始まりの門が開く時 前編

「ごめんなさい……私やっぱり、貴方のことは異性として好きになれない」


 それは酷く曖昧な言葉。具体性の欠片も無く、何がいけなかったのか、理由が全く分からない。その一方で、絶対的な拒絶を孕む言葉でもある。

 たった一言。彼の恋は、あっさりと終わりを迎えた。




「……で、アレな訳なんだね」

 何度も深く頷く少年の隣で、金髪の少女が苦笑を漏らす。心配そうな青い瞳の先には、深いため息を吐きながら、ぼんやりとした表情で店番をする少年がいた。

 彼が聖都テルティスでも三本の指に入るであろうマドンナと付き合い始めたのは、ほんの半年前のこと。聞けば、彼女の方から言い寄って来たのだとか。

 だが、付き合い始めて三ヶ月程度で、早くも異変が起き始める。それまで頻繁に会っていたものが、日毎に回数が少なくなっていったのだ。焦った彼は、デートに誘ってみたり、プレゼントを送ってみたり。ありとあらゆる行動を取ってみたものの、結果は変わらず。

 そしてついに、別れの言葉を聞かされたという訳だ。

 幼馴染みの彼のことは、よく知っている。明るくて、優しくて、面倒見の良い、本当に良い人なのだ。顔立ちだって良い方だと思う。

「でも兄貴の場合、その『良い人』ってのが一番の問題なんだよな……」

「うん……大抵、『良い人』で終わっちゃうもんね」

 両親を含めて、男が八人、女が四人。大家族の長子に産まれた彼は、幼い頃から面倒見の良さを遺憾無く発揮していた。大抵の我儘は笑ってやり過ごせる程に。

 これが恋人となれば、とことん誠実に相手に尽くしていたのだろう。愛して欲しい一心で。

「たぶん、それが原因なんだろうな」

 言ってしまえば、刺激が無いのだ。望めば叶うというのは、最初のうちは新鮮でも、飽きが来れば気持ちが離れるのも早い。そして終いには、他の男性に目を向けるようになるのだ。

 恐らく、同じ原因で何度も失恋する彼は、あまりに不憫で。その度に酷く落ち込む様子は、見ていて胸が痛む。

(でも、わたしも、そんな風には思えないもんな……幼馴染みとしては好きなんだけど)

 そんなことを少女が思っていると、隣の少年の声で現実に引き戻される。

「兄貴! おい、兄貴!」

「あ、ジャッキー! ほら、お客さんが来てるよっ!」

「……え?」

 店番の最中だというのに、ぼんやりとしていたジャッキーは、おもむろに顔を上げた。

 背中まで伸びる金髪に、意志の強そうな翡翠の瞳。ふんわりとしたワンピースを身に付けているにも関わらず、にこりともしない顔が、彼をじっと見つめていた。

「あ、すみません……!」

 慌てて会計をする彼。止まっていた思考を無理矢理動かしたものだから、手付きも悪く、単純な計算間違いを何度も繰り返している。

 すっかり気が抜けた兄に肩を竦める少年の隣で、少女はソワソワと様子を眺めていた。

「どうしたんだ? ジュリア」

「あ……うん。あの子と話してみたいなぁって……」

「え? あの子って、客のあの子と?」

 少年は、しっかりと頷くジュリアの言葉に、目を丸くした。ジャッキーの会計を辛抱強く待っている少女は、人前で笑わないことで有名だったからだ。

「うーん……俺は苦手だな。綺麗な子なんだけど、ツンツンしてて」

「うん……それはそうなんだけど……」

 ジュリアは、チラチラと少女に視線を送る。人と関わろうとしない彼女に対して、ここまで気にする理由。それは、とても単純なものだった。

 それは、ある日のこと。この店で趣味のガーデニング用品を買いに来ていた時、あの少女の横顔が目に付いた。そして釘付けになる。可愛らしい雑貨を前にした彼女は、とても柔らかな表情をしていたのだから。

 意外だった。こんな顔をするなんて。それ以来、店で彼女の姿を目にする度、視線を送るようになっていた。

「ありがとうございました」

 少女はジャッキーの声を背中で聞きながら、店を後にする。その少女の背中を、ジュリアは肩を落としながら眺めていた。




 ガルデラ神殿の大聖堂で日課の祈りを済ませ、ジュリアは席を立つ。そして改めて、周りを見回してみた。

 アンティムを始めとした、神々による天地創造の様子が描かれたステンドグラス。夕陽に照らされたそれは赤々と燃え上がるようで、荒々しい迫力が増したように思う。

 細やかで繊細なレリーフが刻まれた柱に支えられた空間はとても広く、天井も高い。その天井に描かれているのは、千年前の古の大戦での様子。初代光の巫女が聖剣エクスカリバーを掲げる絵を中心に、幾つもの場面が描かれている。

 それらの装飾に心を惹かれながら、ジュリアは大聖堂を後にした。そこで目に付いたのは、制服である白いロングコートに身を包む大人たち。帯剣して大聖堂の入口で立つ男性の胸には、盾の前で交差する二本の剣の紋章。同じ格好の男性たちが、広々としたエントランスを行ったり来たりしている。また、中には女性もいて、その凛々しい美しさが目を引いた。

 その時、同じ紋章を胸に、白いローブを身に付けた女性が慌ただしく歩いて行った。そんな大人たちを見て、そっとため息を吐く。

 今年で学校を卒業する彼女は、進路について悩んでいた。大抵は家業を手伝うなどして働く者が多いが、中にはシルビス連邦の大学で研究者になることを希望する者もいる。昨年学校を卒業したジャッキーは、前者のタイプだ。

 ジュリアにも、近所の花屋から話は来ている。よく知っている店であり、働き口としては申し分ない。だが、迷っている理由。

(……私も、神殿のヒーラーになりたいな)

 口で言うのは簡単だが、その道は険しい。

 選抜試験は毎年実施されているが、世界中から志望者が集まるにも関わらず、合格するのはほんの一握り。そして合格した後は、見習い騎士として二年間、学校でみっちりと訓練を受ける。そこでの訓練は、噂では過酷を極めるもので、道半ばで挫折する者も多いとか。

 再度ため息を吐きながら、彼女はエントランスを抜ける。夕陽に染まる噴水広場を抜け、アーチをくぐる、その時。ある立て看板が目に付いた。




「神騎士団の選抜試験? 俺が?」

 夕飯を取りながら、ジャッキーは目を丸くした。

 毎年、今の時期に開催される、ガルデラ神殿神騎士団の選抜試験。その受験案内が告示されたのだ。

「ああ。さっき、ジュリアちゃんが知らせに来てくれたんだ。一緒に受けないかってな」

「ジュリア、神殿のヒーラーに憧れてたもんな。でも、俺もだなんて……店はどうするんだよ? 父さん、腰悪いのに」

 大通りから一本裏に入った路地の一角で営む彼等の雑貨屋は、「他の店では見ないようなもの」を売りにしている。店内に所狭しと並んだ棚には、定番の日用品はもちろん、他国からの輸入品も数多く揃えられている。その物珍しさから、立地の割には客の評判は上々だった。

「大丈夫だよ。俺がやるから」

 隣から声が上がる。すぐ下の弟だ。

「いや、でも……」

 幼馴染み、父、弟。身近な存在から受験を勧められ、気持ちが揺れる。

 神殿の騎士になりたくない訳ではない。彼もジュリア同様、幼い頃から憧れていたのだから。唯一違うのは、昨年に一度受験し、不合格になっていること。

 そして今年。失恋した上にまたしても不合格だったら。正直、立ち直れる自信は無い。

(だったら……)

「今、『また傷付くくらいなら、このまま家を継いだ方がいいんじゃないか』……そう思っただろう」

 父親の声に、ジャッキーの心臓がギクリと脈打つ。唇を噛み締め、思わず視線を逸らした。じっと見つめてくる瞳に耐えられなくなったのだ。

 そんな彼の心情を知ってか知らずか、父親は言葉を続けた。

「お前は去年も失敗しているからな。不安になる気持ちは、分からんでもない。だが、男が無難な道を選んでどうする。俺はそんな男に育てた覚えはないぞ。……それに」

 ため息交じりで吐き出された言葉が、ジャッキーの胸に突き刺さる。

 父親は言葉を切り、彼を見据える。強く責めるような、そんな感情を滲ませて。

「……お前、今日も会計に来たお客さんを待たせたそうだな。やる気がないなら、もう店には出るな」

 「ごちそうさん」と、父親は席を立つ。その背中を見送り、彼は顔を俯かせた。悔しそうに歪めながら。

「何事も、やる前から失敗するって思ってると、本当に失敗するわよ?」

「母さん……」

 キッチンから出てきた母親は、ジャッキーの前にマグカップを置いた。その拍子に揺れるコーヒーはまるで、今の気持ちを表しているかのよう。

 そして彼女は、彼の前の席に腰を下ろした。

「お父さんなりの激励なのよ、あれでも。ジャッキーがずっと神殿の騎士に憧れてたのは知ってるし、ああでも言わなきゃ決心しないって分かってるから。……お店のことは大丈夫だから、行ってきなさい。今でも一人で稽古してるんでしょ?」

「……気付いてたんだ」

「当たり前でしょ? 私は母親なのよ」

 父親とは違い、母親は優しく背中を押す。湯気が立つコーヒーは、いつの間にか、水面の波がすっかり引いていた。




 庭先のプランターの前にしゃがみ込み、優しく葉に触れる。丹精込めて育てている薬草の生育状況を観察しているのだ。

 色を確認し、土を触る。若干の湿り気がありながらも柔らかい。今日も元気そうだ。そう思うと、自然と笑みが溢れる。

「ただいま……って、ジュリアったら。まだそこにいたの?」

 買い物から帰った母親が苦笑する。記憶が確かならば、出掛けた時には既に、庭の植物の世話をしていたのだから。

 ジュリアは恥ずかしそうにはにかみながら、おもむろに立ち上がった。

「お帰り、お母さん。荷物持つよ」

「ん、ありがと」

 両手を塞ぐ荷物の一つを受け取ると、一緒に中に入って行った。

 まな板で食材を切る包丁の音。水が流れる音。炒める音。キッチンから聞こえてくる色んな音に耳を傾けながら、ジュリアは洗濯物を畳んでいた。ふわりと洗濯物を広げる度に香るのは、太陽の匂い。温かくて、柔らかい。

 コトコトと野菜や肉を鍋で煮込む傍ら、母親は静かに口を開いた。

「本当に、選抜試験を受験するの?」

「……うん」

 心配そうな母親の問い掛けに、ジュリアはしっかりと頷く。

 神殿のヒーラーになれば、寮生活が始まる。そうしたら今のように、家族の温もりを感じることも少なくなるだろう。

 人見知りや、寂しがり屋な性格をよく知っている母親ならば、その不安は当然だ。

「でも、もう決めたの。わたしはやっぱり、神殿のヒーラーになりたい」

「……そう。分かった」

 どこか寂しそうに笑う母親を残し、ジュリアは洗濯物を持って寝室へと向かった。

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