物語の神様…起を語る…『芳香of珈琲is扉of宇宙だったりして』

 ただひとつひょっこりとある丘の上に、古いがなかなかに荘厳な家が建っていた。日向の暖かい午後、ゆったりと流れる雲、その家はやさしい風に吹かれていた。


 二階の窓から出たところの広いバルコニーに、ひとりの老人がロッキングチェアに身をうめてぎしぎしと揺れていた。後ろから見えるのは、薄くなって頭皮の透ける頭。地味とは出の中間の色の、くすんで毛玉の纏った服。そして左手の人差指につける大きなルビーの指輪。そんな彼は、ひとりでに話し始めた。


「こんにちは、どうもわざわざこんな処まで来てもらって……疲れてないかね」

 そして彼はあなたのほうを見た。あなたの存在に気づいていたのだ。

「ここはどこかって? 私の家だよ。私のことかね? 私は……物語の神様だ」


 彼はあなたから目を逸らして唇を舐めてしめらせると、さらに言葉を続けた。また椅子の背にもたれ、あなたからは背中しか見えなくなる。


「今回の物語は、『始まり』が描かれる。いいや、それ以外が描かれないのかな。とにかく、何か物語が始めるところの、いわば『起』の部分だ。まあ読んでもらえればわかるだろう。それ以降の『承・転・結』はないのであるから、君たちで想像してもらってもいいし、別に想像しないでもいい。なんなら創造してもらってもいい。今回私の云う事はない。……登場人物は……白明君だけでいいかな。それ以外は新出にしよう。まあ君、こっちに来たまえ」


 あなたは彼に言われる通り、彼に一歩近寄った。

 彼は膝に書物をのせていた。硬質な表紙の旧い書物だ。老人は、いいかねと云って書物を開いた。そこにはびっしりと文字が書かれてあった。


 …………


『芳香of珈琲is扉of宇宙だったりして』


 とある詩人の詩の一節にこういうのがある。


《上昇する螺旋の宇宙に 引き上げ攫われるまま回転し》


 一つの宇宙観であるが、これというのは地球が太陽の周りを動き、また太陽系が銀河を動いているそのまた一つ先、宇宙自体がそれを超える超時空空間で螺旋状に回転しながら上昇しているというのである。


 宇宙は『ばね』の構造をしている。


 それが何を意味するのか。それ自体が時間なのである。短針が進むごとに宇宙は回転しながら上に昇る。ばねを上がれば上がるほど未来であり、下がれば過去である。だから、もしわれわれよりも一次元越えたところに生きる存在があれば、この宇宙の上下を自由に移動できるのだ。このばねの中心に空いた円柱型の空洞をショートカットして進めばいいのである。


 しかし宇宙観はこれだけでは完璧ではない。こうやってばね状に上昇する宇宙は、この超時空空間上に無数に存在しており、それらは互いにぶつかったり、混じったり離れたり、交差、重なり合って存在するのである。

 われわれの住む宇宙は、そんな可愛い元気に働くばねたちのほんの一匹なのである。



 白明は働き先で知り合った王紅夫という、四十をすぎたおじさんに誘われ、彼の別荘に招待してもらった。山脈のふもとにある庭の広い家である。最初に到着して見たとき、二階の部屋に丸い窓があるのが印象的だった。白明のほかには、王紅の妻メリシアと犬のランボルギーニがいるだけだった。

 ランボルギーニはイカの刺身が好きらしい……



 白明は正面からは見えなかった裏庭を見せてもらった。

 正面の庭は広く、綺麗に切り揃えられた芝、生垣、点々と設置されたスプリンクラー。そして周囲をめぐらすように見事に咲いた淡いアジサイが魅力的だったが、裏庭は違った。


 まず狭いのである。そしてさらには草が、雑草が、まったく手入れされず乱雑に生やされてあった。ただそれもただ汚い、いやらしい印象は与えなかった。なぜなら、その狭い裏にはの中央に思わず背筋の伸びるような立派なサボテンが立っていたからである。すると雑草さえ彼の取り巻き。より彼を強く見せるセコンドのように思えた。


「すごいですね。全く予想外でしたし、これは見てよかったです」

 白明が胸を開いた意見を言うと、王紅は満足した様子で、

「では何か、ここでお茶でもしよう」

 と言った。


 ここで……? と白明は思わないでもなかったが(この裏にはも素晴らしいのであるが、お茶をするには圧倒的に表の庭の方が適っているのである)、何も言えず彼の用意を待つことにした。



 果たして彼が持ってきたのはコーヒーであった。それも白明は(コーヒー……?)と思わないではいられなかった。ただそれは勝手に紅茶と決めていた白明の早合点の結果であり、最初からコーヒーを持ってくるつもりで言った王紅は何も悪くない。白明はそう考えた。


 ふたりは窓越しに裏庭の見える廊下に、椅子を並べてコーヒーを啜った。

「このサボテンは私が植えたわけでも育てたわけでもないんだ。この家を建てて数年したとき、見つけたんだ。とても可愛らしいサボテンの赤子を、あの裏庭の真ん中に。それから私は」

 白明は半分話を聞いていなかった。耳で言葉を受けているだけの状態である。意識はそれ以上にコーヒーに向いていた。信じられないくらいに美味しかったのだ。これほどに上品な芳香のコーヒーは飲んだことがない。彼はもう一度口をつけた。




 両手でカップを持ち、まだ半分ほど残ったコーヒーの水面を眺める。黒い湖である。けれどそれはそこに悪魔が住んでいるからである。コーヒーは完全に毒だからだ。黒い毒である。白明は水面を見ながら、何も考えない境地へと沈みこんだ。もはや王紅の話は一割たりとも聞いていなかった。言葉は硬い鼓膜に当たって撥ね返った。


 泡が見えた。さっきまでなかった泡。水面に一つ浮かんでいる。白明は不思議に思った。と、今度はそこから泡が浮き上がってくるのを目撃した。そこに穴が開いていて漏れている、と思い指をやったが、漏れは確認できなかった。ふたたび泡が上がる。奇妙だ。また上がる。その頻度は増し、次第にコポコポコポコポと断続的に泡が底から出てきた。


 何だ!


 そう思うと同時に、水面に何かぬめらんとした白い物体が見えるかと思うと、それは突然出てきた。手であった。というよりも腕そのものが、白明の持つカップのコーヒーの中から飛び出してきたのだ。


 その手は白明の胸のあたりを掴んだ。そしてコーヒーの中に戻って行く。白明は引っぱられた。抗うことのできないほど強い力だ。最終的に彼は、その手に引っ張られるままにコーヒーの中に引きずり込まれてしまった。残ったのはただカップのみである。なんと彼は珈琲の中に消えてしまったのだ。




 目を覚ますとそこは檻の中だった。無機質なコンクリの狭い部屋。そしてその部屋の中には白明ともう一人いた。


 目のすわった男だった。無精ひげを生やし、ぶあつい筋肉の上に脂肪をまとい、部屋の隅で壁にもたれて座っていた。彼を目にした瞬間に、その威圧感は部屋中に漂った。


「あのう……」

 白明が声を掛ける。彼は俯いていたが目だけを上げて白明を見た。

「あのう……僕はいつからここにいたんですか?」

「昨日だ。昨日の真夜中に、ここに現れた、突然な」


 彼は答えた。彼は名を名乗らなかった。名前は芯骨に通ずると言った。ゆえに名前を知った者はその者に影響を与えることができると。彼は誰からも影響を与えられないことを信条に生きていた。それで、彼は自分をボスと名乗るよう言った。前までの肩書らしい。影響嫌う彼だが、しかし、人には影響を与えたいらしく、彼は白明に名を聞いた。白明は名を「桜坂栄太」であると偽った。念のためである。


「ここはどこなんですか?」

「牢獄だよ」

「はあ……」

「月面留置所さ。俺らは星をおわれた」

「え、地球じゃないんですか?」

 白明は少し跳びはねてみた。重力は地球と変わらないような気がした。

「地球?」とボスは眉をひそめた。「違うな。ここは我らが母星サフリアの衛星エロネイアだ」

「はくらーんの けいこーうをー せいひにあーけーてー」幼い声の唄声が聞こえた。男の子らしかった。それは檻のむこうの廊下のむこう、正面の部屋からだった。

「うるさいぞ、チビ」


 ボスは言った。すみません、と聞こえてきた。そして顔が見えた。十六歳くらいの少年だった。


「こんにちは」白明は挨拶をした。

「こんにちわっす」チビは返した。「俺は、横田小太郎といいます」

「君は名前を言ってもいいんだ」


 白明が言うと、小太郎は慌てて口を抑えた。言ってはいけないらしかった。彼は、すみませんボスと涙声に謝るのだった。


「言ってしまったもんはしょうがない。あとはお前が気を強く持てばいいだけの話だ」

「はい、ボス」

 元気に返事をした小太郎の顔が、檻に叩きつけられた。そして彼は気を失った。

「そいつぁ……誰でやすかぁ……ボス」


 頽れた小太郎のうしろから顔の青い、不健康そうに痩せた青年が出てきた。

「分からない、急に現れたのだ。別に我々に危害を加えないので安心しろ。それに、もしかするとうまく使えるかもしれんからな」

 とボスは言った。そして彼は白明に、その痩せた青年の説明をするのだった。

「彼のことは、シェイディーと呼べ。きちがいな野郎だ。なあ、シェイディー」

 彼が呼びかけると、シェイディーは自分の腹を殴り、ゴボッというと口からナイフをとびださせた。それは鈍い音をたてて床に落ちた。

「シェイディーはその気になれば、この檻を噛み千切れるだろう。念のためそれだけの能力は完全に隠してここまでやってきた。いつか有効に利用するためにな」


 彼がそう言って、ようやく立ち上がった。そしてくしゃりと指で掴んでいたゴキブリをつぶすと、それをシェイディーの方へ抛った。シェイディーはそれをキャッチすると、奥の影へまた消えていった。


 そのとき、白明のいる部屋のとなりからから「あ~~~、ああ~あ、あ~~ああ」と弱弱しい声が響いてきた。


「あいつはガリだ、ガリと呼べばいい」

 ボスは言った。ガリはなにか「八十五が八十四、八十四が八十五」と唱えていた。


「何を言ってるんですか?」

 白明はボスに聞いてみたが、ボスは

「あいつの考えることはだれにも分からん。頭が少々回りすぎるんでな」と言うだけだった。


 ちょうどそのとき、白明のおなかが鳴った。

「大丈夫だ、もう今に昼食の時間だからな」

 ボスが言った。その通りだった。彼が言うと同時に、天井に穴が開いてそこから食器の載ったトレイが降りてきた。ボスはそれを取って床においた。そして座った。

「おまえも、食べろ」

「ありがとうございます」

 ふたりはひとり分の食事を分け合った。食事を終えたとき、ボスは白明にある話を持ちかけたのだった。



「お前は良くもこんな折に現れたものだ、檻だけにな。俺たちは……今日ここを脱獄する」

 食事を終え、ボスが言った。周囲の空気は緊張した。

「おいガリ、地図は出来上がったんだろ」

 ボスが聞くとガリは答えた。

「ええ、足音の響き方、ここ周辺の部屋のならび方、昼食の下りてくるタイミングなどから色々計算しました結果、ここには八百十五の部屋があると思われます。そしてその構造は今のところ八パターンに絞れています。最初の廊下を右に曲がると残り四パターンに、それから少し進んで右手に並ぶ部屋の数でもう絞れます。そこからの経路はおおよそ出来上がっています」

「いいだろう」


「それでいつくらいにその作戦を決行するのですか?」

 白明は訊ねた。するとボスは答えた。

「……今からだ。やれ、シェイディー」

 シェイディーは檻にガブリと噛みついた。


 …………


 老人は本を閉じた。

「今日はここまで、というよりこの話はここまでだ。ここから先は存在しない」

 彼はあなたの目を見て反応をうかがった。

「まあ、でも次回に期待すればいい。今度は途中までなんていう無粋な物語ではないだろうからね。だがどんな話が来るか、自分でも分からないのだよ」

 そう言って老人は椅子の背に深く身を沈めて、丘の上から見える夕暮の眺望、そこに思いをはせるのだった。

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