師弟の絆

 大理石で敷き詰められた王宮の礼拝堂。中央に敷かれた深紅のカーペットの両側には、木製のベンチが並んでいる。また、吹き抜けになっているかのように高い天井には、創造神アンティムを始めとした神獣たちの姿。そして壁には聖獣たちの姿が描かれている。それらは朝日を受け、誰もが目を引く美しさを放っていた。

 そんな礼拝堂の最も奥には祭壇がある。落ち着いた木目調のそれは、見事なまでに、この厳かな空気に馴染んでいる。

 その前に、膝を着いて祈りを捧げている姿があった。太陽のように色鮮やかなサリーに身を包み、ダークブルーのツインテールが垂れる少女。


「アリエス様、朝食の準備が出来ました」


 不意に、メイドが礼拝堂に足を踏み入れ、遠慮がちに声を掛ける。するとアリエスは、おもむろに目を開き、静かに立ち上がった。振り向きながら、「はぁーい!」と花のような笑みを浮かべて。






 家一軒分はあろうかという広いダイニング。絢爛な調度品や美しい絵画に囲まれた室内の中央には、白いクロスが敷かれたテーブルが置かれている。その大きさは、一度に十人以上が座ることが出来る上に、両手を広げても隣人と指先が届かない程。

 しばらくすると、廊下から賑やかな話し声が聞こえてきた。アリエス、そしてイリアたちの声だ。すると彼女たちは、ダイニングの前で足を止める。かと思えば、音も立てずに扉が開かれた。


「皆様、おはようございます」


 出迎えたのは、ふわりと微笑むメイドたち。すると、その内の一人が静かにイリアの前に立った。アリエス、ルイファス、カミエル、ティナにも一人ずつのメイドが就いている。

 そして彼女たちの案内の元、ルイファスと腕を組んだアリエスを先頭に、それぞれが席に着いた。そうして始まる、絶品の料理と談笑を楽しみながらの和やかな時間。しばらくして、アリエスは思い出したように声を上げた。


「ねぇ、ルイス様。今日ヒマ? 街に美味しいケーキ屋さんがあるの。一緒に行きましょ!」


 隣に座るルイファスに甘えるように、ちょこんと小首を傾げる。前日にディオに謁見を済ませたため、首都テーゼを発つ二日後まではこれといって予定は無い。それを利用し、少しでもルイファスと距離を縮めようという算段だ。

 その一方。一口サイズに千切ったパンを食べていたルイファスは、突然のデートの誘いにその手を止めた。そんな彼の顔には、困惑した笑みが浮かんでいる。

 だが、彼が声を上げるのを待たずして、扉付近で控えるエリックが二人の話題を遮った。


「本日のアリエス様は午前中は勉強、午後は魔法の実習です。遊びに出ている暇などありませんよ」

「えー……」

「文句は聞きません」


 頬を膨らませ、口を尖らせるアリエス。そんな彼女を、エリックは涼しい顔で見つめている。

 そして朝食を終えてダイニングを出るなり、彼は渋る彼女を問答無用で連れ出すのだった。苦笑を浮かべて見送るイリアたちに、爽やかな笑みを向けて。

 だが、それで大人しく引き下がるアリエスではない。二人の熱い攻防戦が、今、幕を開けた。






(せっかくルイス様にアタックするチャンスなのに、エリックと勉強なんて冗談じゃないわ!)


 まず最初に動いたのはアリエス。彼女は王宮の廊下を駆け抜けながら、ルイファスの客間を目指す。エリックが席を立ったのを見計らい、自習用の問題用紙を放り出して来たのだ。

 だが、あの家庭教師を相手にして、何の策も練らずに部屋を脱け出すのは愚かというもの。もちろん対策は万全だ。


(それにしても、こんなところで魔法の実習が役に立つなんてね)


 笑みが込み上げ、抑えられない。というのも、アリエスは部屋に分身を残して来ていた。今までに見たことがあるものの幻影を作り出す魔法。だが、ただ作るだけでは心許ないため、ペンを動かす動作を付加させる凝りようだ。

 しばらく走ると、客間が並ぶ階に辿り着く。そこで彼女が見たものは、廊下を歩くルイファスの後ろ姿。彼女は満面の笑みを浮かべ、愛しい人の名前を力一杯に呼んだ。


「ルイス様――」


 彼女が大手を振った、その瞬間。足下に青白い光を放つ魔方陣が現れる。かと思えば、あっという間に彼女の姿が掻き消された。驚きの声を上げる暇もなく。

 そうして残されたのは、不思議そうに周囲を見回すルイファスただ一人。


(おかしいな……アリエスの声がしたと思ったんだが……気のせいか?)


 いや、彼女のことだから自分を驚かそうとして、あらぬところから飛び付いて来るかもしれない。そう思ったルイファスは、しばらく立ち止まって周囲を伺う。

 しかし当然ながら、存在しない影をいくら捜しても見付かるはずがない。諦めた彼は、怪訝そうに首を捻りながらも、再び足を進めるのだった。




 椅子に腰掛けたエリックが読書をしていると、不意に、部屋の一角に魔法陣が現れた。するとそこから青白い光が溢れ出し、それは時間を追うごとに強まっていく。

 だが彼は、慌てることなく光に近付いて行く。そうなることが予め分かっていたかのように。そして、光が弾けると共に現れた姿に、にっこりと爽やかな笑みを向けた。


「お帰りなさいませ、アリエス様」

「え? えっ? 何で? どうしてあたしがここにいるの!?」

「アリエス様が逃亡を図ることくらいお見通しです。それに魔法は、アレンジ一つで無限に応用が利く。対象の魔力を感知し、限定して発動させることも可能なんですよ」


 彼の言い種にアリエスは不満そうに、そして悔しそうに顔をしかめる。先手を打ったつもりが、行動を読まれて完全に後手に回っていたのだから。

 その時、彼女はあることに気が付いた。残して来たはずの幻影の姿がどこにも無いことに。

 するとエリックは、机に置いてあった問題用紙を突き付ける。そして、顔を引き攣らせる彼女を前に、盛大にため息を吐いた。


「アリエス様は詰めが甘いんですよ。何ですか、このミミズが這ったような落書きは。魔法はただ掛ければいいというものではありません」

「う……」

「さて、続きを始めましょうか。今度はこちらの問題を解いてくださいね」


 そう言いながら差し出したのは、新たな問題用紙。アリエスは文句を言いながらも受け取り、目を通す。すると、みるみるうちに苦虫を噛み潰したような顔に変貌していった。問題の難易度が跳ね上がっているからだ。

 これにはたまらず猛抗議をするも、当然ながら、彼の意見が覆ることは叶わない。大きな不満を燻らせながら、彼女は渋々用紙と睨めっこをするのだった。






 太陽が傾き始め、砂漠の温度も頂点に達する頃。カミエル本人の希望もあり、アリエスは彼と共に午後の授業を受けていた。

 この魔法実習はマナを感じ取り、魔力の流れを制御する術を学ぶもの。それは簡単なようだが、実際は一歩間違えば大きな危険を伴う。そのため、王国騎士団の魔術師兵が訓練に使う部屋を借りて行っている。

 その部屋は大きなドーム状になっており、壁には幾何学模様が描かれていた。誤って魔力を暴走させても、周囲に被害が及ばないようにするためだ。


「ではまず、見本を見せますね」


 部屋の中心に立つエリックは、手を前に突き出して魔法陣に魔力を送り込んだ。その証に魔法陣は光に溢れ、彼の周囲にはつむじ風が巻いている。

 だがしばらくすると、それが次第に弱まっていく。そして彼が手を払うと同時に、霧が晴れるように消えて行った。


「今の魔法陣は、物質の持つ属性の力を強化するためのものです。また、これを応用することで、弱体化させることも可能になります。ではアリエス様、魔術書を参考にして、火の属性の石を氷の属性に変えてください。火の力を氷の力で弱め、そのまま強化していくんですよ」

「頑張ってくださいね、アリエスさん」

「うん! よーし……」


 アリエスは気合いたっぷりに立ち上がり、エリックの前へ。そして手に熱を持った石を乗せると、目を閉じて精神を集中させた。その様を、エリックとカミエルが見守る。

 部屋の空気が震え、淡く魔法陣が浮かび上がった、まさにその時。どこからともなくメイドたちの黄色い声が聞こえてきた。


「あの、ルイファス様。もし宜しければ、私たちと一緒にお茶しませんか?」

「え、ルイス様!? ……あっ」

「アリエスさん、危ないっ!」


 カミエルが鬼気迫る声で叫ぶも、間に合わない。彼女たちが呼んだ名前につい反応してしまい、アリエスの集中力が切れてしまったのだ。

 その途端、魔法陣から発せられる光が一気に強まり、猛烈な勢いで細かな氷が噴き出してくる。それに圧され、アリエスは尻もちを付いてしまった。それでも勢いは衰えることを知らない。目を開けていられない程の吹雪に、近付くどころか立っているのもやっと、という状況。

 だが、エリックは一人冷静だった。すぐさま詠唱を終えると、浮かび上がった魔法陣に氷が吸収されていく。そして続けざまに別の呪文を唱え、アリエスに向けて放った。魔力の流れを安定化させる魔法だ。

 それにより、室内はようやく落ち着きを取り戻した。カミエルは、その場に座り込んだまま呆然としているアリエスに駆け寄り、怪我の有無を確認している。そこへ、エリックが容赦なく雷を落とす。その拍子に、彼女がビクッと大きく肩を揺らしたことなどお構い無しに。


「まったく、何をやっているんですかっ! 何があっても発動中は集中力を切らさないように、と何度も注意しているでしょう!」

「……ごめんなさい」

「罰として、反省文を今日中に提出していただきます。もし間に合わなかった場合、こちらの魔術書を読んでレポートを書いてもらいますからね」


 そう言って魔法で出したのは、千ページは軽く超えるであろう分厚い魔術書。アリエスの集中力では、読むだけで数週間は掛かりそうな代物だ。

 こっぴどく怒られ、しかも罰まで与えられ、すっかり意気消沈してしまった彼女。肩を落とす姿に、カミエルは掛ける言葉が見付からない。

 それから間もなく、実習が再開された。思わず逃げ出したくなるような、酷くピリピリとした空気はそのままに。






 夜の帳が降り、満月が淡い光を放つ周りで無数の星が瞬いている。その下には、ランプの光が漏れる市街地の姿。その光景は儚くも幻想的で、心を奪われる程に魅了される。

 それを眺めていたイリアの後ろから、扉の閉まる音が聞こえてくる。振り返ると、濡れた髪にタオルを被ったティナが立っていた。

 彼女は何かを捜すように、しばらく視線を動かしていた。だが、あるところでそれを止めると、軽く目を開く。


「あれ、アリエスってば、寝ちゃったの? 散々愚痴りながら机に向かってたのに」

「そうみたいね。久しぶりに一日中勉強して疲れたのかしら」

「かもね。それにしても、気持ち良さそうな顔しちゃって」

「起こすのも可哀相なくらいよね。だから、このまま寝かせてあげようと思うんだけど……」

「イリアがいいなら、アタシは構わないよ」

「ありがとう、ティナ」


 髪を拭きながら向かいのベッドに腰掛けたティナに、イリアは安堵したように微笑む。そして彼女たちが視線を向けた先にいたのは、イリアが寝るはずのベッドで夢の中に旅立ってしまったアリエスだった。

 アリエスが反省文を書いている間、ティナはシャワーを浴び、イリアは彼女を見守りながらも途中で少し席を離れていた。その短い時間に熟睡するくらいなのだから、余程疲れていたのだろう。彼女が部屋に来た時の台詞からもそれが窺える。

 イリアがアリエスにそっと布団を掛けてやった、その時。扉をノックする音が静かに響き渡った。


「夜分にすみません。エリックです。そちらにアリエス様はいらっしゃいませんか?」


 声と用件を聞くと、イリアはおもむろに扉を開ける。その向こうに立つエリックは、本当に申し訳なさそうな顔をしていた。アリエスが二人に迷惑を掛けていないか、また夜中に女性の部屋を訪ねることに対して。

 そして彼女は、再度「すみません」と謝るエリックに緩やかに首を振り、口を開いた。


「アリエスなら私たちの部屋にいるけど、寝てしまったの。起こすのも可哀想だから、今夜は一緒にって伝えに行こうと思っていたところよ」

「そうだったんですか。お二人がそれで良いのなら……では、アリエス様のことをよろしくお願いします。お休み中のところを失礼しました」


 エリックが踵を返そうとしたところで、イリアが思い出したように呼び止めた。そして振り返った彼に「少し待ってて」と伝え、奥に入って行く。

 程無くして戻って来た彼女は、真っ黒になるまで文字が書かれたレポート用紙を持っていた。そして彼にそれを手渡す。


「アリエスの部屋に行ったのは、これを受け取るためでしょう?」

「そうですが……何故イリアさんがこれを?」

「ここで書いていたのよ。部屋に一人でいると寝ちゃいそうだからって言ってね。眠ってしまったのも、それを書き終えて安心したからかもしれないわね」


 イリアの言葉を聞きながら、エリックはレポート用紙に目を通していた。彼女はじっと、その様子を見つめる。

 しばらくして視線を上げた彼は、穏やかな笑みを浮かべていた。手の掛かる妹を見守る兄のような目で。そして、その『妹』への言葉を彼女に残し、彼は静かにこの場を後にした。




「アリエスの反省文をエリックに渡したんでしょ? 何て言ってた?」


 イリアが戻って来たのを目に留め、ティナが尋ねる。するとイリアは可笑しそうにクスクスと笑いながら、ティナの向かいに座った。そしてアリエスの寝顔を眺めながら口を開く。


「きちんと反省しているようだから、明日の午前中の勉強を集中して頑張れば、午後は自由時間にするって」

「何それ! でもエリックって、アリエスに甘いとこがあるよね。扱い方が上手いっていうかさ」

「それだけ理解しているのね。アリエスも、愚痴を吐くことはあっても派手な反抗はしないし……意外と良いコンビだと思うわ」


 話題の中心になっているとは露知らず、ぐっすりと眠るアリエス。そんな彼女を起こさないよう、二人は控えめに笑い声を上げた。

 家庭教師と生徒、王女と従者。場面によって主従が入れ替わるアリエスとエリック。そんな二人が織り成すやり取りは、微笑ましいやら可笑しいやらで、見ていて飽きが来ない。

 だが今は、笑いながら語り合うには時間が遅過ぎる。明日、エリックの言葉を伝えた時の様子を思い浮かべながら、イリアとティナも体を休めるのだった。

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