで生徒たちと共にいた時間は、大変でもあったが、かけがいのない時間だった。ただ今回の目的はそれだけでは終わらない。

「お前さん、今何歳だ?」

 その質問には答えず、女性は体を起こし、部屋から出ていく。

「もう遅いぞ?」

「だから何?」

 女性のその生意気さにはもう慣れ、渋々女性が出ていく背中を老人は見送ろうした。

「何してるの? この学校って、女の子が夜中に一人で歩いてもいいっていうの?」

「……海に放り投げるぞ」

「私、元水泳部だよ?」

「投げていいってことか?」

「セクハラで訴えてやる」

 老人は苦笑し、女性の後ろをゆっくりと追いかける。その独特な広い距離感は、今日の島散策の時とよく似ていた。

 校舎の中庭にあるベンチに腰をかけ、女性は星空を指でなぞった。

「あれ、何座?」

「ばってんになってるだろ? あれは白鳥座だ」

「詳しいね」

「専門分野だからな」

 少女はその言葉を聞いた瞬間、目を丸くした。

「生徒じゃなかったの?」

「教師だった。いい教師だったかはわからんが」

 照れや謙遜ではなく、唾を吐くように老人はつぶやく。少女はポケットに手を入れ、星を見る。言葉をかけなくて済むように。

「聞かないのか?」

 さっきまで慣れのためか不躾になんでも聞いていた少女が黙り込んだのは、老人に取ってどこか気持ちの悪いものであった。

「なにを?」

 少女は過去を語らない。だからか、と老人は解釈した。

「……いや、いい」

 老人は思いだす。少女が道路で寝転んでいたことを。

まるで道端に転がる枝のように自分を見せていた場面。あれは、少女が何か救いを求めての行動だったのか。それを問いかけるタイミングはたぶん今日はないだろうし、尋ねたところで少女の救いになるとは思えなかった。

「私たち以外お客はいないんだね」

「連休でもない平日だしな」

「ここって音楽室ないの?」

「端っこだ」

 老人が指を差すと彼女は磁石に吸い寄せられるように校舎の端へと歩みを進めた。老人は再びタブレットに目を向ける。彼女の後ろ姿は、かつて自分の教え子の女子生徒によく似ていた。

 彼女は音楽室にたどり着くと、そこには手入れされた黒光りするグランドピアノが一種の神々しさを纏って教室に置かれていた。老人が遅れて教室に入ると、少女はピアノの鍵盤を躍るような手の動きでたたきだす。明るく、まるで青空に照らされた花畑の花びらが風で浮き上がるような音色はどこか聞いたことがあるような気がした。

「お前さん、それをどこで」

「どこでもいいでしょ? 聴いたことあるの?」

 ある、ということは簡単である。しかし、言ってしまえば少女がそれをどこで知ったかを話さなければならない。それはお互いの今ある暗黙のルールを破ることに他ならなかった。

「いや、気のせいだ」

 少女は老人の言葉に眉を顰めるが、やがて少しだけ表情をゆるめ、曲の続きを弾きだした。

 教師になりたいと老人の生徒は言っていた。音楽の教師になるために、自分のピアノの練習に付き合ってくれと、よく付き合わされていた。そして卒業式の日、彼女は老人へオリジナルの曲を弾き、好きだと言った。しかし老人はあくまで教師と生徒であるが故に、その生徒の申し出は丁重に断ったのを鮮明に覚えている。

(きっと、あの子の娘か)

 やがて曲は、かつての生徒が弾き切った最後のところまで進み、終わろうとしたとき、少女の手の動きが変わった。

 同時にさわやかだった世界観は一変する。短調な暗い雰囲気はまるで、さっきまで咲いていた花が茶色くしおれてしまうように。落ちた花びらは、暗い地面に吸いこまれるように沈んでいく。やがてすべての花がしおれ、死の大地に変わったその場所に生命力は感じられない。そんな光景を老人の脳裏に浮かび、しばしその世界に浸っていた。

 いつの間にか彼女の手は止まり、じっと老人の顔を見ていた。老人の目からは熱い雫が

ぽろぽろと雨粒のようにこぼれだし、いくら腕で拭おうとしても、その勢いは止まらない。乾いた教室の木造でできた床を濡らし、染みを作った。

 強気な少女に「なんで泣いてるのよ」と聞かれだろうと老人は想像していた。しかしその像は外れ、少女は何も言わずに老人の涙が止まるのを待った。

 老人の目からようやく涙が止まったころ、少女はグランドピアノの蓋をしめており、そこに頭を預けて眠っていた。

 老人は少女を抱えて、部屋へと戻り、ベッドへと寝かせた。

 次の日の朝、老人と少女は船の甲板に置かれたベンチで、肩を寄せ合って眠っていた。町に戻ってから、少女と老人は一言も言葉は交わさない。

 ただ少女は老人の後をついていく。老人も彼女がついてきている前提で、いくらか遅めに歩みを進めた。

 やがて老人は、自分の白い錆びついた軽自動車のドアに手をかけたとき、初めて口を開いた。

「これからどうする?」

 少女は何も言わずに、老人の車の助手席に手をかけた。

「なんで泣いてくれたの?」

 今日彼女が初めて言葉を発した。

「……行くぞ」

 老人はその問いかけには答えない。ただ少女は満足したようで、少しだけ頬を緩め、助手席へ乗った。

 次の日の朝。老人が自身の母校の写真を、町の美術館へ持って行くときのことだ。制服を着て、荷物がパンパンに入った黒いカバンを持って歩く少女の姿があった。

「おーい! もう道路で寝るのはやめたのか!」

 少女は舌をぺろりと出して、小さく手を振った。


                                  おわり。

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