第4話 平等、公平、社会などという言い訳

 嫌がらせの加害者を擁護する管理者を前にすると、公平であろう、という意識は見える。しかしこの、公平、がもはや機能不全と言うよりない。

 管理者は職場という環境を維持する機能を持つのが一般的だろう。その環境とは、露骨に言えば、働きやすい環境、という言葉になる。今、そこで嫌がらせが起こっているわけで、当然、僕にとっては、働きやすいなど口が裂けても言えない。

 ここで公平という概念が顔を出す。あなただけのための職場ではない、みんなのための職場である、という意見だが、どうやら「みんな」の中に加害者が平然と含まれている。

 ここで管理者、もしくは職場が要請している公正は、いったいどんなからくりなのかが、僕にとって理解に苦しむ。

 まず僕が不愉快な思いをしている、と主張しているわけだが、あなただけの場ではないから、という理屈で跳ね除けられる。

 では、加害者が明らかに善悪を理解していない言動を取るのは、加害者だけの場ではない、という理屈で封じ込められるはずだ。

 それなのに管理者、職場はこの封じ込めを行う様子がなく、むしろ放置している。

 つまり、管理者たちや職場としては、公平の旗を高らかに掲げているが、彼らが求めているのは、沈黙なのだろう。

 沈黙はありとあらゆる争い、あるいは様々な場面において、効果的ではある。

 僕の件では、公平な場だから不平を言ってはいけない、というやり方で、沈黙を求めてくるだろう。勘違いされては困るが、僕が言っているのは不平ではない。悲鳴であり、助けを求めている。しかし管理者には届かないようである。

 こうして公平を盾にして、他の人間さえも黙らせていけば、そこには、清廉潔白な集団が成立したような幻が出来上がり、そこには堂々と「働きやすい職場」とかいう札が掲げられる。

 では加害者に公平という概念がどう作用するか、想像する。

 まず加害者は犯罪にならない限り、公平な環境という前提に保護され、追い出されることなく集団の中に位置を占める。そして、管理者の目を盗めばいかなる悪事にも突き進む。管理者がその悪事に気づいて欲しいものだが、僕の見たところでは、管理者は半ば仕事を放棄しているため、その発見はあり得ず、当然、僕は報告するが、驚くべきことに管理者は管理という要素の重大な一角、調査能力が麻痺している。結果、加害者は管理者に事態を低く見積もられ、その低く見積もっている管理者が、僕に公平な判断とやらを示し、あなただけの場ではないから、と、加害者に公共の一員、という地位を与え、権利を与え、決して対処しないどころか、被害者の僕に対して、変な妥協を迫ってくる。

 理解不能なのは、悪事と呼ばれるものの基準だろう。管理者が口にする悪事は、暴力、それ一点である。もしくは犯罪ということになる。

 そう、この主張における細部は、興味深い要素を孕んでいる。

 管理者は、犯罪に届かない、まさに嫌がらせをどういう判断基準で眺めているのだろう。

 先に書いた通り、職場における管理者の活動はほとんど形だけな上に、事後の調査にも信用持てない。彼らが知ることは誰かが訴えたことがまず第一。次に来るのは聞き取りだろう。管理者自身の耳目がどうなっているかといえば、直接に聞くことも見ることもしていない。

 もう一度、立ち返ろう。

 管理者は、公平さを形の上では目指しているように、うかがえる。

 だが、管理者は僕がいくら苦痛を訴えても、現場を知らない。加害者も管理者にまさか事実を言わない。

 管理者の中にある情報は、極端に一方的になる。つまり僕の意見しかない、という偏りが生じざるを得ない。この状況を意図的に作り加害者が防御に使っていたら、それは物凄い策士だろう。

 整理すれば、管理するはずの管理者は僕からの一方的な激しい意見を受ける。

 管理者は公正の旗に誓って、まずは僕を黙らせる。加害者がやってることをほとんど把握してない管理者はここで、僕に向かって、加害者に理解を示せ、という方向へ話を持っていく。

 ここに至って、事態は善悪の感覚の摩擦ではなく、人間性へと到る。

 僕は出来るだけ穏やか、仕事に集中したいし、仕事が全てではないが、公私の充実を考えている。それは普通な考えだろう。誰かを意図的に傷つけたいとは思わないし、他人に嫌な思いもさせたくない。

 加害者の生き方は、僕の生き方とは大きく異なっている。誰かを笑い者にして愉快になり、誰かを傷つけて愉快になり、はっきり言って集団に馴染めるとしても、それは集団の色を黒く塗り替えているようなものだと観察される。

 その加害者に理解を示すことは、僕にはできない。それでは、わざと泥沼にハマれ、というようなものだ。

 これの逆は、起こらないのが、事態の本質かもしれない。

 僕には、泥沼に突き落として汚れは塗れることを知れ。

 加害者は、元からある泥沼で自由にしなさい。

 僕が考える公平とは、かけ離れすぎている。

 では、公平とはどこかと考えれば、それは間違いなく善の中にある。

 善な方向へ進んで欲しいという管理者は、何故か僕に悪を許容するように迫ることで、僕の中にある善は影を抱え込み、公平の基準だったはずの善にも泥が被せられていく。

 加害者を公平に扱おうとする時、何故か加害者を更生させる、もしくは更迭しないのが、僕の中の疑問の一つである。

 いきなり大きな言葉だが、人権、みたいなものを主張するんだろう。

 ただし、加害者の人権を主張したりすると、では僕の人権はどうなるのか?

 人格をひどく傷つけられているわけだが、他人を傷つける人格は保護され、擁護され、まさに鉄壁なのに、僕の人格は改造の余地ありとみなされる。

 この状況では、公正、もしくは平等は、無視されている。

 管理者が標榜していると思われる、公正、平等、は、つまり、「社会」と同義だろう。

 言葉としては存在するが、誰も全体を知らず、仕組みも構造も知らず、耳に聞こえのいい言葉として、好き勝手に使う。

 こうなっては結論は簡単だ。

 管理者は、被害者と加害者、この両者のうちの、より簡単に対処できる方を選んで行動して、そこで、対処を受けた側に「みんなが集まる場所だから波風立てるな」と、集団の圧力、社会という圧迫で、迫る。

 そこには公平も平等はないし、やはり「社会」もない。

 そこにあるのは、管理者とその環境の怠慢であり、放置に過ぎない。





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