初恋幻想


①——白世界。白の世界。さえぎるものは何もない。ただ一面、純白で広がった世界であった。

 巨大な時計盤だけが宙に浮いて有った。浮いてるといっても、床から四十五センチほど上である。真下に薄い灰色の影が落ちる。秒針は進んだり戻ったりしている。長針は動かない。短針は一番速いスピードで廻っていた。汚れたところのない綺麗な時計だった。

 その時計を見上げるように、少女が座っていた。膝を抱えていた。金色の髪。黒いドレス。肌は景色に溶け込むように白かった。

 僕は後ろからそれを見つめていた。音というものは存在しないかのようだった。永遠にこの瞬間が続くように感じた。

 しかし、そうではなかった。

 時計を見上げていた少女は一度がくりと首を落とすと膝の間に顔を埋めてしまい、それから数秒して顔をあげたかと思うと、そのまま音もなく、そうっと、僕の方をふりむいたのだった。

 僕は彼女の顔がこちらに向く前に慌てて目をそらしたのであった。


②メロンのように重たく大きい雨粒がバシバシと肌を叩いた。もちろん顔も打たれた。僕は学校からの帰りに雨に襲われ、鞄を抱えて雨を踏み踏み走っていた。雲の中では雷が目を光らせていた。そして巨大なカメラがこの世界を写したかと思うと、あとから轟音が降りてくる。落雷であった。

 僕は墓場のとなりで思わず立ちどまった。そして左に有るその墓場から目が離せなくなった。白い制服を着た少女が横たわっていたのである。

 この国の墓地はとても賑やかである。色取り取りの花で飾って、時には親族の子どもの描いた絵や、何かを示す旗なんかが立ってあったり、そして極めつけはこの墓地自体入り口に派手なアーチが構えてあるのだ。

 僕は道を戻ってアーチをくぐった。

 少女は傘もささずに墓場に佇んでいた。僕が入ると彼女はこちらを向き、何も言わずにただこちらを見つめた。

 僕は彼女の方へ歩いた。ふたりともすっかり濡れ切ってしまっていた。彼女の金色の髪から白い頬へ、雫が絶え間なく伝っていくのが見えた。

 ずいぶん近づいたころ、世界は急に昼間のように明るくなった。そしてもう一度暗くなったとき、彼女が口を開いた。

しかしその言葉は雷鳴に消されてしまった。

 気がつくと目の前に少女はいなくなっていて、ただ石の墓があるだけだった。妙に白っぽい石だった。それには装飾も何もなかった。ただそこには『C.c.Corohl 1881~????』とあるだけだった。

 こんなことだが、勿論彼女は死んでなどいないのである。


③僕は都会の片隅でひっそりと営まれている、物好きな帽子屋にいた。

「でも、僕には大きすぎますね」

——と言った。

「鉢に合わない」

 周りは棚に囲まれており、そのどこにも帽子が乗っていた。店内には僕と、黄色い葉巻をくわえた店長(五十六歳)、それと、車いすの老婆と五歳くらいの男の子を連れた少年がいた。少年は恐る恐るテンガロンハットをつかむと、それをかぶってみたりしていた。

 僕の意見に対して、店長がすぐに反論した。

「それがいいんさ。も一度かむってみな」

 僕は帽子をかぶってみた。

「わしからはあんたの目が見えなくなる。帽子のつばに隠れてな。しかしあんたの視界は確かにある。多少狭いがな。わしからは見えない。それがより一層あんたの存在を軽く自由にし、その自由から生まれる優雅さは、あんたのオーラをより一層輝かせるんさ」

「僕にオーラなんてありますかね」

——と僕は言った。

「誰にでもあるんさ」

 店長がそう言ったとき、背後でドアの開く音が聞こえた。店長は続けた。

「あんたにもあるし、そこの少年にもご婦人にもぼっちゃんにもある。もちろん今来たお嬢ちゃんにもね」

 僕は振り返って、彼女を確認することができなかった。


④僕は中庭から病棟を見上げた。誰かが寝ているであろう病室の窓が、昼の太陽に白く反射した。僕は手でそれをさえぎった。となりの窓からは、雲が早い速度で泳ぐのが見えた。西の病棟から風が吹き下ろされた。しかし日光に焼かれた僕の腕はそれを涼しいと感じることはできなかった。

 足もとを見た。芝生のアトラクションを蟻が一生懸命に渡っていた。右足を動かして行く手を押さえたが、蟻はその下を潜っていった。首筋が太陽に熱かった。太陽に熱いだけで汗はあまりかかなかった。

 もう一度病棟を見上げた。ほとんどすべてのカーテンが閉められていた。

 僕は影に移動し、それから扉のところまで行って、中に入った。

 すぐそこに、宇宙だるまだぽつんとあった。

 ひとけはなかった。

 目の前に静かに埃が落ちていった。そしてそれは床におりた。

 宇宙だるまがおもむろに転がり始めた。ころころころころと転がって、その先にあった小さな木の椅子の脚にぶつかって止まった。

 背後の、開けたままだった扉のむこうで、一斉に雨が降り始めた。みるみるうちに雨脚は強くなった。

——あの雨だ!


⑤僕は墓場に到着した。

 彼女はやはりそこに立っていた。

 僕たちは対面した。びしょ濡れになりながらである。

 彼女は左手に薔薇を持っていた。そして彼女はそれを胸のまえで掲げると、それを両手に持って、それから勢いよくその薔薇の花を胸に突き刺した。胸の左、それは心臓にまで届いたのだろうか。

 彼女はそのまま倒れた。

 そして気がついたころには、そこには墓があるのである。

——勿論彼女は死んでなどいないのだ。

 僕は広大な紺色の海を思わずにはいられなかった。


⑥台所で祖母が料理をする、その音が僕をより一層堕落した気分にさせた。そして胸の中は鐘のように空虚だった。奥歯を飲み込みそうになる。

 僕は縁側に、黄色い煙をちろちろさせる蚊取線香を隣に置いて、ストローをさしたラムネ瓶と一緒に座っていた。

 庭に転がる石の上をトカゲが走った。そのまま僕は目をスライドさせ枯れかけているアジサイに目をやり、ラムネ瓶をつかむと口のところまで持ってきて、細いストローでそれを吸った。僕が蚊になったようだった。

 そう思い、蚊取線香の方に目を移した。ラムネ瓶はまた床に置いた。黄色い煙が立ち上る。ここに小さな山や川、無数の農民や馬などがいれば、戦場のジオラマである。瞬きをするとそれらは一瞬で消えてった。

 代わりに空想の蚊が目の前を飛んだ。空中を漂う虚無的な生命体は黄色い煙にぶつかって、電気に撃たれたように体を痺れさせ落ちて行く。そして地面につく前に、光になって消えてしまった。


 ……僕は、……


 立ち上がった。そしてはだしのまま玄関まで走った。

 扉を開ける。

 そこは白の世界だった。何もない真っ白は幽遠世界。

 そしてそこには大きな時計と、黒いドレスを着た少女が座っていた。

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