レルのおはなし『アリとキリギリス』
レルはすっかり夕食を平らげてしまい、服も寝間着に着替えました。今日は夕食の前に白明に連れられ風呂屋に行けたので体の垢も取れとても軽い身体で、狭いキャラバンの中央に布団を敷きました。枕もパフパフ叩いて形を整えます。
レルは蒲団の中に入りました。
白明は今夜お化け屋敷の仕事に出かけていました。彼がお化けをやるのかと興味深くなったのでしたが、実際は受付をするだけでした。お化けをするならレイに頼んで連れて行ってもらったのですが、そうでないので勝手に寝ることにしました。それで今日は早々に布団に入ったのです。レイはもうすっかり寝ていました。シャンメイは寝ているのか起きているのか分かりません。キャラバンの中はとても静かでした。もっとも白明がいたとしても静かなので、いつもと変わりはありません。
なかなか寝つけませんでした。それでレルは明日着る服を籠から一式出してたたんで枕元に置いておいたり、布団の端を揃えてみたり、いつもの通り壁際のベンチに寝るレイの落としたタオルケットを彼女に掛けたり、色々としてみましたがやはり眠れませんでした。
「シャンメイ」
レルは心細くなって呼びました。すると、なんじゃねと応答がありました。彼女は起きていたのです。いやもしかしたら呼ばれてすぐに起きたのかもしれません。
「全然寝れないの」
「頭のなかを真っ白にして動かずにいたらええんじゃ。何も考えないようにする」
「できないよ」
「……お話をしてあげよう」
「うん」
レルは明るく返事をしました。シャンメイは事実無数の知識や物語、伝説の類を知っており、いつ聞いても何でも答えてくれるのです。
「アリとキリギリス」
と彼女はタイトルから始めました。
「ある所に、蟻が働いている横で音楽を奏でる……」
レルの目蓋はすぐにとろりとなってきました。シャンメイの口調はそのような脳にぬるま湯をかけるような落ち着きを持っているのです。レルの体は次第にポカポカしてきて、指の先からぼんやりとした無感覚に支配されてゆくのでした。
☆☆☆☆
レルはゆっくりと目を覚まして、立ち上がりました。とてもポカポカした気候です。
目の前に巨大な草がありました。レルはそれを見上げます。
「なんだこれー……」
小人になった気分でした。
(エッサ、ホイサ、エッサ、ホイサ、エッサ、ホイサ)
遠くから重なり合った声が聞こえてきました。高く伸びる草むらの陰からそれらが出てきたとき、レルは飛び上がってびっくりしました。
アリでした。
一列に並んだアリたちが肩に何か食べ物のかけららしきものを乗せて運んでいました。
「あのう……」
三十匹ほど見逃して、レルは恐る恐る声を掛けました。
「ここはどこですか」
「ここ? ここはここだね。それ以外ないじゃないか。ここはここ、そこはそこ、君のいるところは君のいるところさ」
「はあ、」
僕はどこに行って何をすればいいのだろうか、することってあるのか。レルは気になりましたが何の手がかりもありません。あいにくお腹も空いていなければ喉も渇いてないので、アリについて行ってみることにしました。何か運べる荷物があるか聞いてみましたが、彼らは首をひねるだけで何も答えなかったので、とりあえず彼らの横を(エッサ、ホイサ、エッサ、ホイサ)と言いながら歩きました。
赤い石の横を通った時、歌声が聞こえてきました。アコースティックギターのポロンポロンという音に合う、くせのない美しい歌声でした。
『僕は僕の甲殻が恨めしくなるのさ
なぜって こいつが檻となって僕の心を閉じこめるのさ
僕は君が羨ましくなるのさ
なぜって 君はいつでも心を鳥のようにその身から放して
その心を僕の中に入れてみては 僕と一緒になって悲しんだりするから
僕も君の悲しみを味わってみたいのさ
でも実際は甲殻の所為じゃないなんて分かりきってる』
歌っていたのはキリギリスでした。彼は石の上に腰を下ろし、ギターをつま弾きながら歌いました。
「キリスが歌っている。一度ここで休憩しよう」
アリが言いました。アリたちはキリスの周りに集まって彼の歌声を聞きました。そしてしまいには一緒に歌い始めたのでした。
『僕は淋しい 檻をつくる
君は優しい 鳥を飛ばす
なんだって僕はいつも一人に感じて
君を愛する資格なんてあるのだろうか
君に愛される権利なんてあるのだろうか』
「さあて、仕事に戻るぞ」
アリたちはまた荷物を肩に担ぐとエッサ、ホイサと道を行きました。レルはそのままそこに残ってキリスに話しかけました。
「綺麗な歌声だね」
「ありがとう。君は……? アリではないね、まあいいさ。僕は練習をしていたんだよ、歌の練習。今夜アリたちを集めてのコンサートがあるからね。みんなを楽しませるためにはこうやって練習を重ねる必要があるんだ。半端な完成度で披露なんてしたくないからね」
「でも、今の歌声でもみんな楽しんでいたよ」
「本番はあんなものじゃあないさ、もっとだよ、もっと」
「はあー」とレルは今のアリたちが肩を寄せ合って歌っていた光景の、さらに楽しいものを想像しようとしました。けれどそれはぼんやりとしてしまい、実際に見るほかないと思うのでした。それから彼は、かねてから気になっていたことを訊ねました。
「ねえ、ここはどこなの」
「ここはアリの道さ、彼らはいつも食料を運ぶ時ここを通る」
「やっぱり食べ物だったんだ。とてもいっぱいだなあ。僕ならとても食べきれないや」
「彼らも食べきれやしないさ」
「それとね、キリスさん、僕はこれからどこに行けばいいのか、何をすればいいのか、全く分かっていないんだ。僕はどうしたらいいの」
「まあ、とりあえずここではないどこかに行くことだね。そしたらするべきことはおのずと見えてくると思うよ。せっかくだったら僕についてくるかい。今夜のコンサートもぜひ見てみるといいよ」
「そうする」
レルにとっては願ってもないはこびでした。今からの指針も見つかり、さらには想像もできないコンサートの楽しい時間も味わうことができる。
キリスは石から降りて、アコースティックギターを袋に入れるとそれを肩に担いで歩きました。レルは彼について歩きました。
キリスの住む部屋に到着しました。キリスがドアノブに手をかけると、後ろから、
「キリスさあーん」
というアリの声が聞こえました。アリはかごに食べ物をたくさん入れ、それを頭のうえに掲げてこちらに走ってきました。彼は到着するとそのかごをキリスの方へ差し出し、
「キリスさん、いつもありがとうございます。これは我々からの気持ちですので、これを食べてまたいい歌を歌ってください。ああ……それと、ぜひよければ私の無絖が霧烏さんの大ファンでして、あのう、サインなんかくだされば喜ぶんです」
キリスは快く彼の差し出すペンでさらさらと渡された葉にサインをしました。アリは「アリがとうございます」と言って帰りました。
「ふん、何がサインだ」
こう言って出てきたのは、キリスの部屋のとなりの住人でした。
「やあ、ギリス、昼間なのに起きていたのかい」
「勝手にしやがれ」
そう言うとギリスは扉を閉めて自分の部屋にひっこんでしまいました。
「彼はギリスって言うんだ。ちょっとそこで待っててね、すぐに出てくるからさ」
キリスはそう言うと部屋の中に入り、さっきアリからもらった食べ物をそこに置くと、言っていた通りすぐに出てきました。そして彼はレルを連れてギリスの部屋にノックもせずに入るのでした。
「ああキリスさん。お疲れ様です」
「彼はコロッギョと言うんだ。そしてあそこの隅に座ってる暗いのが鈴太郎だ。彼はさっき見たギリスだね。どうしたんだい、みんな揃って」
キリスはそこにいたみんなをレルに紹介すると、そう言った。
「何にもねえよ、なんにもねえから集まってるんだ」ギリスは言いました。「それとさっきまではお前の歌がつまんねえって話で盛り上がっていたんだ。珍しく鈴太郎の野郎もよく口をはさみやがった。異論はねえだろ、お前の歌は、くだらないったりゃありゃしない」
「そんなことないよ」
「そうだよ、レル君の言うとおりだ。そんなことない」
「いやあ、そうは言いますけどね、キリスさん。あなたの歌はちょっと理想論過ぎると言いますか、何というか。とにかく、僕には歌えない歌ではあるんですね」
「恋だの愛だの、平和やら世界だの、実にくだらねえ。だいたいお前の気持ちは何だって話だ」
「愛だの恋だのさ」
「馬鹿らしい、歌ってもんはエネルギーなんだよ。お前のはな、表装だけ綺麗に飾り立てた中身のない箱だ。虫唾が走るね」
「でも僕の歌の方が綺麗なのに間違いはないだろう。第一君に僕が今夜するようなコンサートは開けない。僕の方はなんてったって人が集まるのさ。歌というのは畢竟、人に喜んでもらうためにあるのだからね、僕はそれを外れることはしない」
「いいや、俺は気持ちにもないことは死んでも歌わない。お前のようなふぬけた歌で開くコンサートなんぞ俺は開きたくない」
白熱する議論にレルは慌てるばかでした。ふたりの迫力に腹の底にいるネズミがあわあわと恐れ出して、レルはとうとう、
「ケンカはよくないと思う」
と言いました。
するとコロッギョがからからと笑いました。
「レルさん、これは喧嘩じゃないんだよ。彼らはそうやって自分のやりたいことを再確認しているのさ。それに何より僕なんかは二人のこの会話を、もう何百と聞かされたからね。気にすることはないんですよ」
「そ、そうなんだ。でも僕は、キリスさんの歌が好きです」
「ふん、お前のようなガキに俺の歌は聞いても分からねえだろうな」
ギリスはそう言って立ち上がると、壁に掛けてあったエレキギターを掴み、「俺もこれからコンサートがあるんで。キリス様のようにたくさんは集まりませんがな」と言って部屋を出ていきました。
「さあレル君、僕たちも部屋に戻って用意をしよう。それほどぐずぐずしている時間は、実はないんだ」
「うん」
レルとキリスは、キリスの部屋に戻りました。レルは、キリスがギターの弦のチューニングするのを、彼が貰った食べ物の中のリンゴを齧りながら見ていました。ふたりともとても真剣なまなざしでした。
コンサートは巨大キノコの樹のふもとでなされました。非常な盛り上がりでした。アリたちは跳びはね回って踊って歌い、時にはそろえて肩を揺らして涙を流し、時には口笛を鳴らしたり、キリスの歌を称賛する声を上げました。
しかし、そのまま飛行機の着地するようになだらかに終了とはいきませんでした。コンサートは墜落しました。
キリスが中でも一番有名な『コンソメハート』を歌い始めたクライマックス、アリたちも一緒に歌い盛り上がりの上空に昇った時でした。制服を着たアリの警察隊がやってきました。
「今すぐに歌をやめるのだ。ただいまさっき、女王様から歌の禁止が言い渡された。歌は我々を堕落させる、生活にも労働にも必要ないもの、毒的思想を蔓延させていけない、ということである。ただちに解散せよ」
ということでした。
アリたちは不平不満を言い、ざわつきましたが、女王様からの言いであればしようがありません。アリたちはそれぞれ三々五々散らばり、穴に向かうのでした。
「どういうこと?」
レルはすぐにキリスのもとへ駆け寄り、聞きました。
「僕らの不必要性に気がついたんだ。僕は前々からそんな予感がしてたんだけどね。ほら、僕のやってることって誰の腹を満たすわけでもないだろう。直接的にも間接的にも、アリの役に立ってるわけじゃあないんだ」
「もう歌って禁止なの?」
「そうらしいね」
キリスはキノコから飛び降り、アコースティックギターを袋に仕舞うと、レルを連れて家へ帰るのでした。レルにはその背中がとても大きく、誇らしく、しかしどこか弱弱しくみえました。
「それでもアリたちは食べ物をくれるのかな、くれないでしょうねえ」
コロッギョは「歌禁止令」の話を聞いてそう言いました。
「彼らいい歌をありがとうって食べ物持ってきてくれますからねえ。ねえ鈴太郎」
「俺は、俺のために歌が歌えたらいい。別に客なんていらねえ」
「彼はこういってますけどね、これでアリたちに人気ものなんですよ、それなりにね。とは言っても、ギリスさんの変わり者の客たちのもういっそう変わり者と言った感じで。ギリスさんの人気は変わり者、というよりはぐれ者の感はありますが、鈴太郎のはもう変人屈ですね」
「コロッギョさんにはどんなアリたちが来るの?」
レルは聞くと、コロッギョの代わりに鈴太郎が答えました。
「こいつは、キリスから客を取ってんだ。よく聞くぜ、キリスさんより好きです、ってな。土台キリスの比較対象で出てきてんだ」
コロッギョは静かに笑っていました。
夏になりました。アリたちの汗のかく量はひとしおで、それでも彼らはエッサ、ホイサと働きました。キリスは禁止令がだされて以来、主に部屋に籠って暮らしました。それ以外にやる事といってなかったのです。レルは涼しいコロッギョの部屋の中で、レモネードを飲んでいました。
色々な会話をして過ごしたあと、コロッギョが、もうすぐにギリスのライブが始まるので皆で見に行こうと提案しました。そうです、ギリスは禁止令がだされた後も、隠れて歌を披露していたのでした。
外に出ると、もう夜に近い暗い夕方でした。レルは一番星が煌煌と輝くのを見つけました。
『狂乱につぐ狂乱 はたらく狼藉 正真正銘ここが震源
アナーキー 社会に負けた俺らだからこそ刷新する 革新 革命
不自由に侵食する自由 白熱
ここは行き場のない者の集う病床
根暗もビッチも白痴も平等
見破るやつらのマルチ商法
健全者こそ送る隔離病棟』
ギリスは木のほらの中でアリを集めて叫ぶように熱唱していました。レルは鈴太郎が真剣な眼差しでそれを見てるのに気づきました。そして以前、コロッギョが「鈴太郎はギリスに憧れて歌い始めた」と言ってたのを思い出しました。ちなみに彼はこう続けました「そして僕は、キリスさんの歌に憧れて歌い始めたんだ」
ギリスのライブは、キリスのコンサートとは別種の盛り上がりを見せました。空気は蒸されて熱く、時折歌の歌詞が聞きづらくて分からないようなところもありましたが、それを指摘するようなアリは一匹もいませんでした。
ギリスはギュインギュインとエレキギターをかき鳴らし、歌いました。
『賭博場と爆音 博徒の鼓膜飛ぶ
暴動 揺らす 分捕る 防毒マスク
労碌なる戯れに 少女濡らす
論すら爛れた凌辱犯
地から三寸は濁った空気 非合法な商売 腹にドクダミ
ホルマリンの水溜りに気づかずにダイビング
俺ら世界に殺された廃人
……Oh my aria R.I.P
俺ら生かされたこの不遇の社会に
歯向かうべく 産み落とされた破壊神』
「すごいね」
レルは思わず、すぐ隣にいたアリに話しかけた。すると彼らは力強くうなずいた。
「君もわかるか、そうかそうか。俺らのギリスはね、社会の真実を歌うんだよ。俺はね、働くことが苦手で、列に並ぶのが苦手で、女王という偉い存在も苦手で、行き場をなくしてたところに彼と出会ったんだ。彼がいないと、俺はもしかすると道をはずしていたかもしれない。そうなんだ。あの頃の俺はとてもじゃあないが、自分を上手くコントロールできなかったからね」
「そうなんだ」
アリはまたギリスの方を向き、「ギリスー」と叫ぶのでした。
ライブを終えたギリスの前にはたくさんの食べ物が盛ってあった。
「すごかったよ、ギリス」
そんなギリスの前にレルは走っていきました。ギリスは、ああと答えるだけでした。
「以前より盛りあがってましたね」
後ろからコロッギョが言いました。
「歌が禁止さて、よりいっそうあいつらがこれを求めてる。まあ、おおかた禁止を破りたいがために、そのためのツールとして最適な俺の歌をきいてんだろう」
「そうかも知れませんね」
レルにはあまりよく分かりませんでした。
「キリスの奴はどうだ」
ギリスがレルのほうを見て聞きました。初めて目が合ったような気がして、レルはなぜかとたんに緊張しました。あるいはさっきのライブを見た後だからかもしれません。
「キリスは部屋にいるよ。今日のお昼にね、あるアリの女の子が食べ物を少し持ってきてくれたんだ。(ずっと応援しています。もしよければ、ほんの気持ちですが。禁止されましたがいつかキリスさんの歌が聞けることを願っています)て言ってた。でもね、キリスは彼女が帰った後、これだけじゃあ又すぐにお腹が空くだろうって言ってた」
「そうか」
ギリスは立ち上がりました。そして目の前の食べ物の中からいくらか掴むとそれをレルに渡しました。
「これをあいつにやるよ。残念だなって言っとけ」
「うん……ありがとう」
レルはそれらを両腕に抱えると、コロッギョと鈴太郎と彼らの部屋のある所に帰りました。
夏の終わりになって、キリスは突然姿を消しました。それに加えてギリスは隠れてするライブを蟻の警察隊に見つかり、投獄されてしまいました。
コロッギョも鈴太郎もそれらについてあまり言葉にしませんでした。ただ秋になって、コロッギョはその頃から一心に歌とギターの練習をしはじめたし、鈴太郎もずっと机に向かって詩を作っていました。レルはすることがなくなり、話し相手もいないので、アリの行列を見に行きました。
エッサ、ホイサ、エッサ、ホイサ
アリの声が聞こえてきました。草の陰から先頭のアリがでてきます。今度、レルは彼らについて彼らの穴まで行ってみることにしました。
蟻穴はいくつもの草をくぐり抜けた先にようやくありました。レルはすぐ隣にいたアリに聞きました。
「僕も入っていいのかな」
「ああ、いいぜ。なぜいけない理由があろう」
穴にははしごが掛けられてありました。レルもアリの間にはいってその梯子をくだります。そして地面についてまわりを見ました。そこは丁度舞踏会のなされる広間のような広さになっているのですが、その壁という壁に別なところへと通じる通路の入り口が見えます。それらは廊下であったり、階段になって上に行ったりしたに行ったり、あるいは昇り棒で上下できるようになっていたり。下りてきたアリたちは多くは荷物別にそれぞれ行くべき部屋に向かったり、荷物を人に預けて次の仕事に向かったり、その場に座って休んだりしました。レルはそのように休んでいるあるアリに声を掛けました。
「みんなすごいね」
「ええ? ああ、そうだろ」
アリは何の話かとんと分かっていない様子でした。
「名前を聞いてもいい?」
「僕かい、僕はアリだよ。みんな一緒かってかい? いいや、全然違うよ。例えばあれ」とアリは目の前を通ったアリを指さしました。「彼はアリだ。そして今あそこの階段から降りてきたのは、アリだ。……違いが分からない? 違うんだけれどな。君は? どこから来たの」
「レル。僕はね、前までキリスのところにいたんだけど、キリスいなくなっちゃったから」
「キリス……聞いたことあるな」
レルは目の前のアリのキリスにあまり興味がない風に驚きました。
「キリスのコンサートとか行ったことないの?」
「ないね、うん。土台僕はあまり歌って興味ないのさ。時々友人に勧められて少々聞く事はあっても、それほど……ってやつだな。君は歌が好きなのかい?」
「うん、好き。ギリスって知ってる?」
「知らないね。悪いが、聞いたことないよ。キリスとは違うのかい?」
「全然違う」
「そうか。悪かったね話が合わなくて。僕はそろそろ仕事に戻るよ」アリはそう言って荷物を担ぐと、広間を突っ切り昇り棒を上に昇って行ってしまいました。
いくらか廊下を適当に歩き、迷路を思うままに散策すると、レルは食堂みたような部屋に行き当たったのでした。そこではアリたちが酒を飲み飲み食事と会話を交わしています。そして、レルもそこに加わるのでした。
「ねえ、アリさんたちって、いっつもああやって働いてるの?」
会話も進んだところで、グラスにいっぱいの(二杯目)カルピスを口にして、レルが聞きました。
「いやあ、そんなことねえ。俺らかって遊ぶさ」
「そうだぜ、こいつなんか、時たま絵なんか描いてる。それが何になるか知らねえけどな」
「僕は歌うのが好きだね」
「どんな歌?」
レルは興味津々です。
「これさ」
と言ってアリは歌い始めました。すると周りのアリたちも歌い出します。酒を片手に歌うのですが、その微妙に揃わない声と音程、その聞き心地の良くない歌にレルは少し安心しました。
「でもそれってキリスの歌でしょ」
その歌を、レルはキリスが部屋で練習してるのを聞いたことがありました。
「そうなのか、それは知らんがなあ」
アリはどうでもいい様子で、続きを歌いました。
饗宴も冷め、レルは部屋から出ました。すると後ろから声がかかりました。
「ねえ、きみ、さっき見ていたけれどさ、歌が好きなんだろ。そのように見受けられたよ」
振り向くと深く帽子をかぶったアリがいました。
「うん、歌は好き」
「実はね、今夜コロッギョのライブがあるんだ。巨大キノコの樹の三つとなりの木、そのふもとの茶色い石の横であるんだ。ぜひ来るといいよ」
彼はそう言うとレルの返事も待たずに先に行ってしまいました。レルはまたコロッギョが捕まってしまうかもしれないという不安をおぼえましたが、あれから久しく歌をきいていなかったので行ってみることに決めました。
レルは帰り道を探しました。その途中、彼はいくつも通路の端で力なく座りこんでいるアリを見かけました。怖くて話しかけられませんでした。
「最近ああいうのが増えたね」
半目を開けて、横たわっているアリを見つめていると、後ろから教えてくれました。老いたアリでした。
「特に若いのに多いよ。まあ、私らの時代もなくはなかったんだがねえ。今じゃあそろいもそろってああやって力をなくしちまってる。女王様は見てみぬふりをしているが、どうしたものかねえ」
「食べ物を上げるといいんじゃない」
「おなか空いてるように見えるかい?」
「うん」
老いたアリは笑いました。レルは彼から出口までの道程を教えてもらい、ようやく穴から脱け出ることが叶ったのでした。
その夜、レルはコロッギョのライブを見ました。たびたび隠れて行われているそうでした。鈴太郎も一緒に出て歌うこともあったそうですが、その日はいませんでした。とても秘密結社めいた空間でした。そこにはキリスのコンサートで見た顔のアリたちもたくさんいました。ライブが終わるとコロッギョはあの頃キリスやギリスが貰っていたよりも多くの食べ物を彼らから受け取りました。
レルはライブが終わり、その感想を周りのアリたちと語りました。その中で驚く情報が彼にもたらされたのでした。
「ギリスが……いなくなったの?」
レルは聞いたままの言葉を繰り返しました。
「そうだ、いやああくまで噂なんだがな。騎兵として働く昔馴染みに聞いたんだ。牢から消えてしまたってさ。理由は分からないらしい。逃げおおせたのだか、女王様にどこかへやられたのか、ともかくも、いなくなってしまったのは本当らしいぜ」
レルは心配になりました。
その後、レルはもう一つ心配になることがありました。小川沿いをキリスの部屋へ帰る途中のことでした。細い道を歩いていると、草むらのむこうから鈴太郎の歌声が聞こえてきました。
「ツライ、ツライ、ツライ、ツライ」
と歌っていました。鈴太郎の歌声は四人の中では一番きれいなものですが、いつも歌詞が分からないに分からないを極めていて、つかみづらいのですが、今日に関しては、レルに、つらいことだけは伝わってきました。
レルは草むらを分け入り、鈴太郎のもとへ行きました。
レルに見つかった鈴太郎は恥かしそうにしました。
「今の歌をきいてしまったのだろ。馬鹿なことをしてしまった。いつもならあんな馬鹿らしい歌詞を乗せて歌うことなんぞ、絶対にしないのに。たまたま心に風が吹いて歌ったときに、折悪しくお前のような奴が通りかかるんだからなあ。忘れろ」
「なんでいつも、よく分からない歌を歌うの?」
「恥ずかしがり屋なんだよ、僕は。自分の気持ちを、歌いたいけれど知られたくはないんだ」
「コロッギョもそう言っていたのを思い出したよ。鈴太郎は恥ずかしがりだから格好つけてるって、そうなの?」
鈴太郎は恥かしそうに笑うだけだった。
「君のために歌を作ってあげるよ。今度のライブで披露してあげよう」
「ええ、いいの。とっても嬉しい」
レルは鈴太郎に別れを言って帰りました。彼がどんな歌を作るのか、ワクワクしながら布団にもぐるのでした。
土に薄く雪がかぶる季節になりました。といっても小さいレル達には薄くなどなく、砂を積んだ足場を選び選び歩かなくてはいけません。それはそれはおっくうになるので、レルやアリたちはあまり外出しなくなりました。
鬱々とした引きこもり生活にくわえ、もうひとつ、レルを不機嫌にした事実があります。それは鈴太郎についてでした。
秋のある日、レルは夜道で鈴太郎が歌うのを聞き、そしてそれを見に行った終わりに、彼はレルについての歌を歌うことを約束しましたが、それがかなわなかったのです。というのは、鈴太郎やコロッギョが暗々裏に活動することが、それを見にきていたアリのうちのひとりの告げ口により女王様にばれ、彼らが逮捕されたからでした。
ふたりは現在も拘束されていますが、このふたりの処置についての裁判がそのうち行われることになっています。
レルはアリたちと囲いになって春から秋にかけため込んだ食料をちびちび口にしトランプゲームをしていました。今は昼休憩の時間です。休憩の時間が終わると彼らは食料点検、管理、巣穴拡張などに勤しまなければなりません。
そんなゆったりした時間の中、頭に旗を立てたアリが、駆け回りながら叫んでいました。そのアリはレルたちの近くも通りました。その叫ぶ内容はこうでした。
「鈴太郎~、コロッギョ~……彼らの裁判日程が決まったぞ~! それは今夜、それは今夜」
何度も何度も繰り返していました。
「今夜だって。見に行かなくっちゃ」
アリの世界はいつでもこうでした。情報はすぐに決まり、伝えられ、行われるのです。前もっての計画などあまり立ちません。長期の計画なんかは、立ったとしても実行される間に二転三転、そしてしまいには急に中止! なんてこともあります。それに合わせてアリたちはきびきび行動するのでした。
その晩、伝アリの言い通り、裁判が開かれることになりました。仕事のなかったレルはいの一番に会場に入り、開廷を待ちました。
予定より二時間早く裁判が始まりました。その頃にはアリたちは数えられないほど集まり、大きな黒い塊となって、鈴太郎コロッギョの周りにうごめきました。
レルがとなりのアリに「あれが女王様だ」と指さし教えられたところを見ると、それは大きなベールのかかったベッドでした。中は見えませんでした。よって女王様だというその姿も確認できませんでした。
「うぬらのふたりの処置は決まっておる」女王様の声でした。張りのある威圧的な声は、会場によく響きました。「無期懲役である」
アリたちがごわごわとどよめきました。
「うぬらは我々の食物をただ横取りする害虫である。そのうえそれに飽き足らず、うぬらの熱心し、熱心させておる歌なるものは、アリらを堕落させ、労働の意欲に影をさしこませる毒である。ゆえに、これから一切の活動を禁ずる上、これまでの罪の償いとして地下牢に朽ちるまでいてもらう。朽ちたら我々の食料にしてやろう」
ふたりはただ黙ってうなだれるだけでした。コロッギョは自らの前途を悟り、鈴太郎はそれすら興味がないという風に斜め下を見ていました。
アリたちのいくらかからは抗議の声が上がりました。
女王様はそれ以降黙っていました。
会場は沸騰寸前の水のように、その内に秘めたエネルギーを皆静かに隠し持ち、お互いの出方をうかがいました。長い間、少々上がる声、意味のない音、空気の流れがその場を支配し、何も起こりませんでした。
「連れて行け」
女王様が言い、武装アリが左右から出てきてふたりの肩をつかんだ時でした。水はついに沸騰しました、どっとアリが押し寄せ、武装アリにとびかかりました。武装アリたちはそれを受け、次から次と増援をよこして対抗しました。レルは遠くに逃げました。なぜならそれはみるみるうちに激しさを増し戦争となったからです。
見ているとレルは違和感をおぼえました。いいものとは思っていましたが、まさかこれほどまで歌がエネルギーを生んでいたのかと驚きました。そう思っていると、あるアリが女王様のベッドの天蓋の上にのぼり叫びあげました。
「我々を労働から解放しろ。意味のない作業から解放しろ。もう女王の思いつきの奴隷にも、気変わりの被害者にもならない。我々に自由を」
問題はすり替えられてしまっていました。沸騰しかけの水は、色々なものが溶解した結果これほどまで沸点が上がっていたのです。レルはもう何のことだか分かりませんでした。
するとどこからともなく、ギュイーンという音が響きました。そして束の間の鎮静。その次は、ポロンポロンという音。皆が音の正体を探りました。しかし見つかりません。そして正体は現れないままに、その二つの音は続き重なり合い、ついには綺麗な歌声がそれにあわさりました。それはみんなが知ってる、キリストギリスの歌声でした……
……
☆☆☆☆
レルは目を覚ましました。すっかり朝です。いつの間にかバイトから帰っていた白明は運転席でうずくまって寝ていました。
レルは大きく伸びをしました。
そしてふと草むらなんかを歩きたくなりました。
レイをおこしてついて来てもらうことにしました。
「やけにご機嫌ね。ぐっすり眠れたの?」
うん、とレルが答えるとレイはそりゃよかったねと言いました。
レルはふたたびうんと答え、何となく思いついた鼻歌をうたいました。
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