第3話 いじめや嫌がらせにおける数の要素
繰り返し書いているように、管理者は加害者を擁護するような立場に立ち、僕の改造を狙っているようである。そうでなければ、僕が黙り込む、もしくは身を引けば事態が解決する、それも根本的に解決する、という発想が見える。
この展開を想像すると、思い浮かぶ事象がある。
それは、小学校や中学校で、いじめを受けた児童、生徒がほかの学校に転校する、という事象だ。
少し前にツイッターでちらっと見たが、この展開はよく考えると理不尽というか、変な数の理論が見え隠れすると思える。
前提として、いじめや嫌がらせが、少数から多数に向けられる、例えば一人の人間が複数人を制圧する、という場面は極めて少ないだろうし、その状況では、管理者の立場の人間は、その加害者の一人に対処するだろう。この可能性は覚えておいて欲しい。
大多数のいじめや嫌がらせのシチュエーションは、多数が少数、もしくは一人を徹底的に傷つけることになる。多数が悪意を持っているわけで、この状況に置かれた一人が身を引くことになる、ということが一般的になっている。一番悲しい事態は環境や状況から身を引くことがなんらかの理由でできずに、決定的な事態が起こることである。
悪意のある多数は、何故かその環境に、ほぼそっくりそのまま、残される。管理者は、被害者の側に環境を変えること、つまり逃げるように助言するのは、何故だろう?
どうして悪意を持つ集団を是正したり、矯正できないのか?
ここで先に示した、一人が多数に害意や悪意をぶつけると、その一人を管理者が指導し始めるだろう、という推測を思い出すと、実に身もふたもない構造が見える。
管理者は、多数に影響を与えることを避け、少数に影響を与えることを望む、という構造になる。
この発想があるとして、では何故だろうか、と考えると、いくつか要素が見える。
えげつないのは、多数を変えるより、少数を変える方が簡単、という発想か。確かに労力の点では理に適っているが、そこには善悪の判断が全くない。多数が悪をまき散らした時、それに潰される少数は、管理者の怠慢、もしくは効率という要素によって、まったく救われない、良いように扱われていることになる。
もう一つは先に上げた文章でも触れた、社会、と呼ばれる要素だ。これは認識の焦点の差から生じるブレとでもいうべきものだけど、社会と多数がイコールで結ばれ、さらに多数が常識とイコールで結ばれ、そんな風に都合よく社会という言葉は無制限に補強されていき、ただただ巨大化する一方で空疎化する。
いじめや嫌がらせをしている多数の人間は、多数であるという点だけで、由来不明ながら「集団」と認識される様子が見られる。そうなると被害者が「集団」に馴染めていない、と映ってしまう。被害者に能力が足りない、とこの理屈は展開しそうである。
「集団」という表現を使ったが、この概念はいじめや嫌がらせの現場につきものの、おそらく、どの環境においても一番大きい集団も含まれてくる。
それは、傍観者、沈黙している人々、である。
管理者が被害者という少数を分析する時、集団に馴染めていない、とまず考えるとする。
被害者は加害者集団とはたしかに馴染めていない。これは水と油だ。うまくいくわけがない。管理者はさらに視点広げる。
学校なら、クラス三十人なりを眺めるはずだ。
数字を適当に設定するが、被害者が一人、加害者が五人とする。残りの二十四人は沈黙している傍観者だ。ここに差はあるとしても、加害者に歯向いたくない傍観者は、被害者に手を差し伸べることはない。
こうなると管理者が被害者が馴染めない相手を、加害者集団と同時に傍観者集団の一部にまで拡張してくる事態になる。こうなってくると管理者が加害者に対処するのが余計に困難になるはずだ。被害者は加害者によって苦しんでいるのではなく、環境にそもそも適応することができていない、という理屈が通り始める。倒錯しつつあるが、被害者が集団に同化できない、と認識されてしまうと、問題があるのは被害者で、加害者と傍観者の集団には何の非もない、とまではいかなくとも、その集団の悪性が指弾されたり、矯正の力が働くこともなくなりそうだ。
僕の職場でもこの傍観者が大勢いる。それぞれに穏やかにいくつかのグループができ、しかしそれぞれに仲間内で交流しているわけだが、加害者もまた仲間を作り、悪意をせっせと放出している。
僕は周りにいる人に頼るしかないが、もちろん加害者をいじめ返すわけではない。加害者の、あまりに人間性を欠いた言動、嫌がらせやいじめを、一緒に訴えて欲しい。
しかし、僕の周りにいる人は、傍観者しかいないので、そんな動きも起こらない。こればっかりは仕方ないだろう。進んで厄介ごとに加わるのは、残念ながら、愚かであるし、そんな危ない橋を渡る必要はない。
結局、僕は一人で孤軍奮闘するよりない。加害者と管理人(ちなみに二名、ないし、三名いる)と渡り合うのは非常にしんどい。
最初に提起した、数が少ない方が変化を強要されるのは、何故だろう、というのが、どうもただの効率か、あるいは厭世観に近いもの、かもしれない。
厭世観とは前に書いた「社会にいじめはあるじゃないですか」という発想だ。目の前でいじめが起こった時、管理者が多数の加害者を放置せざるを得ないのは、彼らの側に、傍観者が多く片足を突っ込んでいて、結果、「社会」という後ろ盾の元、「社会にいじめがある」の理屈を元に「いじめのある社会」の出現を受け入れている、ほとんどいじめや嫌がらせの黙認、容認だか、そういうこということだろうか。
被害者をどこかに移したり放り出すこと、それはほとんど外科手術で、ただしとんでもない外科手術と言わざるを得ない。
その外科手術の対象は被害者で、まさに人間の善性を頼りたい、頼っている、願っている人を、環境や組織、集団から切り離している。
いじめや嫌がらせの対象を失えば、加害者はもう悪事を働かないか?そんなわけがない。
これは経験談だが、僕は中学生の時、一年と少し、徹底的にいじめられた。しかしそれは、僕に(正確には僕の親に)落ち度があったので、このいじめはおおよそ受け入れた。適切ないじめ、当然の反応、と思ったのだ。
このいじめは僕がいなくなればそのまま消えるだろうと感じた。
余談だが、小学生の時のクラスメイトに腕を骨折する大怪我を負わされたが、時間が過ぎて中学のいじめ時代、その男子は同じクラスだったが、僕を貶す中で、
「腕が弱すぎて折れちまった。腕が弱いのが悪い。わっはっは」
と言っていた時は、この人は善悪がわかってないな、と感じた。
この余談を広げると、中学校の三十人のクラスの中でほとんどが僕に否定的になり、どれだけ傷つけても良い、となると、大怪我を負わせたという反省し自戒すべき事態さえも、流れに押し流され、反省も自戒も失われたがために、罪だと知っていながらそれを誇るような言動をする人間は確かにいると言える。
つまりこの時の三十人という集団は、積極性の差はあれ、僕をいじめる多数派であり、僕自身が耐えたこともあるが、結局、教師は介入しなかった。
興味深いのは、中学生の時、転校してきた生徒がいた。前の学校でいじめられた、とかすかに聞いたけど、僕と少ない友人の輪に自然に入り、楽しい場面もあり、僕の生活はいじめに耐え、彼らと趣味の話をする、という二重生活風になった。
転校してきた生徒には何も欠けていないように思えた。人格も趣味もコミュニケーション力も優れていたとさえ言える。
前にいた学校のことは知らないが、善人を放り出した、と判定できる。
いじめや嫌がらせの加害者を他所へ移さないのは、何故だろう?
それには傍観者がやはり要点になるかもしれない。
加害者は被害者には攻撃を加えているが、傍観者は両者とは不可侵な感じになる。
加害者がそんな傍観者と癒着することで、管理者は加害者の選別や加害の限度、そういうものを誤魔化せる、という可能性はどうか。
みんなやっている、という言葉が浮かぶ。
みんなやっている。
最悪な言葉だ。
それは、その職場や環境が地獄だと言っているのに等しい。
何故か人は多には対処できず、少に強く指示を出す。
熱意、正義に取り憑かれた人間が近くにいないのが、恨めしい。
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