第6話 人格否定と人格改造
いじめや嫌がらせに直面すると、何故か被害者に非があるような主張がある。
もちろん、人間は議論になると1、0、-1のどこかに属するわけで、つまり、加害者に非がある、どちらとも言えない(無関係を決め込む)、被害者に非がある、の三つに分かれる。
いじめや嫌がらせに関して、では、本当に非があるのは誰なのか?
よくある理屈で、無関心でいる、見て見ぬ振りをするのが悪い、無責任だ、という主張があるが、その理屈はほとんど、加害者を擁護すべし、被害者を擁護すべし、という、それぞれの陣営からの勧誘に近いと言えるだろう。無関心は無関心で結構、と考えることにしよう、とりあえずは。
僕の中では加害者に非があるのは自明である。被害者を傷つけている、と主張すると反対の陣営から、傷つくのは弱いからだ、とか、その程度で傷つくな、とか、そういうお叱りを受けるので、傷つけられた、というのは全く理解不明な理屈ではあるが、彼らに対しては通じる内容ではないようだ。
そうなると、加害者の側が行動を起こしたこと、その点を追及することになる。少なくとも僕の状況では、僕は普通にしていたが、何故か加害者に目をつけられた。もしここで先ほどの話のように、目をつけられるのが悪い、などと言い出すことは、よもやないと思われるが、そう言われてしまうと、こちらとしては反論は不能である。そんな理屈を突き詰めていくと加害者は自由に他人を攻撃し、それを指摘されたら、極端な話ではあるが、被害者がこの世にいるのがいけない、という理屈になってしまう。ここまでは行き着かないと思うが、そう、そこに至らなくとも、この、被害者が悪い、という理屈は加害者が加害者でいる間は極めて有利だが、もし加害者が被害者の立場に立ったら、その人間がどういう主張をするのか、非常に気にはなる。もはや、私が被害者なので加害者を非難してください、とは言えない。激しい矛盾が生じる。しかし世間の人たちは矛盾するのは当たり前、人間だから、というのかもしれない。あまりに都合が良すぎて、僕はついていけない。
話を戻そう。加害者の側から動いている、という論点の肝は、どちらが先制したか、ということだ。政治家が言う、現状変更、とでも呼ぶべきものを、誰が始めたのか、そこに焦点を置く。
ただ、そうするとどんどん些細なことに話がおよび、どんどん過去に遡る可能性もある。人間の「善でいたい」という欲望は、こんなところにも現れると言える。
僕からすれば、いじめや嫌がらせは、基本的に加害者が悪いが、加害者として一括りにする必要はないとも思う。人間は集団を作るが、集団は個人の塊で、個人個人に対して判断するべきだろう。しかし絶対として、その集団に混ざった、という点で批判は免れない。
さて、前回の記事で書いた、管理者が被害者の訴えを被害妄想だと考えているのではないかと考えてしまう被害妄想を抜け出す手段、もっと単純に、自分が傷ついていることを自分の責任としてしまう、そういう間違ったループから抜け出す手段は、悲惨としか僕には見えない。
被害妄想から抜け出すには、被害妄想を捨て去ることしかないが、被害妄想だろうがそうではなかろうが、被害者が傷ついているのは、明らかな事実で、「この苦痛は自分が悪い」、「自分の被害妄想で、悪いのは自分だ」と抱え込んでいたら、何も変わらない。自己完結を強制しているわけで、加害者は何も考えずにそれまで通りに悪意や害意を撒き散らすだろう。
ここに先に書いた、被害者が悪い、という考えが再び出現してくる。よく考えて欲しいのは、被害者はダメージを負っているが、加害者は少しのダメージも受けていない。被害者は(少なくとも僕は)、誰かにダメージを与えたいとは思っていない。天秤は大きく傾いている。悪い人間ははっきりしている。
それなのに何故か、被害者にも変化を求める動きが出てくる。どうしてだろう?
加害者も悪いが、被害者にも非がある、などと賢しい意見を堂々と口にする人もいる。
僕が何度か聞いた言葉だが「もっと大人になれ」がその意見の代表だろう。大人、とは、これもまた下品な言葉である。僕の味方をしてくれた大人はほとんどいないし、僕が見ている大人は、何故か加害者を擁護する。
この「大人になれ」は、根深い問題を内包している気がする。加害者の更生を完全に放棄し、被害者が加害者を受け入れる、という意図だが、被害者が加害者をどうやったら受け入れられるのか。「大人になれ」と言った人は、何を想定しているのだろう?
この点はほとんど、被害者の人格改造に近いし、現時点の被害者の人格を否定している。本当に否定し、改造するべきは加害者の人格ではないのか。
大人の人格、とでも呼ぶべきものが世の中にはあるようで、たまにどこかで、大人の生き方の対義語のような感じで「青臭い」という言葉を聞く。子どもっぽい、と同じ意味だと僕は受け取っている。僕自身は自分を子どもっぽいとは思っていないが、その中で子どもっぽいと自覚する点は、人を信じすぎる点だろう。管理者が加害者を裁いてくれる、といまだに信じてしまう。もはや管理者が動かないとはっきりしても、まだ管理者の善意を信じている。同時に社会とか世間には、加害者を罰する、処分する善意がある、とも信じている。これらの発想は間違いなく子どもっぽいだろうが、逆に考えると、大人の考え方は、善意を信じない、ということなのだろうか?
大人になれ、と言われることは、人格を変えろ、価値観を変えろ、そういう指摘だと僕は考えている。大人の人格、大人の価値観、そういうものに、僕はあまり希望を見出せない。大人になれ、は、諦めろ、とも僕の中では解釈されるし、残念ながら僕は諦めが悪いし、譲れないものも多い。
世間では加害者は加害者のまま放置されるのが、どうやら当たり前のようだが、どうして誰もが彼らを放っておくのか。純粋な労力の問題だろうか。それともまさに諦めていて、世間に組み込まれていても、見て見ぬ振り、知らん顔、ということか。
大人、というのは、つまり世間、社会、一般、のことで、どうやら連綿と受け継がれている。もう誰も変えられないかもしれない。少なくとも社会全体をじわじわとでも変えるより、子どもの心の持ち主を潰すように変えていく、塗り替えていく方が、楽ではある。
その代わり、いじめや嫌がらせはなくならない。加害者は常に新品同様のままですぐそこにいるからだ。そして彼らが周りを傷つけても、傷ついた人もその周りの人も、傷を無視して、加害者もまるで見えないように放っておく。それが正しいと、大勢が考えている。
1でも-1でもない、無関係な大勢は、こうなると誰よりも残酷で冷酷だが、しかし彼らは何も気づいてないだろう。
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