けれども山の水は流れゆく…裏
ガタピシ鳴らして扉を閉めた。
朝早く、白明は森を歩いてみることにした。ここではやる事がないからだ。それは到着して宿の説明を受けすぐに察した。けれども、散歩好きの白明にとって周囲の森はとても魅力的で、経仁という僧に連れられ宿に来るまでも楽しく歩けたし、島全体が森に覆われていると聞いたので、白明は一日目から、来たのとは逆の方向を彷徨してみようと決めていた。
太陽の威圧するとても熱い場所だったけれど、森に入れば涼しかった。木々の営みのお陰である。森の空気というのは、水分が多量に含まれていて、白明は好きだった。多重的な音も好きだった。すべての風に揺れる葉の音は違っていた。それが重なって大きくなって森に満ちている。人の町と違って、どこに足を置いても平らではなく、足首は常に首をかしげて、脚の筋肉の内側の筋肉の線の様なものが、知らないあいだに鍛わりそうだった。
ずいぶん歩いた。心の中では初めての音楽が鳴り続けていた。
とそこに、レコード盤くらいの直径をもった水たまりが現れた。しゃがんで見ると、それは器のように窪んでいたし、それは水たまりではなく下から湧いているのだと分かった。
その水たまりを無視して歩くと、あたりには同じようなのがいくつも出てきた。大きさはたいして変わらないが、多少は大小した。
巨大な樹が現れた。
明らかに一つだけ大きさが違っていた。その木の前に立つと辺りがしんと静かになったような気がした。白明は、その樹を一周してみることにした。
樹の裏側にはモアイがあった。堅い眉を直線に引いて、そこから鼻を降ろす。口は閉じて顔を支えていた。苔がむして、炭色の粗い地肌に覆いかぶさっていた。
「人間ちゃんが来るとは珍しいね」
モアイは大きな口をなめらかに動かして言った。苔がボロボロはがれて落ちた。
「……はい。初めまして」
「驚かないのかい」
「驚きました」
それを聞いて、モアイはニヤリと笑った。少しだけ歯が見えた。
「ひーまー、モアイぃー」
森の中から機嫌の悪そうな険のある声が聞こえてきた。そしてモアイからヴァインという音が聞こえ、モアイは顔をゆがめた。
「妖女がきたよ」
「妖女?」
白明が聞いたと同時に、彼は理解した。モアイの頭のうえに、白い服をきた少女が飛び乗った。裸足だった。彼女はボールを小脇に抱えていた。さっきの音はモアイの頭にボールをぶつける音だったのだろう。
「ひとだ。あそぼ」
と少女。モアイは、そうだよ人だよと言って、白明と目を合わせた。
「遊んであげてくれるかね」
「いいですけど、彼女は?」
「言ったろう。妖女さ。妖女ちゃん」
「名前は? それ?」
「ないの」
妖女は答えた。
そんな彼女の方を必死に表情を動かして見ようとしながら、モアイが彼女に、
「遊んでもらったら?」
というと、少女は白明のほうを見て、「いいの?」と聞いた。
「何が?」
「ちょっと待ってて」彼女はそう言うと奥の方へ消えていった。
「寂しそうにしてたからね、ずっと私が相手していたんだ。でもこの通り、私は動けないだろう。だからできないことも多かったのだよ」
すぐに妖女は帰ってきた。ボールを取りに帰ったのだけれど、さっきモアイに当てるためにこっちまで持ってきていたことを思い出したらしい。妖女は笑いながらそんな報告をした。モアイも笑った。白明はそんな様子を微笑んで見ていた。
「それで遊ぶの?」
「そだよー。来て」
白明は彼女について行った。行ったさきは、森が急に開けて存在する、砂地だった。奥に白い建物も見えた。
「ここボール遊びにピッタリでしょ。そう思ってたの。でもね、やっぱり一人では遊べないから。めっちゃ暇だったの、いままでね」
そう言って彼女は白明にキャッチボールを提案した。
日光の拳に当てられた白い砂はじりじりと熱を持ち、空気を揺らめかした。そのぬちゃぬちゃした夏の空気の中に、白明は気分が悪くなってきた。
「ちょっと休まない?」
「いいよー。あの中入る? 私の行ったことないんだ」
彼女は砂地の先に揺らめく建物を指さした。白明としてはすぐに近くの木蔭にでもはいって休みたいところだったが、彼女はもうすでに入りたそうにしていたので、賛成してそこまで歩いてゆくことにした。
そこは研究施設のようだった。とても埃っぽくってとても中に入る気は起らなかった。けれど、中の空気は冷えに冷え、巨大な冷蔵庫を思わせるほどで、扉を開けておくだけでそこから絶えず涼しい空気が吐き出され、白明はこっちに来て正解だと思った。ただ少々森の空気にはない黴臭さとかが有ったけれど。
幼女はひとりで中に入っていったが、数分も持たず、顔を真っ青にして出てきた。
「空気がゲロい」
と彼女は言った。
「ゲロいってなに」
「ゲロ吐きそうなくらい気持ちが悪いんよ」
「確かにね。……中に何かあった?」
「見てない」
彼女はそう言って鼻をすすった。眼には涙を浮かべていた。白明が大丈夫か聞くと、別に大したことはないと答えたが、ついには涙が柔らかそうな白い頬を伝い、しかもその涙は止まらなくなった。
「どうしちゃったんだろ」
「空気が悪いのかもしれないね。一旦森に帰ろうか」
ふたりは森のモアイのところまで戻った。帰って妖女はモアイに白明と何をして遊んだか、から最後涙が流れたところまで話をした。モアイは黙って聞いた後に、妖女に向かってもう晩ごはんの時間だと告げた。妖女と白明は顔を見合わせた。妖女は宿に晩ごはんを受け取りに行かなくはならなかったし、白明も宿では晩ごはんは全員で食べると聞いていたので帰らなくてはならなかった。ふたりは一緒に宿に向かうことにした。
金色の妖女の髪はとてもきれいさったが、今では汗で湿ってとても重たそうに見えた。妖女は木々の間をすり抜けるように駆けた。
「ねえ、君はみんなと一緒にはご飯を食べないの?」
「みんなで食べてんの?」
「それがこの宿に泊まる決まりだと聞いたけれど。君は違うのかな」
「その宿に泊まってないから。私はいつもまいちゃんからご飯をもらって、モアイのとなりで食べるの」
「寂しくないの」
「誰かがいれば誰かと食べたいけれど、いないからしょうがないよ」
「宿には入らないの?」
「質問ばっかね」
ふたりは宿に到着した。おかみが晩ごはんを用意していた。妖女はそれを受け取って帰る。白明は彼女を見送った。木の陰にはいったとき彼女は振り返った。そして白明に対し、下を向きながら、
「明日も来て」
というのだった。何も予定のあるはずのない白明は、誘いを受けた。
次の日、約束通り白明は妖女のもとへむかった。到着すると妖女はモアイから数歩離れたところに立っていて、白明に示すように地面のある所を指さしていた。
「見て」
と明るい口調で言った。
そこには石の山があった。手のひらサイズの石が三十個ほど、低い山になっていた。これはなにかと白明が聞くと、妖女は今度はモアイを指さした。
「恥ずかしながら」
とモアイが言った。
「どういうこと?」
「これね、こいつの食事なの」
妖女はそう言うと、小石を一つ持ってモアイの方へ抛った。するとモアイの開けた口の中に吸いこまれていった。モアイは美味しそうに咀嚼した。妖女はそれを見て言った。
「でももうあとこんだけしかないの。これだと二日でなくなってしまいそうね。……だからね、集めに行かなきゃいけない」
「わかったよ」
「大変だよ、結構」
ふたりの今日の予定は石集めに決まった。集め、と言ってもそこらを闇雲に探す必要はなくて、二人は妖女の案内で川まで歩いた。そこで手ごろな石を集めて運べばいいのだ。けれども、一度運んだくらいではまたすぐになくなってしまう。ふたりは何往復もしなければならなかった。
ワンピースの裾をつかんで石用のハンモックを作り、そこに石をたくさん入れて運ぶ妖女は、その道中いつも七往復はすると答えた。それでは今日もそれくらいしよう、と白明は提案した。白明の力が加わればいつもの二倍以上は運べて、そうすると妖女は次に石が切れるのを長く待つことができる。という計算だった。
「なるほどねー」
幼女は感心した。
ふたりは川につくとまず石を探す。大きさは何だっていいらしいが、小さすぎると逆に食べられず、大きいのはモアイいわくあまり美味しくないらしかった。熟しすぎているらしい。だからちょうど拳の大きさの石、それがあればそれを集めるのだと言った。
白明はだんだんと背中が鉄板になっていくのを感じた。じりじりと熱が上がり、肌の色までもが熱せられた金属のように赤くなるのだ。鼻の奥に熱の匂いがした。体の中心にある熱された核を取り出して、川の水で冷やしたかった。石を選んではポケットに詰め、入りきらなくなると今度は妖女のように服でハンモックを作りそこに石を入れた。首筋に汗が流れた。こそばゆかった。
半分(四往復)が終わって、妖女は川に飛び込んだ。とても楽しそうに笑った。水の飛沫は妖女の周りで遊んだ。白明は優しい気持ちで笑ってそれを見ていた。
川・モアイ間はとても長かった。その間を七往復もすると、すでに晩ごはんの時間になってしまった。白明は礼を言うモアイに口にいくつか石を投げ入れて、別れを告げると妖女と一緒に宿に向かった。
その夜、夜の散歩を終えた白明が宿に帰って来ると、ちょうどみなみが皿を運んでいるところだった。指の欠けて安定しないみなみの仕事を白明は手伝うことにして、残りの皿を運んだ。その後彼は台所に立ち皿を洗った。洗った皿をみなみに渡すと彼女はそれを並べていった。
「大変そうだね」
スポンジを二度つぶして泡を生成する。水に浸かった皿を取り出して綺麗にすると、あとはみなみが流してくれた。みなみは、
「私?」
と聞いた。
「うん、その指じゃあさ」
「でもしょうがないの」カチャリと少した音。みなみは丁寧にあまり音をたてずに皿を置いていった。「みなみの不注意が悪かったんだから。奥歯もそうなの」
そう言ってみなみはカバのように口を開け、白明に口の奥を見せた。右の奥から二番目の歯が上下ともなかった。
「これは、どうしたの?」
「小石を噛んじゃってね。それで、砂みたいになっちゃった」
「そんな粉々に。どんな力で噛んだのさ」
「ううん。みなみが馬鹿だったの。馬鹿なことしちゃった」
皿も残り少なくなってきたところで、おかみがやってきた。白明と代わろうとするおかみに、もう少しだけなので残りくらいやりますよ、と言った白明だったが、おかみは無言で無理やり白明から仕事を奪った。
それで、白明は部屋に帰った。
煌びやかな日光が、葉の隙間を縫って、地面に曼荼羅に光のアートを作っていた。苔やら小石が時おり光に当てられて、きらきら光った。木蔭になった、大きな灰色の石の台の上で妖女は眠っていた。白明はとなりに腰を下ろしていた。彼はモアイを見つめていた。モアイはさっきから目を瞑って、口をもごもごもごもごさせていた。それのせいで白明はせっかく来たのにやる事がなかった。
ようやくモアイが目を覚ました。
「白明君! あの建物!」
「はい? ああ、砂のところに有ったやつですね」
「そうだ。あれは研究施設なんだ」
「研究施設」
「古い研究施設さ。もうとっくに使われていない」
「それがどうしたんですか」
白明は座ったまま姿勢を変えなかった。そうやって少し距離のあるままモアイと話していた。モアイは一度妖女の方を確認した。まだ小さな吐息を立てて眠っていた。
「研究施設しは研究資料がある。今島の外で不穏な動きを感じたんだが、調べてみるとやはり、この島に乗り込もうとしている。そして目当てはその研究資料だ」
「はあ……それで、それがどうしたんですか」
「見てみたまえ」モアイは仰々しく言った。「わたしはこのようにうごけない。そして研究資料は守った方がいい」
「僕がそれを守れと」
「そうなんだよ、頼めるかな。多分明日、彼らはやってくる、明日朝早くからあの研究施設に行っておいてもらいたいんだ」
「分かりました」
白明はその場で寝ころんだ。同時に涼しい風が吹いた。心の隅にこびりついた古い埃まですべてさらってくれそうだった。とても軽い身体で、白明はそのまま目を瞑った。閉じる目蓋の隙間に、最後に見えたのは、冷たい石の上に横たわる平和な妖女であった。
妖女に揺り起こされた。晩ごはんの時間らしい。
晩ごはんの後、部屋で音楽を聴いていると、ともにこの宿に泊まっているナァファという男が部屋を訪ねてきて、明日みなみを川に連れて行ってやりたいからみなみの代わりにおかみの仕事の手伝いをしてくれないかと頼まれたが、白明は先にモアイに何かの資料を守るよう朝早くから研究施設に向かう約束をしていたのでその頼みは受けることができず、代わりにレイにその役目をしてもらうようにナァファから頼まれ、彼が部屋を出た後白明はレイの部屋を訪れるのだった。
「すみません。レイさん」
「あんた誰?」
レイは入ってきた白明の方を首だけで向いて言った。風呂上がりだった。まだ濡れた黒髪をタオルで折りたたんでいるところだった。
「山中白明といいます」
「うん」
白明は事のいきさつをレイに話した。するとレイはあっさりと承諾してくれた。
「頼まれたんならね、やるよ」
と言った。
白明はこれで落着と、部屋へ戻って風呂に入る準備をするのだった。
朝早く、白明は自分のピストルをカバンから取り出して手入れをし、それだけをもって研究施設へと足を運んだ。
朝の森は静かだった。二、三鳥の鳴き声がするだけで、風の控えめだった所為もあり聞こえるのは土を踏みときおり湿った枝を折る足音と、白明の流麗で大人しい鼻息だけだった。眼に弱弱しい朝日の作る緑の森の映像は美しかった。葉も揺らさない優しい風が首元を通り体温を下げた。また枝を折る音を聞いた。白明は武骨な幹に手をついて、目の前に現れた砂地を見た。以前見た昼の攻撃的な光景とは違って、とても寂しそうに存在していた。研究施設がより一層、その寂びを際立たせていた。
白明は砂地を抜けて研究施設の扉を開けた。冷やこい風が足首を撫でる。準備もなしに暗い場所に目を移したせいでなかなか慣れなかった。白明は初めて中に入っていった。
彼はなかの構造を調べることにした。
おおよそ正方形の建物のこちらに向いた一面の左端に備え付けられた鉄製の押し扉を開けて中に入った。正面は壁で右に廊下が続く。チェス盤のようにしろと黒の正方形のならんだ床、灰色の壁、しみのついた白い天井。中はやはり暗く埃の匂いに満ちていた。角までまっすぐ続く廊下の右の壁には窓一つなく左には三つの扉が有った。三つともなんの装飾もない白い扉だった。一つ目を開けると中は壁に囲まれただけの部屋でさいころの中みたいだったその部屋の中央に枯れた花の一本ささった花瓶が静かに置いて有った。二つ目の部屋も三つ目の部屋もそうだった。左に廊下を折れると今度は扉すらもない無機質極まった景色が待っていた。白明はそこを渡った。次に左に折れると階段だった。今度は階段で一辺を使い切っていた。半分ほど上ったところにCD盤くらいの大きさの小さな窓があった。そこからちろちろと光が漏れいるくらいの薄暗さでそこをのぼると左に折れ廊下が現れその廊下の左を見ると一つだけ扉が有った。
そこは広い研究室だった。拡大されたものから縮小されたものまで様々な機械があった。ジャングルのようにケーブル類が床に絡まり天井から垂れしていた。その片隅に狭い木の机があった。白明はその机の前に立って、銀の取っ手を摘まんで引いてみた。微かな悲鳴をあげながら開いたその抽匣の中には黄色い紙束が入っていた。これだなと白明は見た。ナカイは青いインクで研究内容が記されたいた。
【各少女ノ不可解ナル共通点】
と書きだしてあった。
【壱ツ、細胞ハ兎角ニ不安定ナリ。細胞ガ細胞ヲ生成スルヨウニ観察デキルガ、結果ハ然ニアラズ。細胞ガ細胞ヲ食ウヨウニ観察デキルガ、其レモ事実トハ異ナリ、様々ナ実験・観測・試行錯誤ノ末至ッタ結論ハ、此ノ体ニ於イテ細胞ハ各々ガ別々デアルト云ウコトナリ。団結力ガナク、個々別々ニ存在シタルノニ、我々カラハ一個体ノヨウニ見ユ。不思議千万ナリ。シカシ此レガ事実ナリ。
弐ツ、其ノ見カケノ個体ニトッテ、時間ハ己ヲ縛ルモノデハ無イト云ウコト。彼等ハ我々ノ云ウ歳ヲ取ラナイ。トハ云エ、彼等モ零歳ノ赤子トシテ産マレルノデアッテ、其ノ状態カラハアル程度歳ヲ取ル。唯、約百ヶ月ヲ越エタトコロデ成長ヲ止メル。時ノ流レヲ感ズル精神ヲモ彼等ハ其処デ止ト解シタリ。故ニ数十年生キタル彼等ト云エドモ、其ノ感覚ハ他ノ十ノ7子等ト同ジュウスル筈ナリ。記憶ハ通常人ノ如ク残ル故、百年ノチノイズレ崩壊スルコトガ予測サルル。
参ツ、衝撃ニ弱キコト砂細工ノヨウナリ。彼等ハ異常ニ脆ク、何カ障害物ニブツケル度ニ、其ノ身ヲ欠ケタリ。用心シテ保護スル必要アリ。衝撃ノミナラズ、気圧ノ変化、電流、酸素欠乏ニモ弱ク、過度ナすとれすハ致死ニアタル。時ニ世界ヲ拒ミタルモ習性ナリ。】
雑多な情報のかき集めに目を通していると、耳の遠くでヘリコプターのプロペラの音が聞こえてきた。白明は紙束を机に仕舞って、ピストルを重要そうに握った。
「おつかれさま」
モアイが白明をねぎらった。
白明は近くに来て座った。彼は地面に冷たい石を握っては、熱をもった指を冷やした。石が人肌にぬくもってしまうとまた石を取り換えた。
「彼女がね、拗ねてしまってね」
モアイは唇をつきだして方向を示した。
「こっちの方にある大きな湖のところにいると思うんだ」
「湖? ですか」
「ああ、いや湖といってもね、そこらにある水たまりの少し大きいくらいのものだよ。この地面はよく水を吹き出すんだ。島の機嫌によってね」
「その大きめのところにいるんですね。とりあえずその方角に行けばいいと」
「うう」
とモアイは唇をつきだしながら答えた。白明はその方向に向かって歩き出した。
妖女は水たまりに脚を浸けていた。ワンボックスカーがすっぽり入る幅をもった水たまりは、その透きとおった綺麗な水に、スプーンでえぐり取られたような、苔に覆われた半球の底を露わにしていた。妖女が脚を揺らして透明な波をつくった。波紋は岸の緑に吸い取られた。
「なんで今日いなかったの」
「ああ、それはモアイさんに頼まれて」
「あたしを無視してモアイの方のいう事を聞いた」
妖女は食い気味に言った。水面がパシャリと飛沫をあげた。
「いうことっていうか、半分仕事みたいなもので」
「関係ないよ。私、ずっと寂しかったんだよ。今までずっと」
妖女はうつむいた。
「ごめんね」
白明はたったまま後ろから妖女の背中を眺めていた。妖女は背中を回して白明の方を向いて言った。
「ねえ、はくめい、ずっとここにいてくれる?」
白明は沈黙った。妖女の理解を促す風が吹いて、彼女は白明から目を逸らした。
「ごめんね、ずっとここにいるわけにはいかないんだ」
白明は言った。
ふたりはまた静かになった。
白明は妖女のとなりに歩み寄り、そのそばに腰を下ろした。あぐらをかいて座った。
その夜、晩ごはんを食べ終え、風呂から上がったところで、白明は決定的な瞬間を見た。経仁がみなみを誘い出して宿を出るところだった。以前白明はモアイからこんな話を聞いていた。
「あの経仁という僧に気をつけてくれたまえ」
「なぜですか」
白明は聞いた。
「心の底に狂気を孕んでいる。この島にはふさわしくない。表情で分かる」
「——穏やかそうですけど」
「表情とは肌の一枚奥にある顔の態度のことだ。彼はみなみを自分のものにするために何度もここに来ている。その波の大きさも今や行動に移すにやぶさかではない、と言った色合いを呈している」
「何を言ってるんですか?」
「要するに、いよいよ覚悟を決めたということだ」
経仁について行くことにした。
彼はみなみを手引きして、宿から出ると暗い森の中に呑まれていった。白明は正か邪か見極めるために、彼に気づかれないように少し間を開けてついていった。
枝は経仁を拒んだ。彼の行動はルール違反だった。白明が木の影から彼を見守っていると、誰かが背中を叩いた。妖女だった。
「モアイから伝言」
彼女は言った。
「なに?」
妖女は手招きして白明に近寄らせると、頬にキスをした。
「あの、ふざけてる場合じゃないんだよ」
「ちがうの」妖女は嬉しそうに言った。「ほんとはね」
もう一度手招きして、今度は白明の耳に口を寄せ小声でメッセージを伝えた。
白明は足音を消し、経仁に少しずつ近づいた。目的はみなみだった。太い木の幹が横に生え経仁の行く先をさえぎる。経仁はかがんでそこをくぐった。その瞬間に白明はみなみを奪った。みなみが咄嗟に声をあげようとするのを手で押さえてさえぎる。
「みなみちゃん……大丈夫……?」
ついて来ないみなみを心配して経仁がうしろに声を掛けた。けれどもみなみは白明に取り押さえられているので動けない。
白明のとなりで、葉を踏む足音がした。経仁が様子をうかがうのが分かった。足音は突如走りだし、経仁の横を抜けて前に走り出る。先を越せれた経仁は、「みなみちゃん」といって追いかけた。
白明はみなみの口を押える手を緩めた。
「どうしたんですか」
「ごめんね、手荒な真似をして」
「てあら?」
「乱暴という意味だよ」
白明は説明にこまった。結局、経仁が別の場所で犯罪を犯してここにきた人だという嘘をついた。
「そうだったんだ。……いい人だと思ってたのに」
「いい人だよ。ただ良くない所もあるだけだ。人より目立って、それに人に迷惑をかける、そんな良くない所が」
「私にもあると思う、その両方。いい所と良くない所」
「そりゃもちろん。僕にだってあるよ。……みなみちゃんは何であの宿で働いてるの」
白明は会話のテーマを変えた。嘘から発展した話を長く続けるのは気分が良くなかった。
「うーん。働いてるっていう感覚はないの。みなみ物心ついた時からあそこにいたから。あそこで私が暮らしていくにはお風呂洗いとか、料理の手伝いとかしなきゃいけないの。それでやってる。大変な時もあるけど、みんながいるし、まいちゃんを手伝うのも、楽しいかな。白明さんは? 旅をしてるんでしょ。なんで旅をしてるの?」
「僕は、……ただ、自分から逃げてるんだ。母も弟もいて住むべき場所があったんだけれど、僕はあまり人と深くかかわることができないから、それをしなくていい身分に身を落としてるんだ」
白明はテコテコ進むみなみの足を見て言った。
「落ちてるの?」
みなみが聞いた。
「僕が誰の役に立ってる?」白明は笑う。笑顔とは程遠い色の薄い笑みだった。「誰のために生きてるわけでもない、もちろん自分のためでもない……ただ生きてるだけなんだ。みなみちゃんは、ここから逃げたいと思ったことはないの?」と言って、彼はすぐに「ごめんね、こんなこと聞いて。答えなくてもいいよ」と付け加えた。
「みなみがここからいなくなると、困る人がいるから」みなみはそう言った。「まいちゃんも、エマもケントもそうだし。ここに来るみんなだってそうかも知れない」
「僕も、突然、勝手に出ていったから困った人はいたかもしれない。けれど、僕はあそこにいるのが嫌だったんだ……」
それからふたりは長らく黙って歩いた。
「お母さんとかも困った」
みなみがおそるおそる口を開いた。
「母さんは、どうだろう。何かに困るという人ではなかったから。……そうか、じゃあみなみちゃんはお母さんに会ったことはないんだね」
「でもいたのかな。みなみにもお母さん」
「そうだと思うよ。会いたい?」
「わからない」
白明は、みなみを連れてモアイのもとへと歩いていた。
モアイに会う前に、少し離れたところでみなみを待たせた。みなみは、浮きあがった太い木の根に腰かけた。白明はひとりでモアイに会った。
「いやあ、一日中働いてもらったね。白明君」
モアイは言った。モアイの頭のうえには妖女があぐらをかいていた。
「彼はどうなったんですか」
白明が聞くと、妖女が親指で下にいるモアイをさした。
「こいつが食ったの」
モアイは満面の笑みで歯を見せた。そこにはいくらか血が残っていた。いつか石に変わってこの島に転がる、とモアイは言った。
「みなみちゃんもここに連れてきていいんですか」
白明が聞くと、
「そうしない方がいいね」モアイが答えた。
「そうしない方がいい」妖女も言った。
「じゃあこれでよかったんですね」白明はため息じみた言い方をした。「みなみちゃんは何事もなかったのでよかったです。僕らは部屋に帰りますね、朝早く起きてすっかり眠たいので」
彼はそう言って立ち去った。モアイは再び礼を言ったし、妖女は手を振って彼を見送った。
みなみは足もとにある水たまりを見ていた。それは中心に行くほど深くなる球状でバスケットボールなんかがあればぴったりとおさまりそうだった。けれどもバスケットボールを知らないみなみはお尻が嵌ってしまいそうと思うのだった。地面と同じまで水位のあるそれは、風のない場所に静かに湛えていた。みなみはそんな水たまりを上からのぞいた。みなみの顔が透明にうつった。みなみはいろいろあった今日一日の背負った自分の顔をじっくりとながめた。
薄いまゆ、眠たそうな目(みなみは今、実際に眠たい)頑張ってまゆを上にあげて目を開けてみたが、すぐにとろんとなった。でもいつでもこんな感じかも。黒目が大きく、白い部分をぐっとだすのに苦労した。丸い鼻と下にさがるにつれ膨らんだ頬、小さな赤い口、頬に空気を入れて膨らますと口はよりいっそうしぼんだ。
顔と水面の間に自分の手をだす。指の欠けた手。それを見てると悲しくなった。なくしてしまったのだ。
ある日、みなみは壺を運んでいた。宿泊した女の人からもらった壺だった。それは両手で抱えるといっぱいになるほど大きく、みなみはそれをどうするべきかおかみのところへ持っていて聞こうとした。その最中、壺と壁の間に指を挟んで、指は崩れてしまったのだった。砂みたいになって散った。みなみはびっくりした。こんなことになるとは思わなかった。同時に落としてしまった壺は割れ、その破片が脛からふくらはぎにかけて削っていったが、そこも砂みたいにさらさらと削れて落ちた。それ以来みなみは自分の身を傷浸けないよう細心の注意を払って過ごした。それがいつのことかは分からない。ずいぶん古い記憶のようにも思えるし、それほど遠いとも思えない。今と変わらない背丈であるように思い出せるけど、いつのころかは思い出せなかった。
みなみは手を水面につけた。さっきまでうつっていた顔は波紋に溶けてなくなった。そのまま底にまで手をやるとぬるりとした感触があり、水は泥に混ざって濁ってしまった。
濡れてしまった手をズボンの裾で拭いた。白明が帰ってきた。
「帰ろうか。もう眠たいでしょ」
彼が言った。みなみは首を振った。そして砂浜に海を見に行きたいと言った。
砂浜に到着するとふたりは木の板が並ぶ前に歩いて行った。
「ここから来たんでしょ」
みなみが言った。白明はうんと答えた。みなみが一歩、木の板の上に足をのせた。少し体重をかけるだけで沈んでしまった。
「どうやって歩いたの?」
「普通に歩けたんだけどね」
白明はそう言って木の板に足をのせた。沈んでしまった。それを見てみなみが言った。
「ヘリコプターがなかったら帰れなくなってかもしれないね」
「そうだね」
ふたりはその場から少し離れて、砂の上に並んで座って海を見た。
「私、ここにはあんまり来ないの」
「なんで」
「なんだかね、悲しくなっちゃうの。なんでだろ」
「海は広いからね。みなみちゃんが前にここに来て海を見たのがエマちゃんとケント君と会ったとき?」
「そう」
絶えず波が音をたてた。その度に白明は心がすく思いがした。段々と何も考えられなくなった。気がつくと、隣に座っていたみなみが彼の肩に頭をあずけて眠っていた。彼は動けなくなった。
白明はみなみに起こされた。もうお昼近くなっていた。
「ごめんね、寝ちゃってた」
白明は言って、みなみを連れて宿に帰った。
夕方になって、白明はヘリのある所まで、一緒にここを出ていくというレイとみなみとナァファを連れていった。
森をぬけて砂地に出る。軽い風が砂を数粒吹きあげた。白明はヘリコプターの前まで歩いていき、後ろに並んだ三人にいよいよ乗ることを目配せして知らせ、乗りこんだ。
白明は運転席に移動して席に座った。後ろからナァファが声をかけた。
「運転できるのか?」
「たぶんできます」白明は答えた。「前に一度近くで見たこともあるし」
「それだけか?」
「ええ」
レイも乗った。
白明は以前見たようにスイッチを押した。色々押したりレバーをひいたりどれが正解だったのか分からないが、とにかくプロペラは回りだした。ここまでくればこれから先は操縦できる。
プロペラはズンズン周りを速めていった。白明は計器を眺める。色々数字が書いてあった。
レイが閉まっていた扉を開けた。その奥からみなみの声が聞こえた。けれど内容は分からなかった。
白明もレイも長くみなみのことを見つめていたように思う。白明は見つめ返してくるみなみに頷いた。たぶんみなみも一緒に来たいのだろう。それなら乗せてあげればいい。みなみの意思なら、みなみが自由になるのも自由である。するといよいよ浮きあがってきたヘリコプターにみなみは飛び乗ってきた。白明はヘリコプターの高度を上げた。
そのまま上にあがった時だった。
「おい」
と後ろから肩を叩く手があった。見るとレイだった。
「みなみが」
トレイはうしろを指さした。白明が確認すると、みなみは体中に穴があき、ボロボロと砂になって崩れ出していた。
衝撃ノミナラズ、気圧ノ変化、電流、酸素欠乏ニモ弱ク……
白明は研究室で見た資料を思い出した。あれはみなみの事を書いていたのだ。もっというと、みなみたち、のことだろう。
「みなみちゃん! どうすればいい!」
白明はみなみに聞いた。彼女は首を振るだけだった。両腕は落ちで、顔も半分、崩れていた。みなみは残り少ない頬に涙の線をつけ、白明に笑顔で答えた。
「ありがとう。はくめいさん」
白明は一度高度を下げようとしたが、その間もなくみなみは崩れてしまった。砂になった彼女の体は少し開いたままだった扉からこぼれていった。
「もう行くしかないよ」
レイが低い声で白明に伝えた。白明はヘリコプターで島を出ていくのだった。
目を覚ました。
「気分はどう、みなみちゃん」
「みなみちゃん……」
聞こえた言葉をつぶやきながら声のほうを見ると、大きなモアイがあった。
「君は実体を取り戻したんだよ」
喋っていたのはモアイだった。
「実体?」
みなみが訊ねた。体を見ると白い服を身にまとい、足ははだしだった。
「そうだよ。もうみなみちゃんは、なにかにぶつかっても体が砂になることはないし、たぶん今の君ならあの橋だって渡れる」
みなみは自分の手を見た。指がちゃんと十本あった。舌で確かめてみると奥歯もちゃんとあった。みなみは聞いた。
「橋って、あの木の板の橋?」
「そう。木の板の橋」
みなみは走りだした。途中木の根に足をかけて転んでしまったが、膝を擦りむいただけでなんともなかった。
みなみは胸いっぱいに息をした。嬉しさが喉いっぱいになって、叫びたくなった。けれどその前にみなみは海を見たかった。
砂浜。みなみは橋の前まで来た。波が足を濡らした。みなみの胸はドコンドコンと高鳴った。耳にまでその音は届くのだった。風が吹く。いつもとは違う風だった。みなみはいよいよ、木の板の橋に足をのせた。
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