旅人と少年と桜


 丘の上に、大きな桜の木があった。

 旅人は、片恋相手を失った……。


 街にいた頃に、彼はある女性に恋をしたのだが、彼女は清楚で儚げで、彼の目には羽が生えているようにさえ見えた。名前をレイといった。アカデーメイアーで出会った彼女はいつも一人でいた。あるとき廊下でひとり、通路に背を向けるようにしておにぎりをほおばっているのを見て彼は恋に落ちた。


 彼はその日の午後に彼女を誘って中庭に出た。柔らかい陽光がふわふわと、噴水に低木に彫刻に、そしてベンチにもおりていてオレンジだった。気温はふたりの腰と背を汗ばませた。彼はめくら滅法に話を投げつけた。そして正直者だった。ほんの数回、口に手をあてて笑う彼女に、喜びのあまりとつぜん緊張し、言葉が止まることさえあった。喉よりも心臓に気を取られるのだ。彼女が俯きがちになってようやく、地平線から投げかけられる夕日に雲が朱色に縁取られるの見つけて、あわてて彼は彼女を離した。別れ際、「また明日」と笑って小さく手を振る彼女に、ふたたび永遠のときめきを感じるのだった。


 しかし次の日彼女は来なかった。彼女と次に会うのは半月を待たねばならず、ようやく会えたとき彼は半月分の積もった話を少しも消化できないで、別れなければならなかった。一週間に一度、彼女に会えればよい方で、長くて三か月。まったく彼女を見ずに過ごす日々は長く、何もかも変わってしまうように感じた。現に、三か月ぶりに会った彼女は、三か月前と表情がすっかりと変わっていた。片恋を初めて一年がたったころ、もう二ヶ月くらい彼女に会っていないことにしびれを切らした彼は、アカデーメイアーの師に彼女の消息を聞いてみた。彼女はアカデーメイアーの生徒ではないらしかった。彼は何もできなかったのだ。


 その日のうちに家を飛び出た。家族にも友人にも何も告げずに姿を消すことは、とてもすがすがしかった。彼女への意趣返しのような行動を、他人にとった。彼は汽車に乗って、歌を口ずさんだ。


 適当な駅で降りた彼は、旅人となっていた。気風の旅人である。駅を出てすぐ、小さな村の中央にある丘に大きな桜の木が見えたので、彼の足は勝手にそこへむかった。しっくい壁の家々をぬける。子どもたちが追いかけあい道路を横ぎったので、立ち止まらざるをえなかった。女性が洗濯物の水けをきっていた。少女が壺一杯に腕をつっこみ、漬物をつまんで家の中に入っていった。狭い公園の中で、帽子をかぶる髭の男が楽器を演奏していた。

 丘の上の桜を見あげた。

 丘に足をふみいれた。

 ゆるやかな坂を登って行く。茶色で塗りたくられた太い幹、広がった枝と満開の桜。

 満開の桜の木。その下に少年がいた。

 旅人は彼の横に並んだ。そしてその少年がボロボロと涙をこぼしているのを見た。

「どうしたんだ」

「母さんが死んだんだ」

「そうか」

 少年の頬に、薄桃色の花弁が飛んできて、濡れた涙に乗っかると、そのまま一緒に流れて行った。

 旅人は桜を見あげた。

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