第5話 被害妄想というレッテル
管理者がどういうわけか、加害者を徹底的に弁護して、僕が間違っているような態度を取る。これが最初から大きな謎で最初は次のことを考えた。
僕が黙れば全てなかったことになり、つまり、職場にはなんの問題もありません、という態度を取れる。
それくらい僕の訴えは黙殺される流れが露骨で、それが逆に僕を強く煽っていたのですが、不意に別の考えが浮かんだ。
それは、僕が被害妄想に陥っていて、実際の加害者の態度や行為を過剰に訴えている、もしくは、事実無根のことを繰り返し主張している、と管理者は考えているのではないか、ということ。
これは、事実を否定する、口を塞ぐよりも、効果的と言える。
僕は自分が感じたままを、自分の言葉で伝えているにも関わらず、それは被害妄想ですよ、と言われてしまうと、僕の感覚も心も僕にしかわからないために、事実だと証明できない。
この被害妄想という要素を取り上げると、変な陥穽も見える。僕が被害妄想に囚われている、と思われていると解釈すること自体が被害妄想で、出口の見えない輪に落ち込んでしまう。問題が加害者や管理者、嫌がらせや職場に対するものではなく、純粋に僕が人間的に欠陥があるのでは、という一点に集約されてしまう。
この一点に全てが取り込まれると、脱出は果たして可能だろうか?
極めてシンプルなシチュエーション、要は、僕がまともな判断力を回復するか否かが、脱出の実態になるが、恐ろしいことに、判断力の回復がそのまま、加害者から受けた苦痛は僕の妄想でした、という訳のわからない事態になる。
被害妄想から抜け出すことと、加害者から受けた苦痛をなかったことにすること、この二つは根本的に全く違うが、理屈としては、筋が通ってしまう。
今までの話し合いの場を見る限り、苦痛でしかないが、管理者は明らかに僕の主張をなだめすかしている点を考慮すれば、加害者の行動その他に対して否定的でも批判的でもない。逆に僕の言葉に対して否定的である。こうなると、僕が被害妄想に陥っていると見ていると考えるしかないとして、では、この罠からいかにして脱出できるか、吟味しよう。
大前提として、僕一人ではこの渦から抜け出すことはできない。第三者の意見を集め、客観性を手に入れなくては、いつまでも僕一人の意見に過ぎず、僕一人ということは、妄想だろう、という判定を覆さない。
AKB48の楽曲で「軽蔑していた愛情」という曲が、最初期にあった。この歌詞の中で「今さらアンケートを取っても」という部分がある。いじめ問題で、学校だかが事件が決定的な事態になってからアンケートを取っても遅い、というニュアンスだが、とりあえず僕の場合では、アンケート、もしくは聞き取りは可能だろう。
ただし、難点は僕に懐疑の目を向ける管理者がアンケートや聞き取りを行う点にあると思う。本当に事態が悪化しない限り、大半の人間は日和見主義だろうし、僕ごときのために勇気を出す仲間もおそらくいない。結局、管理者が僕に向けているだろう被害妄想者という基準を元に、集まった情報を解釈する公算が高い。
そもそも、いじめや嫌がらせにおいて、被害者に「あなたの被害妄想では?」という態度は、逃げや放置より悪質であると思う。
人間が他人から受ける苦痛は、物理的なものもあるが、少なくとも物理的な苦痛は怪我なりの痕跡で、客観的に判定が出来る要素がある。
しかし精神的な苦痛は、どう考えても客観的には示せない。変な話だが「お前はバカだ!」と言われて、泣く人もいれば笑う人もいる。さらに複雑なのは、泣いている人が本当に悲しんで泣いているのか、無傷だが場を盛り上げるために演技しているかわからないし、笑っている人も、心底から傷ついても笑ってるかもしれない。
誰も心の傷や痛みを他人に見せることはできない。しかし当人は苦痛や苦悩を抱いている。
それを被害妄想だと言われてしまうのは、さらなる苦痛だし、先に示した通り、自分で自分を傷つけ続ける連鎖に落ち込む。
僕は理屈が好きだが、この被害妄想という設定による訴えの反転、みたいなものを崩す理屈を考えてみるに、
そういうあなたは何を見ているのか?
という、理屈になるだろうか。
つまり被害者が訴えている苦痛が妄想だというのなら、では、妄想ではないものがこの世にあるのか、という反論だ。もはやいじめや嫌がらせの話ではなく、人間の認識の問題だが。
被害妄想は負の要素だが、逆転させて、正の面にも適用してみる。
露骨に言えば、恋愛がそれに当たる。
世の中の恋人同士は「好きだ」とか「愛してる」とか言い合うようだが、その好意は、何が保証しているのか。手に取れるだろうか、目に見えるだろうか。
変なドラマみたいな展開になるが、例えば大富豪の女に、顔は良いが生活力ゼロの男が近づく。女は男に惚れ込んで結婚するが、なんだかんだで男が財産を持ち逃げするとしよう。
男は明らかに金目的で、女にチラつかせた好意は嘘である。女はその好意を本物と勘違いしていた、つまり妄想に陥っていたことになる。
では、女が男の真意をどうやって推測できたか。答えは、できない、ということになる。
整理すれば、苦痛が被害妄想だと主張し始めると、好意や信頼のようなものさえも、ある側面では、ただの妄想に過ぎない、という主張が成立する。
苦痛と信頼の違う要素は、苦痛が人間同士の間を分かつものであり、信頼は人間同士を結び合せるものである、ということにある。その点で、被害妄想を声高に主張する人間にわずかなアドバンテージがあることにはある。人間は群れで生きるから、信頼関係を疑っていては生きていけない、という主張がそれに当たる。他人に苦痛を与えられても、一人で生きていけないから我慢しなさい、というのが、被害妄想を押し付ける連中の主張の一つだろう。
重要なテーマとして、人間の群れ、社会や集団は、巨大な一角だが、今はそれは脇に置いておいて、他人に苦痛を与える人間がいても、無関係なものは、苦痛を受けた個人は無視してでも集団の維持に力を注ぐと良くわかってきた。可能性として、そんな集団を抜ける、別の集団に合流する、もしくは一人で生きるように努める、そういう要素があり、有力ではある。
ただし、世の中に汚れた連中が大勢いるし、それを誰もが放置している、という事実を前にすると、どんな集団に混ざっても、どこかにドス黒いところがあり、いつか自分に牙を向くのでは、と僕は不安になる。
僕が求めるのは、陳腐な言葉では正義、もしくは良心、となる。
被害妄想について言えることは、それはただの空想ではなく、悪意に根を張った、連想に近いものだということだろう。
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