旅立ち

 静まり返った空間に響き渡るのは、ゆったりと一定のリズムを刻む足音。何者かが歩くその通路の幅は三メートル、高さは二メートルといったところだろうか。大人が歩くにはいささか狭いように感じられる。だがその影響か、刻まれたリズムは発せられたと同時に反響し、周囲の空気を震わせる。

 そんな空間を覆う石壁は、ひんやりと冷たい。そして強くこすると、少し痛みを感じる程にザラザラとしている。その手触りは、光沢が表れるまでに磨かれた床の石とは大違いだ。もちろん、ここには窓なんか無い。灯りと言えば、等間隔で並ぶオレンジのランプの光のみ。それは陽炎のようにゆらゆらと揺れ、三人分の人影を浮かび上がらせていた。

 その三人でまず目に付くのは、真ん中を歩く女性。白いヴェールを被っていて顔は見えないが、白の向こうに映えるのはダークブルー。そして細い腰をコルセットで締め上げ、その上に纏うのは金の刺繍が施された夕焼けのような赤。その赤は何メートルもあるような長い布で、体に何重にも緩く巻き付けている。だが布自体は、向こうが透けて見える程に薄い。また、腕や首回り、足首に光るのは、金のアクセサリー。それらは足を踏み出す度に揺れ、小さく音を立てる。

 その女性を囲むようにして歩くのは、やはり同じような衣装を纏う二人の女性。だがこちらは鮮やかなオレンジで、装飾の類は何も無い。とてもシンプルな様相だ。

 三人がしばらく歩いて行くと、向こうに鉄の扉が見えてきた。飾り気は無いが、息が詰まるような圧迫感を放ち、堂々と鎮座している。その前には、同じくオレンジの衣装を纏った二人の女性。彼女等は三人の姿を目に留めると、静かに口を開いた。


「汝の名を」

「我の名はアリエス。王位を継ぐ者なり」


 アリエスは一歩前へ出ると、扉の前で待っていた女性の前に跪いた。すると、女性の一人が彼女の白いヴェールを取る。そこにあったのは、いつものツインテールを下ろして薄く化粧を施した、少し大人っぽくなったアリエスの姿。不意に彼女の大きな目がゆっくりと開かれると、静かに立ち上がった。


「万物の根源たる神獣、森羅万象を司る聖獣、命を育む精霊たちよ。我に加護を与えたまえ」


 アリエスの声に続いて、扉の前で待っていた女性の一人が踵を返す。彼女は、後ろの棚から銀製の皿を取り、頭上に掲げるように持ち上げる。その状態のままゆったりと振り返ると、元いた場所まで戻り、胸の前まで下ろした。その皿は大人の頭程の大きさがあり、張られた水が僅かに波打っている。その水に浸かっているのは、鮮やかな緑が美しい、真ん丸い蓮の葉。その大きさは、大人の男性が手を広げたくらいだろうか。


「我等が守護聖獣に導かれしアリエスに、光の加護を」


 祈りを捧げた女性は、隣に立つ女性が持つ皿の中から、蓮の太い茎を手に取る。そして葉を煽り、数滴の水をアリエスに振り掛けた。彼女はそれを静かに受け止めると、ひざを曲げて頭を下げた。

 と同時に、鉄の扉が重々しい音を立てて開かれる。その向こうに広がっていたのは、一面を白に彩った空間。そして、正方形に切り取られた大理石が、床にびっしりと敷き詰められていた。また、床を囲むように水が流れ、小川のせせらぎのように、心地良い音が耳に届く。程良い緊張感が張り詰め、神聖な空気に満ち溢れていた。

 それに導かれるように広間に入ると、奥にはささやかな祭壇が設けられていた。またそこには、白いローブを纏った若い女性も佇んでいる。さらに背後には、炎の聖獣・サラマンダーの像が安置されている。テルメディア大陸の守護聖獣だ。

 彼等が優しく見守る中、アリエスは一歩一歩、祭壇の方へと歩を進めて行った。






 王宮の通路を全力疾走する少女。メイドや騎士、役人たちの間を擦り抜けるように突き進む。そんな少女に彼等が苦言を呈そうとするも、振り返った時には既に姿は消えているのだった。

 一方、その頃。サモネシア王国を治めるディオ王の右腕、ガウリー。王の執務室へ書類を届け、自分の執務室へ帰る道中のこと。こちらへ向けて駆けてくる少女に目を留め、ピクリと眉を上げた。


「アリエス様っ!」

「ぅえっ!? ガウリー!」


 「げっ」と、あからさまに顔が歪む。アリエスは慌ててスピードを緩め、しずしずと通り抜けようとした。苦し紛れな笑みを向けながら。だが、もう遅い。


「アリエス様、お待ちくださいっ!」


 足早に立ち去ろうとしたその瞬間、ガウリーの険しい声がアリエスの足を引き止める。と同時に嫌な汗が流れ、彼女の顔を歪ませた。これから起こるであろうことを予感した結果だ。そして引き攣った笑みを浮かべながら、ゆっくりと、ゆっくりと振り返った。その様はまるで、油の切れた蝶番の音が聞こえてくるかのようだ。


「な、何かしら? ガウリー」

「アリエス様、こちらへ」

「で、でもあたし、急いで――」

「こちらへ!」

「……はぁい」

「アリエス様?」

「……はい」


 しょんぼりと肩を落としながら、アリエスは踵を返す。そして渋々ガウリーの元へ戻って来た。王の右腕であると同時に、彼女のお目付け役でもある彼のお説教を聞くために。


「アリエス様、王女ともあろうお方が、なんて下品な顔をなさるんですかっ! しかも、『ぅえっ!?』などと情けない声を出して……! 民の前に出る時だけではなく、普段から王女としての気品や作法には細心の注意を払って頂きたいと、何度申し上げれば分かっていただけるんですか! そういったものは人格が最も表れやすいと同時に、一朝一夕で身に付くようなものではないからこそ、普段から口を酸っぱくして注意しているというのに、アリエス様ときたら……! それで次期女王など、聞いて呆れますっ! それに、王宮は運動をするところではないと、何度も申し上げているでしょう! そもそも王族とは民を導き、民の手本となるべき立場を指すというのに、いつまで経っても落ち着く気配の欠片も無いとは、まったく情けない……情けなさ過ぎてこのガウリー、涙も出ませんぞ! だいたいアリエス様は――」


 通路に立たされたまま、延々と聞かされる苦言の数々。もっとも、その原因を作ったのは、他でもない、アリエス本人なのだけれど。そうとは分かっていても、憂鬱のあまりに盛大にため息をつきたい気分に陥るのだった。






「それって、アリエス様が悪いんじゃないですか」


 机の上の文献から視線を上げ、呆れたようにアリエスを見つめるカイン。声もため息交じりだ。

 それもそのはず。いつものように彼女が召喚魔法研究所に足を運んで自分の姿を見るなり、開口一番にガウリーからの説教の愚痴を聞かされたのだから。

 一方、あっさりとカインに一蹴されてしまったアリエスは、不機嫌そうに頬を膨らませて頬杖をついた。その視線はそっぽを向いていて、ヘソを曲げていることが容易に分かる。


「ガウリー大臣にこってり絞られたようですから、僕はこれ以上は言わないでおきますが……くれぐれも、他国でサモネシア王国の印象を下げるような言動はしないでくださいよ?」

「……これ以上言わないって言っておいて、サラッとキツイこと言わないでよ」


 アリエスに軽く睨まれるも、カインは涼しい顔で受け流し、再び文献へと視線を落とす。下手に口を出すと、ガウリーのお説教と同様、延々と口を開き続けるのだ。「この話題はもうおしまい」と行動で示す方が手っ取り早い。彼女と幼馴染と言っても過言ではない間柄から来る経験論だった。

 同じく、幼い頃からカインのそんな行動を見てきたから、アリエスもそれ以上口を開くことはなかった。聞く耳持たずなのは分かっているから。そんな相手に愚痴を吐いても虚しいだけだ。

 しばらく不貞腐れていたが、先程のカインの言葉に思い出すことがあったのだろう。「そういえば!」と、アリエスは身を乗り出した。不機嫌さはどこへやら。嬉しさのあまりに笑いを隠せない、といった表情で。


「カインに伝えたいことがあって、急いでたんだったわ!」

「え……僕に、ですか?」

「そうよ。あたし、ちょっと前に十五歳になったじゃない? それで、契約する聖獣が決まったんだけど……何だと思う?」

「そうですね……アリエス様がそんな顔をするなら、よほど珍しい聖獣なんでしょうね」


 カインの言葉に該当する聖獣といえば、光の聖獣・アルテミスか無の聖獣・バハムートだろう。何故なら、古の大戦以後は二体とも契約を交わした記録は無いのだから。

 だがアリエスは、にんまりとした笑みを浮かべると、「実はねぇ……」と焦らし始める。そして散々勿体ぶった後、興奮のあまりにさらに身を乗り出し、高らかに声を張り上げた。


「あのグリンフィスなのよっ!」


 その瞬間、研究所内が静まり返り、研究員たちの視線がアリエスに集中する。一様に、信じられないものを見るような目で。そしてしばらく間が空いた後、カインは酷く焦ったように上擦った声を上げた。


「えっ、グリ…グリンフィスっ!?」

「そうよっ! あたしがずっと憧れてたグリンフィスなのよっ!」

「それは知ってますけど……! 伝説中の伝説ですよっ!? その……大丈夫なんですか?」


 約二千五百年という長いサモネシア王国の歴史の中で、たった一人しか契約を交わしていない聖獣。それが聖の聖獣・グリンフィスだ。

 だが肝心なアリエスは、事の重大さが分かっていないのか。それとも、興奮のあまりに思考が追い付かないのか。完全に浮かれ気分で、意識は既に明後日の方を向いている。そんな中で聞こえてきたカインの言葉に、アリエスは酷く憤慨した。


「何よ、その言い方! あたしで大丈夫だから、あの占いの結果が出たんじゃない! 失礼しちゃうわ!」

「しかしですね……前例が一つしか無いのが厄介で……」

「そんなに言うなら、あたしが例を作ってあげるわよ! っていうか、やる前からそうやって決め付けちゃダメじゃない! 何事もポジティブにいかなくちゃ!」

「……アリエス様の場合、ポジティブと言うよりは能天気と言った方が正しい気がしますけどね」

「確かに、今のアリエス様にもう少し思慮深さが加われば、本当に申し分ないんですがね……」


 そう言って顔を出したのはエリック。彼の登場に、アリエスは思わず身構えた。カインに溢していた愚痴を、彼に聞かれてしまった可能性が高いからだ。そうなれば、彼からも小言を言われるに違いない。彼もまたガウリーと同じく、自分のお目付け役なのだから。


「だがカイン、いたずらに不安がる必要は無いよ。聖都テルティスでは、聖剣の使い手が聖騎士団団長に就任したらしいからな」

「なるほど、それなら話は変わってきますね。聖獣の封印を解くには、聖剣の力が不可欠なんですから」

「あぁ、そういうことだ」


 だが彼は予想に反して、彼女の愚痴については何も言おうとしなかった。ただ、カインと今後について話し合っているだけで。

 小言を言われる気配が無いことに安堵したような、それがかえって不気味であるような。それでも、敢えて自分から危険な橋に足を突っ込むことはない。そう判断し、自ら話題へと割って入って行った。


「でも、その聖剣の使い手ってどんな人なのかしら。二人とも知ってる?」

「詳しくは知らないんですが……名前はイリア=クロムウェル。カインと同じ、十八歳の少女らしいですよ」

「へぇー……あたしと年が近いのね。ますます会ってみたくなっちゃったわ!」

「でもアリエス様、よく考えてみてくださいよ。女性で騎士団の団長なんて……猛獣みたいな人に決まってます」


 刺々しく、吐き捨てるようなカインの口調。だが、これは彼に限ったことではない。土地が痩せており、昔から民が知恵や力を併せて国を成り立たせてきたからか。国民同士の結び付きは、他国のそれよりもかなり強い。よって、外部の人間に対して偏見を持っていたり、排他的な意識を持っている場合が多いのだ。もちろんカインも、最初はエリックのことを冷たくあしらっていた。今でこそ、こんなに打ち解けているけれど。

 だがアリエスは深いため息をつくと、やけに大袈裟に肩を竦めた。まるで、さっきのお返し、と言わんばかりに。


「あのね、カイン。会ったことも無いのに、そんなこと言っちゃダメでしょ!」

「あいにく僕は、光の巫女なんてものを立てているテルティスの人間は、好ましく思っていないもので」

「そうかもしれないけど……でも、せっかくこうして縁が出来たんだもの。会うだけ損は無いじゃない? もし気が合えば、お友達になれるかもしれないし! それにね、あたし、いろんなものが見てみたいの!」


 保守的な人間が多い中、アリエスは違っていた。エリックを避けるどころか、見たことのない外の世界に興味を持っていたのだ。そして好奇心の赴くまま、根掘り葉掘り聞き出していた。昼も夜も関係無く。

 今すぐにでも出掛けたくてしょうがない、と体を疼かせるアリエス。まだ見ぬ世界への興味から、瞳もキラキラと輝いている。そんな彼女に釘を刺すように、エリックは深いため息をついた。


「アリエス様、見聞を広めたいお気持ちは大変結構ですが、我々は遊びに行く訳ではありませんよ。あくまでも、女王になるための修行の旅です」

「もちろん分かってるわよ!」

「……本当に分かってるんですか?」

「もうっ、カイン! 分かってるって言ってるでしょ!」


 頬を膨らませるアリエスに、それでもカインは疑念の瞳で彼女を見る。そして、そんな応酬が目の前で繰り広げられ、頭の痛くなる思いを抱くエリックだった。






 暗闇に包まれた室内に、不意にぼんやりと明かりが灯る。それに照らされたのは、いつの間にかベッドから抜け出したアリエス。そして、水差しからコップに水を注ぎ、喉に流し込んだ。

 眠れない。だが、出発は明日。寝不足の状態で砂漠を渡るのは、無謀以外の何物でもない。その厳しさは十分理解しているはずなのに。今休んでおかなければならないというのに。意思に反して、僅かな眠気すら訪れない。

 とりあえず今は眠ることを諦め、アリエスは窓の前に立った。今日は新月。月明かりは見えないが、その代わりに空を埋め尽くす程の星が輝いていた。

 だが、それがいけなかったのだろうか。ますます目が冴えてきてしまった。旅に出るのが不安という訳ではない。むしろ、その逆。楽しみなあまりに眠れないのだ。

 エリックから聞いた外の世界は、自分が知らないことだらけだった。この国だけで世界が完結することが多いサモネシア王国にいては、到底知り得ない人々の営み。それが至るところに、無数に存在していると言う。それ等が自分の目で見られ、触れることが出来るのが楽しみでしょうがない。

 自然に溢れ出る笑み。新たな旅立ちを祝福するかのように、星が優しく瞬いていた。




お題使用:ファンタジー100題

配布元:空のアリア

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