甘い夢に振り回されて
ガラス細工を扱うように、静かに、優しく、肩に腕を回す。その拍子に小さく震えた体を強く抱き寄せると、片手を頬に添えた。
恐る恐る顔を上げる彼女は、恥ずかしそうな赤みが差していて、翡翠色の瞳も揺れている。視線を落とせば、柔らかそうな唇から、誘うように吐息が漏れる。ふっくらとしたピンクを指の腹で撫でるなり、彼女の肩がまた震えた。
イリア、と囁き、忙しなく泳ぐ瞳を覗き込む。すると、熱っぽい彼の瞳に何かを感じたのか、翡翠色が瞼の裏に隠される。彼は愛しそうに目を細め、そっと、唇を触れ合わせた。
指で触れた時以上に柔らかく、溶けて無くなってしまいそうな感覚に、もっと強く押し付けたくなるが、そこは我慢。彼女を怖がらせないように窺いつつ、慎重に事を運ばなければならないのだから。それなのに。
「ジャッキー」
ほんの数秒。それでは物足りないと言いたげな瞳、そして声。体の熱がぐんぐんと上がっていく。頭もクラクラしてきた。
「……これ以上は、止められなくなる。それでもいいのか?」
声に余裕が無いのが自分でも分かる。だが彼女は、その言葉を受け入れるように、静かに目を閉じた。
それを目にした途端、もう我慢出来ないとさらに強く抱き寄せ、再び唇を落とす。背中に腕を回して身を委ねる彼女に僅かに体重を乗せ、彼女の柔らかな金髪に指を絡ませる。
しばらくして、キスをしながらでは上手く呼吸が出来なかったのか。空気を求めて彼女が顔を離すと、彼はその後頭部を自らに押し付け、息を吸うために開いていた隙間に舌を入れた。驚いた彼女は目を見開くも、すぐさまきつく目を閉じ、彼の求めに懸命に応じている。その姿が愛しくてたまらない。
不意に彼が唇を離すと、彼女は静かに目を開き、不思議そうに見上げてきた。普段ならあり得ないくらいに息を乱しながら。
「ジャッキー?」
「好きだよ、イリア」
「……私も。好きよ、ジャッキー」
「イリア……好きだ。愛してる」
優しく囁くなり、ようやく息を整えた彼女の呼吸をさらに乱しにかかる。目を閉じて彼を受け入れている彼女の後ろを見、さらに体重を乗せる。支えきれずに倒れた背中が数回跳ね上がるも、白いシーツが彼女を静かに受け止めた。この状況に困惑しながら、天井を遮るように見下ろす彼から目を逸らす。
「ジャッキー……その、私……」
「もう止められないって、言っただろ」
そう耳元で囁けば、くすぐったそうに小さく体を震わせ、目の前の彼の袖を掴んだ。
「……優しく、してね?」
「善処はするけど、出来なかったらごめんな」
悪戯っぽく笑う彼に何か言おうとした彼女を唇で黙らせるなり、頬に添えた手で首筋から鎖骨を撫でる。いつまでもこの時間が続けばいいと彼女の熱に酔い痴れながら、彼は服に手をかけた。
「――ッキー――ジャッキー……おい、ジャッキー! いい加減起きろ!」
はた、と目を覚ます。むくりと起き上がるなり、寝ぼけ眼で辺りを見回した。
「……え? あれ? イリア? イリアは?」
彼女は、イリアは、どこへ消えた。つい先ほどまで愛を囁き、何度も熱いキスを交していたのに。あと少しで、もっと深く彼女と繋がれたのに。あの甘いひと時はどこへ消えた。
ぼんやりとした頭に、ルームメイトの笑い声が降り注ぐ。
「夢の中でクロムウェル団長とイチャついてたのか? それは残念だったな。さっさと支度しないと、遅刻するぞ〜」
支度を終えたルームメイトが部屋を出て行く。それを見送り、手で顔を覆った。口からは、深い深いため息。
「……夢かよ」
それにしても、肌の感触まで感じるなど、なんてリアルな夢だろう。夢から醒めてもなお迸る熱に、顔どころか体の芯まで翻弄されていた。
「はあぁ……」
回廊を歩きながらがっくりと肩を落とし、今日だけで何度目かの深いため息を吐く。二十年の人生の中で、ここまで仕事に身が入らない日は初めてだ。
それもそのはず。夢の中とはいえ、片想いの彼女と熱い逢瀬を果たしていたのだから。遅刻はなんとか免れたとはいえ、いいところで目が覚めてしまったのだから、落胆するのも仕方がない。
(でも、夢の中のイリア……物凄く可愛くて……柔らかかったなぁ)
頬を染めて甘えるような眼差しと、今なお残る唇の感触を思い出す度に顔が緩むのも、今日だけで何度目か。そうして忙しく顔を変えていた、まさにその時。
「あら、ジャッキー。久しぶりね。嬉しそうな顔してるけど、何か良いことでもあったの?」
「い、イリアっ!?」
にこやかに話しかけてくるイリアに、ジャッキーは思わず顔を逸らす。よりによって、こんな日に彼女と会ってしまうなんて。一体、どんな顔をして話せばいいのだろう。
「……ジャッキー?」
顔が熱い。体も熱い。それでも視線はチラチラと、小首を傾げる彼女の唇へ。夢の中の彼女が頭を過り、意識せずにはいられない。
「ジャッキー、どうしたの? 今日の貴方、ちょっと変よ?」
「そっ、そんなことないよっ!?」
「でも、顔も赤いし……具合でも悪いの?」
心配した彼女が歩み寄る分だけ、後退り。これ以上ここにいたら、本当に変な気を起こしてしまいそうだ。
「……ご、ごめん! 俺、巡回中だから!」
逃げるように立ち去る彼の背中。取り残されたイリアは、不機嫌そうに頬を膨らませる。
「なによ、さっきまでぼんやりしてたクセに。……久しぶりに会えて、嬉しかったのに……もうっ、ジャッキーのバカ!」
勤務時間の都合で少し早めに食堂で夕食を取っていると、向かいの席にトレイが乗せられた。顔を上げると、そこに立っていたのは幼馴染のジュリア。彼女はどこか怒ったように座ると、じっと彼の目を見据えてきた。
「ジャッキー、イリアちゃんに何したの?」
「えっ!? 別に、何も……っていうか、どうしてジュリアがそんなこと聞くんだ?」
「昼過ぎにイリアちゃんと会ったんだけど、『ジャッキーのバカ!』って怒ってたから。……ねえ、何があったの?」
「そ、それは……っ、その……。今日は、ちょっと……タイミングが悪いというか……」
先ほどの、イリアのことを切り出した時の分かりやすく揺らした肩に、酷く上擦った声。耳まで赤く染まった顔。左右に揺れる瞳は、決してこちらを見ようとしない。
それを見て、直感する。彼は心の内に何かやましい事を潜めており、それを必死に隠そうとしている、と。
「もしかして……イリアちゃんのエッチな夢でも見たの?」
「っっっっ!!??」
図星だ。言い当てられた瞬間に顔が強張り、咽せている。あまりに分かりやすい反応に、ジュリアはため息を吐かずにはいられなかった。
「やっぱり。あのね、ジャッキーはイリアちゃんのことが好きだから、そういう夢を見ちゃうのは分かるよ。でも、避けたら傷付けるって分かるでしょ? このままだと、本当に嫌われちゃうよ? それでもいいの?」
「それは嫌だっ!」
「だったら、今日中に謝ることっ! 分かった?」
「……分かった。謝るよ」
素直に頷く。だが、どんな顔をして会えばいいのか分からないようで、どこか沈んだ声を上げていた。
だが、ジュリアの発した「嫌われる」という言葉。それが胸に突き刺さり、次第にソワソワと落ち着かなくなっていく。そしてこの日の勤務を終えるなり、そのままイリアを探して飛び出したのだった。
暗い部屋でランプも点けず、ベッドの上で蹲る。少し前に扉をノックする音も響いたが、応える気にもなれなかった。膝に顔を埋め、深いため息を漏らす。
(あんな風に避けなくてもいいじゃない……私が何をしたって言うのよ)
「ジャッキーのバカ。……バカ!」
目頭が熱くなっていき、じんわりと涙が滲む。怒りと悲しみでぐちゃぐちゃの心では到底抑えきれず、溢れた滴が頬を滑り落ちていく。ため息も止まらない。
(……私のこと、嫌いになったのかしら。もう話したくもないって。だから避けたの?)
そう思った瞬間、ますます悲しみが大きくなり、大粒の涙と嗚咽が止まらなくなる。このままだと、際限なく悪い方向に思考が向いていきそうだ。
ふと、窓を見る。今日は綺麗な満月。イリアはおもむろにベッドを降り、ベランダに足を運んだ。窓を開けた瞬間、少し強い風が頬を撫で、涙を乾かしていく。
その時、誰かの視線を感じ、中庭に目を向ける。そしてある人影を目にするなり、慌てて踵を返した。
部屋の中に戻るなりその場にへたり込み、苦しい程にザワザワと騒ぐ胸を手で押さえ付ける。今、彼に会うのは怖かった。
「イリア」
しばらくして、弱々しいノックと共に、ジャッキーの震える声が耳に届く。呼吸も荒い。中庭から全力で走った程度ではここまでにはならないから、いろんなところを走り回っていたのかもしれない。その理由は分からないけれど。
「……そのままでもいいから、聞いてほしい」
扉を見つめたまましばらく動けないでいると、彼の苦しそうな声がするりと心に入ってくる。思わず立ち上がり、ゆっくりと扉の方へ。そしてノブに手を伸ばした。
「ごめん」
ピタリ、と手が止まる。それを知ってか知らずか、彼は続けた。
「ジュリアから聞いたよ。でも、イリアのことを傷付けるつもりは無かったんだ。……ただ、その……――する――を……それで、」
「何? 聞こえないわ」
予想外に声が近く、驚いたのか、扉の向こうで彼は息を呑む。少し間を置いて、今度ははっきりと言葉を紡いだ。
「今朝、イリアの夢を見たんだ」
(ジャッキーが、私の夢を……?)
今度はイリアが息を呑んだ。先ほどとは違い、ソワソワと胸が騒ぐ。
そして彼は続けた。
「ただ……内容が内容だったから、どんな顔して話せばいいか分からなくて、混乱して。本当にごめん」
彼の声を聞いていれば、心の底から反省していることが分かる。彼女は再び手を伸ばし、ゆっくりと扉を開けた。
ジャッキーはパッと安堵したのも束の間、彼女の涙の跡を見るなり顔を歪め、「……ごめん」と再度謝る。
「いいの。私のことが嫌いになったからじゃないって、分かったから」
「っ! そんな、嫌いになんて! そんなことある訳ないじゃないか! 絶対に無い!」
必死な顔で訴える姿に、今度は彼女が安堵の息を吐いた。
「……ありがとう、ジャッキー」
不意に、ここである疑問が浮かんだ彼女は、世間話のつもりで問い掛ける。許された安心感から、頬を緩めている彼に。
「ところで、どんな夢だったの? 私の夢だなんて、気になるわ」
「え……」
今度は頬を引き攣らせると、小さく呻き声を上げながらソワソワと視線を泳がせる。しばらくして、じっと見つめる彼女に観念したのか、意を決したように口を開いた。
「……怒らないで聞いてくれる?」
「もちろん。……でも、そんなに変な夢だったの?」
「いや、そうじゃなくて……その……イリアと……」
「私と?」
「……キス、する夢」
聞いた瞬間、思わず扉を閉めてしまった。勢いよく。そして扉に凭れ掛かり、ズルズルと座り込んだ。唇を手で押さえ、飛び出しそうな心臓を抑え込む。顔どころか、体中が熱い。
(ダメ……ダメよ、待って……! 意識しちゃダメ! 落ち着いて……落ち着いて……冷静に考えるの)
「ただの夢よ、夢。それに、夢に深い意味なんて無いんだから!」と、鼓動を落ち着かせようと試みる。
(俺とキスする夢なんて、いくらイリアでもイヤだよな……)
扉を隔てた向こう側で同じように座り込み、深いため息を吐きながら、「言うんじゃなかった」と後悔に苛まれるジャッキーがいるとも知らずに。
そろそろと、小さく音を立てながら、再び扉が開かれる。まさかこんなにも早く開くとは思ってもいなかったものだから、凭れていた体が、カクン、と後ろに倒れそうになった。
「ジャッキー……」
「イリア?」
座り込んだまま、振り返る。すると彼女は、赤く染まった顔を出した。半分だけ。目線は同じような高さなのに、こちらを伺うように少しだけ上目遣いをしながら。蚊の羽音の如き声を上げる。
「あの……ごめんなさい」
「え?」
「私も、人のこと、言えなかったわ。だって、やっぱり、そんな夢を見たら、どんな顔をすればいいのか、分からないもの。なのに、一人で勝手に怒って、ごめんなさい」
キスする夢なんて予想外のことを聞かされ、扉を閉めてしまったことを言っているのだろう。
だが、予想以上に早く扉を開けてくれた。恥ずかしそうにしながらも、顔を見せてくれた。
「いいよ、そんなこと。全然気にしてないから」
「……本当に? 怒ってない?」
「ああ、本当だよ。怒ってない。大丈夫だから」
そう言いながら、ジャッキーは苦笑を浮かべる。そんなことは彼にとって、ほんの些細なことでしかないのだから。むしろ――
(でも、ああ……その赤い顔。俺のこと意識してくれてるって、勘違いしそうだよ。そんなことあるはずないのに)
ヘレナという、文字通り命よりも大切な人を護衛するのだから、イリアが恋愛に現を抜かすはずがないではないか、と。剣の腕も遠く及ばない、そんな頼りない自分を男として見てくれるはずがないではないか、と。
締め付ける胸に苦しさを覚えながら。彼女の小動物のような愛らしさに、心の中で身悶えていた。
(……今夜、ちゃんと眠れるかしら、私)
(……明日も早いのに、体の熱さで眠れないかも、俺)
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