死へ歩むスーパーエゴ

出雲 蓬

エスに浸されたエゴの末路による自己問答

 白い壁があった。白い床があった。白い天井があった。白い机があった。白い椅子があった。

 白と白と白と白と白に囲まれた部屋に立っていた。一つの机に一対の椅子。立っている反対側の椅子に、薄らと茶色い短髪とライトブラウンの眼を持った、辛気臭くパッとしない男が座っていた。その眼の色の様な液体の入った白いティーカップを片手に、男はこちらを見ている。

「まずは座って」

 ソーサーにカップを置いた男は、目の前にある椅子を指さした。指示の通りに座ると、気付けば同じ様にカップとソーサーが置かれていた。

「それは飲めるかい?」

 苦手な飲み物かどうかを聞いてきたのだろう。問題ない意思表示をすると、男はそれを見て微笑を浮かべた。

「ここは何処だと思う?」

 そう問われ周りを見渡す。皆目見当がつかなかった。

「だろうね、僕もどこだかわからない。何をすべきかはわかるけど」

 男はそう言った。ふと、疑問に思った事を問う。名は何というのか。

「私の名か……俺の名前は、そうだな。アルテミシアとでも呼んでくれ」

 その言いぶりにまるで今思いついた偽名のような言い方だというと、アルテミシアは頬の片側を上げながら人を嗤うような笑みで答えた。

「ここで名前なんて結局意味の無い音声だ。僕は君の名を知るつもりも聞くつもりも無い。だがそうだな、不便だし君の事は便宜上ナインと呼ばせていただこう」

 ナイン。何故その言葉をアルテミシアが選んだのかはわからないが、別段それ以外に呼んで欲しい名前が出てこなかったので何も言わなかった。

「さて、本題だ」

 机を叩く音がした。

「これからある話をしていく。ナイン、君はただそれを聞くだけだ。意見も指摘も必要のない、完結され変化を求めていない救い難い人間の話を始める。どう思おうと自由だ」

 そう言ってカップの紅茶をアルテミシアは少し口に含み、またソーサーに戻す。

「さて、まずはある男について簡単に話す。その男こそが話の中心人物であり、愚者だ。その男は度し難い怠惰な性格でね、生来努力ってものが嫌いだった。継続的に物事を地道に続けるという行為がとことん苦手だった。勉強は言わずもがなやらず、スポーツをすれば面倒臭がり、挙句の果てには人間として最低限行うべき食事や睡眠などの生理現象の解消すら雑にしていった。そんな人間が何故、生きられているのか。その男はそうだね……凡そ20代の歳だ」

 クク、とアルテミシアは喉を鳴らして哂う。

「努力を嫌い、人としての尊厳すら蔑ろにしている人間が生き永らえている理由。一つは周囲の助け、一つは生来備わった及第点的順応力、一つは悪運の強さだ。努力して手に入れたものじゃあない、生来自分が持ち合わせていたものと与えられたものだけでその男は自分を生き永らえさせていた。果たしてそれは人間の姿か?」

 アルテミシアは問う。だが、答えを言うことはできなかったし、それを必要としないと言われていたので、大人しく次の言葉を待った。

「それでも人間は人間だ。概念的、定義的に人間か怪しかろうと、種として人間である以上その男も人間だと言える。だが、当のその男は人間として生きることが苦痛だったようだ。努力が嫌い、だから継続が嫌い、義務感が嫌い、強制が嫌い、規範が嫌い、労働が嫌い、それから逃れられない社会が嫌い、その社会を内包する世界が嫌い。これほどエスでしか考えていないエゴの塊は中々いないだろう。そして面白いのは、その男はその自分の振る舞いが快楽として感じていながら、同時に罪悪感や否定的思考を持っていた。それで自分を殴り押さえつけようとした。矛盾もここまでくれば立派な争いだ」

 続ける。

「一つ、努力をし、労働を受け入れれば済む話をそれでも拒絶し続けていたその男は、そこにリソースを割き続け、そして自分の力で何かを成そうとしなかったばかりに、自分自身のアイデンティティを見失った。まだ年若い思春期の頃だろうかね。ただでさえ自分を作ろうとしている期間に、その自分自身を支える柱が存在していなかったんだ。男は焦った。しかし焦っても何も生まれない。無為に日々は過ぎていったが、それでも男は研鑽と冒険をしなかった――――が転機は友人によって齎された」

 一つ呼吸を置く。

「彼の母は彼と違い要領が良く頭脳明晰、彼にとって母は憧れだった。そんな母の血を少しでも継いでいたのが幸いしたのか、彼の想像力は人よりは豊かで、そして文章を書く事が苦ではなかった。それ故、彼は友人からの後押しも相まって小説創作の世界にのめり込んでいった。まるで視たくない世界から目を逸らすための別の視界を手に入れたい一心で、次第にそれは彼の生活の中の比重の大半を占める程になった」

 再び紅茶を小さく口に含む。

「そうして彼も高等教育を受ける歳になった。受験と言う競争においても彼はその意思を奮い立たせる事は無く、流れるがままに対した欲も無く楽な道を選んだ。そうして楽へと逃げていった先にあったのは、愛欲のブラインドに遮られた蜘蛛の糸による拘束と、精神汚染の様な共依存を求めた女郎だった。そして、何の皮肉かその女郎が述べた甘言は彼の唯一の能動的活動の先にある夢を魅せることができる言葉だった。簡単に言えば、出版社の伝手で自身の小説を紹介してもらえるかも、と言う甘い言葉だ。だが当然、そんな上手い話はない。今となっては真偽のほどが不明だが、恐らくはその言葉の数々は殆どが偽証だったのだろう。真言もあったのだろうが、彼に夢を見させる言葉は偽りと考えるのが自然だ。そこで、彼は凡そ三年の時を無意味に振り回され、搾り滓だけが残った。その結果は?」

 アルテミシアは目を細めた。

「現実を疑い、人を疑い、グズグズにされた精神の人間の成りそこないが逃げられる唯一の場所は、もう創作にしかなかった。そこだけが彼を認めてくれる場所だった。それ以外を本当の意味で求められなかった。勿論人並みの事をしようとしていた。世界が広がればそれだけやるべきことは増える。彼も半端なりに足掻いたのさ。だが、所詮は人としての形だけを辛うじて保つ屑でしかない。無理は続かず再び閉塞的な世界にとじ込もる。研究機関も兼ね備えた新たな学習のステージにおいて、彼は悪手に悪手を重ねていった。そして内向的に自分をひたすら分解し解きほぐし、再理解をした末に彼は何を見出したか」

 なんとなく、察しはついていた。なのに、それを口に出すことができなかった。

「自分自身に烙印を押したのさ。自分が今まで見てきたあらゆるものの中から最も適した、自分自身と縁の深い書籍の中から。『人間失格』と」

 アルテミシアは嗤った。

「自分でその烙印を押す事がどれほど滑稽かわかるか?もっとも逃げるのに最適な道を選んだんだ、彼は。人並みの事もできない人間以下です、だから仕方がありません、と。ここでも怠惰を極めた様な短絡的な思考をした。その思考がそもそも逃げに逃げていることを彼の否定的思考が糾弾しているのを知った上でだ。それでも彼は自分自身に人間失格の烙印を押した。そんな遁走しかできない彼は何故まだこの世に居るのか?そこまで考えているなら残っているのは自死だ。誰にも迷惑をこれ以上かけたくないならね。だがしない。それは一つに、死へと向かう恐怖をそれでも奥底に飼っていること以外にもう一つ」

 アルテミシアは椅子のひじ掛けに肘を置き、額に手を置く。

「たった一つの彼の残った執念。自分自身が手にした唯一の武器。小説と言う形で作り上げた自身の作品をその手で完結させ、自分の眼でその結末を知るまで死にたくないと。そう思ったんだ。それが無ければ彼はさっさとこの世から足を洗いたいと思っているから。その執念だけが彼を未だ縛る枷であり、また唯一つ残された矜持なんだ」

 額に置いた手の指の隙間から目が覗く。その眼は影によって何処までも深いブラウンを見せてきた。

「愚者はその愚かさに自分自身を糾弾し批難し罵倒し煩悶していた。それでもエスによるエゴは止まらず、葛藤を抱えながらも楽を選び続けた。そんな道に果たして展望はあるのか?ないだろう。このままでは惨めに死ぬのがようやっとだ。それでももったいない」

 その話が、アルテミシアの言葉が、何故だろうか。いくら無心に聴いていても自身の心の臓を突き刺してきて止まらない。痛い。

「何故そんな顔も名前も知らない男の話に身を摘ままれるような、まるで自分が糾弾されている様な感覚になっているのかがわからない。そんな顔だ」

 テーブルの上の液体に波紋が広がった。何故かその液体を、自分の顔が映り込むように覗き込む。

「その理由は単純だ。そして今私も理解した。結局のところこの話は既に終わっている。最初に俺は言った、完結され変化の求めていない救い難き者の話と。その時点で分かっているのが僕らにとっては当然だったのかもしれない」

 覗き込む。見るべきではないと警鐘を鳴らす自分を無視し、ゆっくりと姿を見る。

「私は彼で、君も彼だ。俺はお前で、お前は僕だ。それが答えだ」

 薄らと茶色い短髪とライトブラウンの眼を持った、辛気臭くパッとしない男が映っていた。紅茶の深い茶色で色が識別できないはずなのに、自分の瞳には、網膜には、色彩の細部に至るまでが見えた。

「随分陳腐な話だ。これはとどのつまり自分自身の話を自分の無関心な思考と否定的思考に認識させ、気休めの様にまるで発展性のある様な無意味な行為で遂には自分自身すら騙している哀れな男の思考内部でしかない。ここは一切の前進を認めない停止した無能の脳内なんだ」

 気が付けば、目の前にいたアルテミシアの姿が消えていた。その声が自分の中から聴こえてくる。いや、そもそも自分の姿のいつの間にか消えていた。

「当然だ。一通りルーティンを終えた場所に用はないしリソースを割く事もしない。彼は何度も何度も繰り返し使っているここの使用を、今日の分を、終わらせた。だから私も君も姿が消える。再びゼロになってここに形作られるまで、消えるんだ」

 自嘲の声が聞こえる。

「哀れなものだ。ここまでみすぼらしい執念と虚勢で自分を保ち、現実から目を逸らしているのが自分達であるというのも嘆かわしい。それでも、そんな存在でも、書く事だけは自分の生命とその他全てを代償にしても続けたいと切望している。人間失格が最期に抱きしめている、救いの一手だ。承認欲求もある、自己満足でもある。だがそれ以上に、人になり切れなかった自分が唯一人として並み以上の熱と労力を注いだそれを、手放したくないんだろう」


「ナイン、ナイン、ああNeinよ。どうか次にまみえる俺達も、彼の無駄な足掻きを見届ける観測者であることを願おう。終わりを見届けるのではなく、無様な愚者のマリオネットであることを願おう」


「だからまた相対するまで、どうか彼を否定し続けろ」


「あの人間失格には、それが一番相応しい」






 誰も、何も、全て、無くなった。

 白い白が、不愉快なほど現実を歪めている部屋だけを残して。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

死へ歩むスーパーエゴ 出雲 蓬 @yomogi1061

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ