第7話 決定的な欠落

 話し合いの中で、いくつか分かったことがあるが、その中でも重大な欠陥が二つ、露わになった。

 一つは、調査能力の絶望的なまでの硬直である。

 話し合いの場で、僕は繰り返し、嫌がらせの存在を主張した。話し合いはどういうわけか、加害者に悪意がない、とか、加害者にずっと黙っているようにはいえない、という方向へ進む。つまり、僕がどれほど傷ついているかは、二の次になり、まずは確証を示せ、となる。

 僕には何の権限もないが、管理者はいくらでも動けたはずだ。これはあまりの驚きに声を失いかけたが、管理者は、僕が、アンケートを取ったり、聞き取りをすれば良い、と言ったら、その手があったか、みたいな反応、それもものすごく薄い反応だった。

 この件ははっきりと動き出してから三ヶ月近く経っているし、その前から不穏な動きを通報していた。その間、いったい、管理者は何をしていたのか?

 最新の話し合いで、やっと、同じ職場の一人に話を聞いた、と言い出したが、この話も、管理者があまりにも僕の主張である「加害者からの嫌がらせ」が、僕の考え過ぎである、重く捉えすぎている、と定義しようとするので、客観的に把握してみてはどうか、と僕の方から言って、やっと口にした。

 この聞き取りの内容は、加害者の行動を裏付けたが、管理者は謎な理屈を展開した。その聞き取りの相手が、加害者から確かに不快な思いをしたがもう気にしていない、と言っている、というのが、管理者の理屈を展開してきた。

 全く理解できない。どうにか噛み砕けば、あなたも気にしなければ良い、という主張のようだが、気にするしないは、僕の感性の問題だし、今まで可能な限り、耐えてきた。

 そもそも、管理者がどういう発想なのかも、わからないといえばわからない。加害者からの被害を受けても耐えよ、ということか。つまり泣き寝入りか、自己欺瞞を徹底せよ、ということか。

 ふと浮かんだが、ジョージ・オーウェルの小説「1984年」に、二重思考、ダブルシンク、という設定というか、要素のようなものが登場した。つまり管理者は加害者から苦痛を感じたら「これは苦痛ではない。自分とは関係ない」と思考で上書きすることを望んでいるのか?

 それでいったい、何が変わる?

 これは本当に個人的なことだけど、僕は精神の強さとか、図太さとか、そういうものはあまり信じていない。例えば、何かの発表の舞台で緊張する、というのはよくある例だ。では、緊張しない人は、どんな人か。まず、場慣れしている。他には、発表に自信がある。そして、そもそも、何も感じない人もいる。それは精神どうこうではなく、何を意識しているか、ではないか。場慣れしている人は、多勢の観衆を意識しないだろう。発表に自信があれば、誰にも批判されないし、質問にも正確に答えられるわけだから、失敗を意識しないだろう。何も感じない人は、そもそも何も意識していない。

 学生の時、文章を書くサークルに入っていて、メンバーの前で発表し、メンバーがそれを論評する、ということをやっていた。僕が発表する日、早く教室にいて本を読んでいると、後から来たメンバーの一人が僕に「緊張しないんですか?」と聞いてきた。その時、僕は少しも緊張してなかった。何も考えてなかった。あるいは、自分の文に自信があった。

 つまり、二重思考は「精神が強い」とは無関係だ。精神力を必要とされるが、やっていることは意識の焦点を強く念じてずらす、そんな具合だろう。要は、精神的不感症に自ら陥れ、と管理者は言っている、と僕は捉えた。

 この「調査」とその「結果の解釈」は、はっきり言ってめちゃくちゃだ。まず調査としては小規模どころか、かすかな調査に過ぎない。そして、そこで出た結果を、極めて好意的、恣意的に捉えている。僕は客観性を求めたが、なんとびっくり、管理者はここに至っても自分の主観を混ぜ込んでいる。

 日本語が通じているか怪しいが、もはや管理者には調査能力も、中立な態度、客観性がない。

 もう一点は、懲罰が不可能、と話し合いの中で発言があったことだ。

 この点は前にも記事に書いたが、暴力がない限り、この職場からは誰も放り出せない、とはっきりした。

 以前の話し合いで、集団の自浄作用の話をしたことがある。そこで管理者が取り上げた事象は、後になってみれば自浄作用ではなく、ただの新陳代謝だった。それも悪を少しを外へ出さない、奇妙、怪奇的な新陳代謝である。

 ここでも管理者は、嫌がらせの確証、を口にした。それは管理者が調べるべきだし、管理者しか調べられないのに、それを怠りながら、僕が、まさに、僕が、僕自身が、確証を提示できないことを理由にしている。

 この理屈はまるで理解できないが、そもそも管理者の視点に変な歪みがある。

 僕は嫌がらせを受けた。苦痛を感じた。それは事実だ。紛れもなく。

 なのに管理者は、苦痛を感じる理由、苦痛を感じた要素は何か、それが意識的なものか無自覚なのか、どうしたら自覚的なものと証明できるのか、その辺りに疑問を示し、そもそも嫌がらせを受けた、という主張はあなたの主観だろう、という態度を取っている。

 僕が感じている苦痛は、そんなに何から何まで証明しないと、苦痛と認定されないのか?

 ここに嫌がらせやいじめの難しさがあるのは確かだ。

 体が傷ついているわけではない。

 心の傷は見えない。

 ただし、そんなことは誰でもわかることだ、心が見えない、というのは常識ではなく、絶対である。

 僕は少なくとも、傷を見せられないことを承知で、被害を訴えている。傷を見せることはできないが、言葉を尽くして、理解を求めている。

 だけど管理者は、言葉では不足なようである。では、いったい、何を求めているのか。

 ここに奇妙な矛盾が生じるが、管理者は僕の主張をまともに取り合わず、しかし加害者が「意図的ではない」と主張することは、信じる姿勢だ。

 この点に僕は客観性という楔を打ちたいわけだが、管理者の考える客観性は彼らの主観なのだから、もはやどうしようもない。

 話が戻ってしまった、先へ進もう。

 加害者が「意図的ではない」と主張したら、どうやら加害者の罪は問えないようである。その先は不明なままになるが、例えば、複数人が被害を表明したら、果たして管理者はどうするのか。

 最新の話し合い(というか、最後の話し合いだろうが)において、懲罰がほぼ存在しない組織だとはっきりしたが、複数人の被害が明るみに出たとして、管理者が取れる道とは何か。

 加害者の口をまさか縫い合わせるわけにもいかない。

 とにかく、今回の件でこんな組織があるのか、と、様々な面で驚愕させられたが、この二点はとんでもなかった。

 調査能力が皆無、調査しても自在に解釈する、懲罰はない。

 次の点も大き過ぎる。

 苦痛を感じたら、苦痛を感じなければ良い、という姿勢。

 これがまともな人間社会だったら、社会の中の人間は、機械装置と変わらないのでは?

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