夏の日の思い出
テルティスの夏はとにかく暑い。海から吹く大量の湿気を含んだ風は、照り付ける太陽と相まって、大地の温度と湿度をぐんぐんと上げていく。その熱は、既に空が茜色に染まっているにも関わらず、未だ冷める気配は無い。
じっとりとした、纏わり付くような暑さが残る神殿の回廊に立つのは、ヘレナとイリア。そこから眺める市街地は、いつも以上に活気に満ち溢れていた。
「今日から夏祭りね」
夏祭りが開催されるのは、最も暑さが厳しいとされる日の前後一週間。この期間中は、街中の老若男女がこぞって祭りに足を運び、大いに盛り上がる。その盛況ぶりは国外にも評判を呼び、わざわざこの日を選んで参拝に訪れる人もいる。
もちろんヘレナとイリアも、この夏祭りを楽しみにしていた。それを表しているかのように、ヘレナの弾んだ声がそよ風に乗ってイリアの耳に届く。その横顔は、逸る気持ちを抑えられない、といった風だ。そして、ある一点をじっと見つめている。
その先にあるのは、市街地の中央広場。中心にある大きな噴水を囲むように露店が立ち並び、続々と人が集まっている。
「ねぇ、イリア。まだ行かないの? 早く行きたいわ」
不意に、ヘレナの瞳がイリアを捉え、輝くような笑みを向けた。十歳も年上のヘレナの、少女のような無邪気な笑顔。
その時。どこからともなく、二人を呼ぶ声が聞こえてきた。
「イリアちゃーん! ヘレナの姉御ー!」
すると、一羽の鷹がイリアの肩に止まってくる。そして鷹は頬擦りをしながら、甘えるような声を上げた。
「ねぇねぇ、イリアちゃん、早く夏祭りに行こうよー! 俺、もう待ちきれないよー」
「ホークアイもヘレナ様と同じことを言うのね」
「だって、俺、こういうお祭り大好きだし! 姉御も好きだよね?」
同意を求めるようにホークアイはヘレナの方を振り向き、「ねぇ?」と首を傾げる。そしてヘレナが「もちろんよ」と頷くと、キラキラと輝く四つの瞳がイリアに向けられた。
お楽しみを期待する二人の視線に晒され、イリアは苦笑を漏らす。と同時に、改めて思い知らされた。本当に彼女のこの顔に弱い、と。
「仕方がないわね……ホークアイ、アイラやみんなに伝えてきて。そろそろ行くって」
「うんっ、分かったよ!」
歓喜の声を上げながら、アイラの元へ飛び立つホークアイ。残されたイリアとヘレナは、どちらからともなく笑みを零すと、おもむろに踵を返した。
私服に着替えたイリアたちが市街地へ出た時、既に太陽は西の空に沈み、沿道にはランプの光が灯っていた。
夏祭りの会場である中央広場に近付くにつれ、人の数も比べ物にならない程に増えていく。
「凄い人ね……はぐれないようにしないと」
人の波にさらわれないよう、ヘレナの隣にぴったりと寄り沿いながら、イリアは前を行くフェルディールに付いて行く。
賑わう露店を横目に、どこから回ろうかとヘレナと話していた、その時。ふと周囲を見回すと、先程まで後ろを付いて来ていた筈のルイファスの姿が無いことに気付いた。
「ねぇ、ちょっと待って。ルイファスがいないわ」
慌ててイリアがフェルディールの袖を引き、足を止めさせる。彼は何事かと振り返ると、いつの間にか消えていたルイファスの姿に目を丸くした。
「あれ、あいつ、どこ行ったんだ?」
「あら、本当。さっきまで一緒にいたのに……」
「この人の多さですもの。途中ではぐれると厄介ですわね」
ヘレナやルナティアも一緒になって周囲を見回すが、その姿はどこにもない。
その時イリアは、アイラがある一点を見つめていることに気付く。眉間には深いしわ。ホークアイも白けた目を向けている。
「二人とも、何を見てるの?」
「呑気なナンパ男だ」
アイラの口調が刺々しい。イリアの表情がサッと強張ると同時に、胸に嫌な予感がこみ上げる。
そして、彼女の視線の先の光景を目にしたイリアとルナティアは、揃って眉をひそめた。
「あ、ルイファスさん。お久しぶりです」
「あぁ、久しぶり。今日も綺麗だな。ところで……何故、君が店番を?」
「居候先のおじさんから頼まれたんです。孫と回ってきたいからって」
「あぁ、あそこの親父、実家が菓子問屋だったな。それにしても、リンゴ飴か……懐かしいな」
「もしよかったら、お一ついかがですか?」
「そうだな……一つ買って行くか。だが、こんな人ごみの中で会えるなんて、偶然にしては出来過ぎていると思わないか?」
「そうですね……天使様のお導きでしょうか」
「君もそう思うだろう? これも何かの縁だ。店番の後、時間はある?」
「ふふっ、どうしようかしら……」
そこには、イリアとルナティアの予想通りの姿があった。売り子の女性を口説くルイファスの姿だ。
女性の頬は仄かに染まっており、恥ずかしそうにはにかんでいる。そんな二人の空気は、こちらの存在などすっかり忘れているかのようだ。
イリアは眉をひそめたまま、フェルディールの方を振り返った。
「行きましょう、フェルディール」
「連れ戻さなくていいのかよ?」
「いいんですのよ、放っておけば」
和やかな雰囲気で女性との会話を楽しんでいるルイファスを残し、イリアたちは再び足を進める。
だが、しばらく進んだところで、今度はフェルディールの足が急に立ち止まった。
「どうしたの?」
「ああ、悪い悪い。俺の呑み仲間が露店を出してたから、つい……」
怪訝そうなイリアを肩越しに見下ろし、苦笑を浮かべるフェルディール。彼が視線を向けた先にいたのは、雑貨屋の主人だった。彼は子供の相手をしていたが、イリアたちの視線に気付いたのか、顔を上げる。
「フェルディール、お前も来てたのか! あれ、今日はイリアちゃんたちも一緒か?」
「えぇ、お久しぶりです」
にこやかな笑みを向ける主人に、イリアも挨拶を返した。彼が営む雑貨屋には、幼い頃からずっと通っている。そういう経緯もあり、彼はイリアに対して砕けた口調で話す、数少ない人間の一人だ。
不意に、ホークアイがそわそわと周囲を見回し始めた。しばらくすると、いきなり羽をばたつかせる。その拍子に羽が顔に当たり、アイラは思わず顔をしかめた。
「こ、こら、ホークアイ! いきなりどうしたんだ?」
「姐さん、姐さん! あそこに肉がある!」
「肉……?」
「ほら、あそこじゃありません? 串焼きの露店がありますわ」
ひそひそと話すホークアイの声が聞こえ、ルナティアは二つ先の露店を指差した。それを確認した途端、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
「欲しいのか?」
「うん、食べたいっ!」
「しょうがないな……イリア、少しの間、ここで待っていてくれないか?」
「分かったわ。でも、あの調子だもの。当分は大丈夫そうよ」
「そうだな」
笑いを交えて盛り上がるフェルディールたち。彼といい、ルイファスといい、すっかり自分たちのペースだ。
小さく笑みを零したアイラは、串焼きの露店へと足を向ける。それから間もなく、彼女の背中は人ごみの中に消えていった。
「そういえば、雑貨屋のお前が何の店を出してんだ?」
「子供たちが遊ぶゲームだよ。店の物を使ってな。お前もやってくか?」
「俺はいいよ。ゲームっつったって、どうせガキ臭ぇおもちゃだろ?」
「子供用は確かに輪投げだが……大人用のもあるんだぜ」
そう言いながら奥から出してきたのは、ダーツセット。主人はボードを設置すると、ダーツを三本差し出した。
「スコアは普通のダーツと変わらないが、景品はスコアの合計で決まるんだ」
「俺はやらねぇよ。景品っつったって、お前の店のモンだろ? 俺の趣味じゃねぇな」
フェルディールが視線を下ろすと、テーブルの上には様々な雑貨が並んでいた。そのどれもが、女性が好むようなものばかり。彼好みの品は無い。
ふと、イリアの目がある景品に留まる。小さな白い貝殻が付いた髪飾り。以前から気になっていたが、最近になって彼の店を訪れた時には既に、店頭から消えていた。売れてしまったと諦めようとしていたが、現物を見ると、そわそわと胸が踊り出す。
「さっきから何を見ているんですの? あら、可愛らしい髪飾りですわね」
「本当! 可愛いわ。待ってて、私が取ってあげる」
「えっ!? いえ、私は別に……!」
「あのね、イリア。こういう時くらい、わがままになっていいのよ? それに私、一度ダーツをやってみたかったの」
ヘレナは楽しそうに主人に硬貨を渡し、三本のダーツを受け取る。しっかりと狙いを定めて投げるも、左に逸れてしまった。結果は十一点。思わず眉をひそめる。
「うーん……意外と難しいのね……」
二投目は、一投目よりもじっくりと時間を掛けて狙いを定める。そうして放たれたダーツは、一直線に中心に向かって行ったが、あと少しというところで軌道は弧を描いた。今度は十九点だ。
残るダーツはあと一本。目当ての髪飾りを獲得するのに必要な得点は五十。すなわち、ボードの中心の、小さな丸の中に刺さなければならないことになる。
真剣な表情でダーツを投げるヘレナの姿に、いつの間にか群衆が足を止めていた。そして最後の一投の行方を、固唾を呑んで見守っている。
あまりの緊張感にいつしか、イリアも胸の前で手を握り締めていた。
周囲の人々が祈るように見守る中、ヘレナがダーツを構えた、その時。
「ちょっと待て。そんな風に力むと、とんでもない方向に飛んでいくぞ」
緊迫した空気を切り裂いたのはルイファス。彼はヘレナの隣に立つと、スッと手を差し出した。
「貸してみな。手本を見せてやる」
「……分かったわ。でも最後はルイファスが投げて。たぶん、私じゃ無理だもの」
「無理……? どこに投げればいいんだ?」
「真ん中の、小さな丸の中よ」
「あそこか……」
呟き、ルイファスがダーツを構える。かと思えば間もなく、手首にスナップをきかせながら軽く放った。
皆の視線を乗せたダーツは、一直線に中心に突き刺さる。一斉に歓声が湧き上がる中、ヘレナとルナティアは思わず手を取り合い、興奮のあまりに頬を紅潮させた。
「ルイファス、凄いわ! ありがとう!」
「気にするな。俺にはこれくらい朝飯前だ」
「いやー、流石だねぇ。ところで、これはイリアちゃんに渡せばいいのかな?」
主人の手の上には、例の髪飾り。微笑みながら頷くヘレナに促され、彼はそれをイリアに手渡した。
「ありがとうございます、ヘレナ様。ルイファスも、ありがとう」
イリアは戸惑いながらも、嬉しそうに顔を綻ばせた。ヘレナはさらに笑みを深め、ルイファスも口元が緩む。
「さっきから盛り上がっているが……一体、何事だ?」
群衆を掻き分け、アイラが姿を見せた。そしてルイファスの姿を目に留めた瞬間、彼女は眉間に深いしわを寄せる。
「さっきの女性と一緒にいなくていいのか?」
「は? 何を言っているんだ? 彼女には店番があるだろう。お前な……祭りの日くらい、カリカリするな。ほら、これでも食べて、少し落ち着け」
そう言ってルイファスが差し出したのは、先程の女性の露店で買ったリンゴ飴だ。予想外のお菓子に、アイラは目を瞬かせる。そんな彼女を見て、彼もまた目を瞬かせた。
「お前、それが好きだっただろう? 祭りの時には、必ず食べていたじゃないか」
「いつの話をしているんだ」
「俺たちが、まだアクオラにいた時」
「お前……覚えていたのか……?」
「店に並んでいるこいつを見て、思い出したんだよ。これを好きだった奴がいたなって」
「ふん……まあいい、受け取っておいてやる」
アイラがそっぽを向いたのは、照れ隠し。目聡いルイファスに気付かれたくなかったからだ。
ホークアイが食べるペース以上に、アイラは次から次へと彼の口に肉を運ぶ。彼は若干苦しそうだが、彼女は気付いていないようだ。
そんなアイラのらしくない様子に、イリアたちは可笑しそうに笑みを零した。
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