けれども山の水は流れゆく…表
ナァファは
彼は宿の玄関から入ってすぐの広間——十二畳ほどの広さのそこには座敷テーブルが中央に置かれ、右の壁に吸いこまれる廊下は、その先が風呂場に通じている。左の両扉を開けると食堂で、それも無視して広間を奥まで歩くと幅の広い螺旋階段があって、それをのぼると用意された部屋がいくつか見える廊下に出る。——の壁際に腰を下ろしていた。それで少女と子どもたちを眺めていたのだ。彼のほかには、子どもたちのそばに女が一人寝ていた。今広間にはそれだけの人がいた。
ここにいたるまで、今日は昼前におきて、お米とみそ汁と漬物だけの食事をして、また部屋に戻り集中できないままに本を開いて眺めたり、窓の外を見たり、廊下に寝ころんでみたり、結局広間にいて時間をつぶすことにして、隅っこに座った。それでもう夕方の四時になってしまっていた。
がしゃがしゃ音を鳴らして引き戸をあけて、少年が入ってきた。彼は確か山中といった。彼は三日前に陰気な僧と一緒にここに来た。散歩が好きらしくいつも出歩いていた。彼も入ってきてすぐ少女たちの方に目を取られた。
「じゃあねぇ。みっつのおはじきに、もうよっつ、持ってきたらどう?」
いちばん大きな(恐らく十歳くらい)少女が言った。彼女は名をみなみといった。彼女のほかには、彼女より幼い女の子と、もっと幼い男の子がいた。
「なな!」
女の子が答えた。するとみなみは嬉しそうにした。
「そう。じゃあエマちゃん、紙に書いて。さんたすよんはなな……ケントも、紙に書くの」
ケントと呼ばれた男の子は、座っているだけで精いっぱいである。
「……なぁな」
と、教えられた言葉を口にしてみる。
「ケント、まず
エマは待ちきれない様子で「お姉ちゃん、次の問題っ」とせかすけれども、みなみはそれどころではなく、指の不器用なケントに筆を持たそうと必死であった。
「ケント、書いて。さんたすよんはなな」
「……そんな赤ちゃんに数の問題は難しいんじゃないかな」
寝ていると思われた女が言った。みなみは悔しそうな表情でその女のほうを見た。女はまた口を閉ざして眠りについた。
今度は、のろのろと中に入ってきた山中がみなみに話した。
「なにもそんなに頑張って勉強させなくてもいいんじゃないかな。ゆっくりやればいいと思うけど」
みなみは少し悩んで、明るい顔つきになってうなずくと、「じゃあ、あとは白明おにいちゃんにまかせる」と言って立ち上がった。そして「みなみはお風呂を掃除しなきゃ」と言って走って行った。
ナァファはそんな光景を、ただ見ていたのでった。
彼は今、トキの本土の南端、文化岬から先の見えないほど延々と続く木の橋の渡った先に有る、島の宿に来ていた。…あの木の橋は渡ることができない。橋と呼ばれるが実際は木の板が並んで浮いているのみで、一歩乗せるだけで沈んでしまう。けれども誰も手をつけず、そこにそのままあり続けた。ナァファはその横を、小舟をこいで進んだ。…その時になって初めて板が途切れず続いていることを知った。そしてその先に島が有ることも。
島の周りを船で廻ってみると、どの方向から見ても見えるのは、南国の料理の味付けみたく濃い色合いをした森の木々だけであって、上陸できるのは橋の到着点、そこだけが幅二百メートルくらいの砂浜になっていた。
思い出したように風が吹く。静かな場所だった。
ナァファは、その砂時計を割ってできたような白い砂浜に舟を揚げて、初めてその地に足をつけた。砂場は、彼の体重にギシリと沈む。歩くたびに小さく飛沫(しぶき)をあげた。眼の裏が痛む。太陽が照っているのだ。一時、小さな雲が太陽の前を通ったときだけ、同時に風が吹いて、見事に涼しい空気に入れ替えられ、眼の痺れが和(やわ)らいだ。けれどそれだけだった。
替えの一着の服と、裁縫道具と、釣り糸と釣り針、ナイフ、水を溜めるための空のペットボトル、あとは本が一冊入ったナップザックを右肩に掛けて、彼は森に足を踏み入れた。地上に浮きあがった、骨のような木の根を踏みしめた。それと同時に、彼は陽に当たらない冷たい酸素を吸った。目的はなかったが、彼は森の中心に押し入ることにした。
その先で見つけたのが、名のない宿であった。
夕食の時間になった。この宿では夕食はここにいる全員で食べることが決まっている。六時半には、全員食堂に集まってなくてはならないのだ。
この宿に住んでいるのは全員で四人である。まずはおかみ。彼女は盲人であるにもかかわらず、料理から洗濯、掃除まで様々な仕事をこなす。が、口を開くことはめったにない。時に言葉を発することが有るが、それはすべてみなみに対してであった。よって何かを人に頼んでいる風な時は、そこにみなみがいないときはその時にいる誰かが手伝ってあげたりするのだが、おかみはその人をもみなみとして接するのだ。彼女にとってこの世界はみなみしかいないのかもしれない。
ここに住んでる残りの三人は子どもたち。つまりみなみと、エマとケントである。
みなみはいつからここにいるのか分からない。けれどもエマとケントは分かっていて、およそ一年前のある日、みなみが森をぬけて砂浜まで海を見に行ったときに、そこに籠を引きずるエマと、その籠の中に入ったケントに出会ったのだった。みなみが海を見に行くことなんて、一年に数回有る程度なので、とても幸運な偶然だった。それでふたりはみなみに連れられ宿で暮らすことになったのだ。
ケントはまだ一歳くらいで座るのがやっと。何もできない。けれどとても静かで、みなみが生れない赤子の面倒を見るのもあまり苦労しなかったほどだ。今でもおとなしくしている。
エマは六歳で、初めて見た人なら全員じっくり一時間は見ていたくなる美しさだった。カッターで切り取ったように目の線がくっきりしていて、そのうえの眉は薄い茶色でひかえめについていた。鼻も口も小づくりで、全体的に手のひらサイズの精緻な人形を思わせる繊細なつくりだった。なめくじのような曲線の柔らかい体に細い手足がついていた。普段は小さな声しか出さないし、動きも鈍感な牛のように静かだが、みなみと二人でいるときだけはその無垢な手足も表情も活発に動かす子だった。
ちなみにみなみも可愛かった。それはエマとは違った可愛いさで、ぷくっと膨れた顔や口、ぱっちりとしためからは、いじわるな妖精を思わせるけれど、その目の奥からは人の善意だけを見る輝きを見つけられた。十歳になるであろう彼女は、まだそんな歳だのにもかかわらずせかせかと働いた。おかみの手伝いをするのだった。
今ここに泊まっているのも四人だった。
ナァファはもうずいぶん長い間ここにいる。
彼はトキの首都ハイスで働いていたが、働いてお金を稼ぐと、そのお金で暮らしてまた毎日働く。出勤意外にやる事とといってなく、生きるために働いているのか、働くために生きているのか分からなくなった彼は、だんだんと自分が昆虫になっていくような気がして、一週間の長い有休をとり、学生時代の趣味だった舟に乗って、海を流れてみることにした。そこで選んだ文化岬で彼は渡れない橋を進んでみることを思いつき、行きついたこの宿で、暮らしてゆくうちに時間を忘れてしまったのだった。もう会社には一か月近く行ってないように思う。甲虫のように硬くなっていた皮膚が、もうすっかり人のように柔らかくなっているのを感じた。けれども、彼はときおり、心の底にまだ硬い破片が残っており、それが心臓から血管に流れるときにつっかえるのを感じることがあった。その度に汚い黒い溶液を吐きそうになった。彼は他の宿泊客をうらやましく思った。彼らは、何も抱えてなさそうで、体内の清潔なまま自由な生き方をしているようだった。
その筆頭がレイという女だった。
彼女はいつからいたのか分からない。いつの間にかいたし、もしかするとナァファが来る前からいたのかもしれない。肩につくあたりで髪を切って、いつも浴衣をだらしなく着る女だった。
この女のすることといえば、寝ることだけだった。いつも部屋で寝ていて、昼頃に広間に来て寝ころぶのだ。もしかしたら本当に寝ているのはナァファが見ている広間にいるときで、部屋にいるときはひとりで何かしているのかもしれないと思い、ナァファは一度彼女が部屋にいるときに静かに戸を開けてみたことがあったが、やはり寝ていた。彼女は寝るか食べるか、ときおりみなみの面倒を見ることくらいのほか、何もやらないのだ。
もう一人少年がいて、山中白明といった。
彼に対しては大した印象はないが、彼を引き連れてやってきた経(きょう)仁(じん)という僧は興味深かった。というのも、今まで何度もここに来たことが有るらしく、その方法というのが、あの木の橋を歩いてくるのだそうだ。齢六十を過ぎたであろう痩せた老人であるが、みなみと仲がよく、彼女からも信頼されている風であった。
八人が食堂に集まった。
畳座敷の広い部屋に、三人、二人、三人とコの字になって座った。
ナァファは一番端、右にみなみとそのとなりにケント、そして角を折れてエマと経仁、再び折れて、レイ、山中、おかみがナァファの向かいに座った。食事はご飯とみそ汁、だし巻き、漬物、焼き魚に煮物だった。煮物はレンコンやニンジン、がんもどきが入っていた。
ナァファは箸で割ったがんもどきのかけらをつまんで口に運ぶ。そのささやかな味付けで、お米を進めた。
ケントにだけおかゆが用意されたいた。みなみがそれを掬って、ケントの口にまで持ってゆくのだ。いつも彼女はそうだった。そうやってケントの食事を終わらせてから、すっかり冷めた自分の料理に手をつけるのだ。
ナァファはそんなみなみを見て、思わず声を掛けた。
「みなみちゃん、えらいね」
みなみはナァファの方を振り返った。そんな彼女に、ナァファはつづけた。
「いいや、そうやって小さい子の面倒を見たり、おかみさんを手伝ったりさ。色々と頑張ってるなあと思って」
するとみなみが答えた。
「だけれどね、ずっとみなみはこうやってるから。……やりたくないことも有るけど」
といって笑うのだった。そしてまたケントの口におかゆを運んだ。あと半分ほど残っていた。
「みなみちゃんのやりたいこととかないの?」
ナァファが訊ねると、みなみはケントのおかゆの入った器をおいて、あごに手をやり「うーん……」と考えた。
「うーん……わかんない」と恥じらいと笑みを含んで言った。そしてまたすぐに思案顔になって、「でも、まいちゃんの仕事は完璧にできるようになりたい。まだみなみにはできないことも多いから」
まいちゃんとはおかみのことだ。彼女はおかみのことをまいちゃんと呼ぶのだった。
ようやくみなみが食べ終わったころ、そのときには全員もう食べ終わっていて、山中や経仁は部屋にかえっていたし、エマとケントもおかみに風呂に入れられていた。レイはその座敷で食べ終えてすぐ座布団を枕にして寝て、そのままだった。みなみは全員分の食べ終わった食器をかちゃかちゃ積み上げて台所まで運んだ。みなみが食べ終わるまで見守っていたナァファもそれを手伝った。
台所は広間の螺旋階段の右に有る扉、そこを開けると三段降りる階段とその先に暗い廊下が有る。廊下には右に二つ左に一つ部屋があった。台所はその一番手前の右の部屋がそうだった。その入り口にだけ扉がついておらず、近づいただけで流しなんかが見えてナァファはそこが台所だと知れた。
扉を開けるとみなみは廊下の電気をつけた。それでも廊下は薄暗かった。ふたりは台所まで食器を運んだ。全部の食器を運ぶには二往復しなくてはならなかった。
ナァファはみなみの指を見た。実際は見なかったのだ。というのは、みなみには左手の薬指と小指が欠けていて、なかった。初めてこの宿を訪れ、みなみを見たときからナァファはその指を痛々しく見たが、触れることはできなかった。それは生まれつきかも知れなかったし、何かあったのかもしれなかった。ナァファはそこから目をそらして、次の皿を運びに戻った。
運び終わると、丁度おかみがやってきて、みなみに次の仕事を与えた。ナァファは風呂に入ることにした。一度部屋に帰ってもう一着有る替えの浴衣と下着を取って、彼は風呂場に向かうのだった。
浴室の湿った木の扉をあけた。雲の中みたいに白い景色だった。風呂場はそれほど広いわけではなく、浴槽は七、八人がゆったりは入れる程度で、シャワー付きの洗い場は三か所あった。
ナァファは石鹸で体を洗ってから、湯船につかった。さして癒すほど疲れていない身体は、湯に軽く浮かんで、そんなナァファの肌を、湯はピリピリとつついた。浴槽の壁にもたれて、一つだけ有る結露した窓の、線をひいて落ちる水滴を眺めながら、ナァファはある光景を思い出した。
鍵はみなみだった。今日はみなみと一緒に食器を片付けたナァファだったが、彼があのようにみなみと直接に接したのはここに来て初めてだった。いつもなら遠巻きから見守る程度だったのだ。そしてそうした直接の体験が、彼にある光景を思い出だすきっかけを作ったのだ。
その光景とはこうだった。
彼は中学生だった。そして恋をしていた。
相手は同級生の女の子だった。名前は忘れてしまっていた。ずっと憶えていたはずなのに、この時になって初めてナァファは彼女の名前が思い出せなくなってることを知った。思い出そうとすると、どれだけ走っても足が滑る砂の上で必死に彼女の影に向かっている、そんな気がした。
彼女とは、中学の二年で初めて同じクラスになって、彼はその時に一目惚れし、それ以来思い続けていたのだった。
最初の一年間は、彼女に別の彼氏がいた。隣のクラスの水泳部の少年だった。水泳部の彼と彼女は小学校のときからずっと一緒で、仲がよいらしく、実際彼女は、昼休みになるたびに彼に会いにクラスを出ていった。
ナァファはそんな彼女を見ることしかできなかった。話しかけることなど到底無理だった。それでなくても、ナァファは、クラスの中では地味な色を与えられて、その子以外の他の女子とも話す事なんてめったにない、同じような境遇の男子としかかかわらない人類だったのだ。
けれども、学年が終わりに近づいて、彼女は彼氏と別れたらしかった。理由は分からなかった。が、そういう噂が流れてきて、事実彼女は昼休みになっても隣のクラスに行くことが無くなった。来年も同じクラスになったら、絶対に話しかけよう。彼はそう心に誓ったのだった。
そして幸いなことに、三年になって彼は彼女と同じクラスになった。
しかし、誓い通りにはならなかった。彼は勇気を出して彼女に話しかけに行くことができなかったのだ。彼氏がいなくなったとはいえ、ナァファの地味さが晴れるわけでもなかったし、彼女は女子友達とずっと一緒にいて、いつ声を掛ければいいのかも全く分からなかった。また一年、彼は眺めるだけで耐える恋愛をしなくてはならなかった。そして彼は、それに満足するようになっていった。
一度だけ彼女と話すことがあった。それはある昼休みのことだった。
彼は弁当を食べ終わった後、三、四限目にあった家庭科の授業の提出すべきプリントを、机に座って書いていた。稀にない好天気に胸も軽い日だった。教室は明るい日差しであふれた。教室の窓は開け放して、吹き込む風にカーテンが怪物みたいに膨らんでは、崩壊して縮み、また膨らんだ。他の男子は校庭にフットボールをしに出ていった。そうでない生徒もどこかへ行っていた。教室にいるのは、数人の女子とナァファだけだった。
その子は家庭科係で、その日の家庭科のプリントを回収し、教師のもとへ持って行かなくてはならなかった。
それで教室へ残らざるをえなくなったのだ。授業中に書き切れなかったナァファを待つために。彼女は友達と一つの机を囲んでしゃべっていた。窓から入って教室を抜け廊下に流れて行く風が、机の上に置いて有るノートはプリントを羽ばたかせた。その度に、風は、焦りと窮屈さに汗ばんだナァファの首筋に、涼しさをもたらすのだった。彼は、雑に消されたマダラ模様の黒板から目を離した。
ナァファは、最後の欄を見た。「次の目標」を書けばよい。指をどかすと、そこにも汗をかき、紙はふやけていた。それを見つけたときだった。
「できた?」
とても清廉な鈴のような声が上から降ってきた。仰ぎ見ると、それがその子だったのだ。
ナァファの記憶には、その子はその子自身の陰になって、薄暗く見えた。けれど、笑顔に三日月形になった綺麗な目はしっかりと思い出せるのだった。
「……まだ、あと最後のところ」
ナァファはそれだけのセリフを、つまって、どもりながらなんとか言った。すると彼女は、フン、と答えてまた友達のもとへ帰った。ナァファはより一層汗をかいたのを、より一層にじましたプリントを見て気づくのだった。
ナァファは風呂から上がり、浴衣を着て廊下を歩いた。そして広間を通る時に、おかみの声が聞こえた。
「じゃから、ちゃうと言っとるじゃろ」
どこから聞こえてくるのでもなく、その声は広間に満ちるようで、恐らく螺旋階段横の扉の先の廊下に有るどこかの部屋にいるのだろうが、そんな感じもしないで不思議な感覚だった。
「でも……みなみは……」
みなみの声も聞こえた。その声にナァファは心臓が止まるようだった。一度収縮して、次の鼓動で熱い血を流す。いるんだ。ととても安心したようになった。
「でもも何も、あんたのやり方が間違っとるから言っとる」
どんな様子か気になったけれど、見に行くことも出来ないので、ナァファはその行く末に耳を澄ましながらゆっくりと階段を上がった。けれどそれ以降は聞こえなくなってしまった。
「助けに行けたらなあ」
と、ナァファは小声で呟いてみるのだった。
部屋に入って、布団を敷き、机に数個用意された茶菓子を食べるために、お茶をつくるためのお湯を沸かしていると、扉を叩く音がした。
どうぞ。と答えると、「失礼」と言って経仁が入ってきた。
「丁度よかった。お茶を沸かしてるところだったんです」
「そりゃどうも」
僧はゆっくりと腰を下ろした。そしてそのまま黙って座っていた。ナァファが沸かし終えた湯を急須に入れお茶をつくり、それを二人分湯呑についで片方を経仁に渡すと、彼はやっと口を開いた。
「釣りが好きだろう」
「……私ですか?」
「いいや、あの子じゃ」
経仁はお茶に口をつけた。その間にナァファもお茶を口にふくんでから、彼に尋ねた。
「あの子って、みなみちゃん? ……釣りが好きなんだ」
「そうじゃ。連れて行ってやったらどうじゃ」
「そうします」
「じゃが」
と経仁は食い気味に言った。そして、茶菓子を取って、武骨な指さきで妙に器用に包装紙をはがしていった。そして出てきた茶色い木の雫のようなそれを、また器用に半分に割って、口にいれた。色のない、薄いくちびるを揺らして咀嚼すると、お茶と一緒にそれを飲み込んで、ようやく言葉を続けた。
「あの子は忙しい。連れて行くことはできない」
ナァファは首をかしげた。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
すると経仁が答えた。
「そのために、私はいつも若い者を連れてくる」
「はあ」ナァファは山中の顔を思い浮かべた。「あの山中という少年ですね。彼に代わりに働いてもらうように頼む、ということですか」
経仁は残り半分も口にした。そして空になった湯呑に半分ほどお茶を注ぐと、それを飲み干して部屋を出ていった。
ナァファもひとつ茶菓子をあけ、お茶と一緒に食べた。そして部屋を出て山中の部屋へ向かった。
山中という少年の部屋は「ユズリハ」といった。二つとなりだ。ナァファは扉を指でたたいて中に入った。彼はなかでヘッドホンをつけて音楽を聴いていた。何を聞いているのかと尋ねると、分からないと答えた。
分からないとはどういう事だろう。
ともかくも、ナァファはさっそく本題から切り出すことにした。虚心坦懐に話した。彼女を釣りに連れて行きたい旨、だから仕事を代わりにやってほしいと。しかし彼は断った。まったく予想していなかったので、ナァファは少し頭に来たのだった。
「僕はちょっと……明日はやる事が有るので」
「こんなところに来て、やる事っていったい何だい?」
ナァファは舟に乗って初めてこの島を目にしたときのことを思い出した。森しかないのだ。
「こちらの事情なので……あのう、もしよければ、レイさんに頼んでみることも出来ますけど」
「レイ? あの女か? 寝てばっかりいるじゃないか。あの子の代わりに働いたりはできないだろう」
「それは分かりませんが……」
「まあいい、頼んだ。あの子が束の間でも仕事から解放されればいいんだ」
ナァファはとりあえず約束を取り付けて、自分の部屋に戻った。
そして彼は、部屋に帰って、自分が持ってきた少ない荷物のうちのひとつ、釣り糸が、すっかり切れてしまっているのを見つけたのだった。
朝になった。
山中から頼んでくれたらしく、レイがみなみの代わりをすることになった。ナァファは礼を言った。
今日は仕事を休んでいいよ、とナァファはみなみに伝えた。なぜなのかとハムスターみたく顔を傾けて不思議がるみなみを、川に行こうとナァファが誘うと、
「ほんと? いいの?」
「ほんとはね、釣りをしようと思ったんだ。だけれどね、僕の持っていた釣り糸が切れてしまっていて、今日は川に行くくらいしかできないけれど、それでもいいかな」
「うん。いいの。みなみね銛突きできるから」
「もりつき?」
「うん。銛で突くの」
銛突き、というものをナァファは知らなかったが、それでも特に知ろうとも考えようともせずにみなみを連れて宿を出た。
太陽の強い日だった。真夏日。島の頂上に有る宿なので、外に出るとなだらかにくだる森の影が深くなっていくのが見える。ナァファは外に出て、みなみを待った。みなみは銛を取りに行くと言って、どこかにある倉庫に向かった。
待つあいだ、遠くを眺めた。海のむこうに有る入道雲に目が染みた。日差しが頭頂部に当たって焼けそうだったので、すぐに三歩後ろに下がって廂の下についた。特に涼しくはなかった。直射日光のないだけだった。でも、それが防げるだけでも目も、頭皮も楽になった。なかなか風も吹かず、熱い空気の停滞するなか、腰をおろせる何かを探して少し先に丁度いい大きさの石を見つけたナァファは、日陰から出て座るか、その場にいるか迷って、結果、日陰にいたまま地面に腰を下ろした。
ガタピシと扉の閉まる音がして、みなみがやってきた。手には長い槍みたようなものを持っていた。
「それが銛?」
「そうです」
みなみは神妙に頷いた。
そしてふたりは川に向かった。ナァファがこの島に到着した日、宿に辿りつく前に見つけて、一度立ち寄ったところに向かった。ナァファはその時に、そこが釣りにとても適しているところである事を発見したのだ。意気込んで一度釣りを試みたが、そのときは一匹たりとも釣ることができなかった。けれど魚はいくらでも水面ごしに見ることができた。
川に到着すると、みなみはズボンのすそを折りたたんで、はだしになって川に踏み入った。ひたひたと泡を立てないで川を歩いていくと、中間で止まり、その場に仁王立ちした。両手に銛をつかんで、ぐっと足もとを睨む。昼間の宇宙のように透明な川の水はケラケラ笑って白いみなみの脛に当たって、別れて、合流して流れゆく。ナァファは岸からみなみを見守った。
みなみは真剣なまなざしで水を見る。じっと下を向いていた。舞台に立ったような気迫だった。けれど静かだった。
流れる一つの雲が太陽を隠して、二人のうえに影を落とし、またどこかに行く間みなみはそうやってじっとしていたが、ナァファの集中力も切れてきた頃、急に握った銛を下に突きさした。まばたきをする間に起ったその行動に、ナァファは気づかないほどだった。彼は立ち上がって川べりまで歩き、
「どうだった?」
と訊ねた。みなみはナァファの方も見ず、強く唇を結んで首を振るだけだった。また数分間、ナァファはみなみが動くのを座って待った。
途中、頭上にタパタパタパタパとヘリコプターが飛んで行くのを見た。みなみは気づいていないようだったが、ナァファは不思議に思った。けれどそれを深く考えるまえにヘリコプターは過ぎた。この先に行くところなんかあるのだろうか。
四度目の挑戦でみなみはフリーズした。ナァファは立ち上がって様子を見る。するとみなみは器用に銛を裏返して、先に刺さった魚を水面に出した。
「すごい!」
ナァファは思わず叫んだ。するとみなみも、
「すごーい」
と平板に言って、だんだんと表情をにやけさせた。そして、
「前はねぇー、」と顔にしわを寄せて悔しがって言った。「もっと上手にできたんだけど。みなみ最近やってなかったから」そして笑った。
ナァファは火をおこした。そして消えないよう枝を組んだ。みなみが捕まえた魚は、ナイフで腹を切りはらわたを取り出して、口から鉄棒を刺してS字に曲げた体に貫通させた。
正午を少しすぎていた。ナァファは焼き上がった魚をみなみに渡した。みなみは慎重に魚に齧りついた。そして熱い身を口の中で踊らせた。半分食べた後に渡された魚を、ナァファは神経質に綺麗に食べきった。そして、みなみに少しあたりを散策してから帰ろうと提案した。みなみは頷いた。
夕暮が来る前、空の青が地味になってきた頃に二人は宿に帰った。
この日も全員で夕食を食べた。ナァファのとなりは山中になり、その先にレイとみなみが隣同士で座った。みなみは今日あったことを楽しげにレイに語った。レイはさして表情も変えずに相槌を打ち、「よかったんじゃない、休めて」とあくびをしながらみなみに言った。
食事を終えると、おのおの部屋に帰ったが、子どもたちがそこに残った。三人はそのまま広間に移動して、みなみに本を読んでもらった。みなみは歯切れのいい声で文章を追った。ナァファも広間に座ってそんなみなみを見るのだった。
突然みなみがナァファのほうを見た。ふたりは目が合った。そして長らく見つめ合った。ナァファはみなみに見つめられて戸惑ったが、意識が脳の中を走り回って、あることに思い至った。二秒間のことだった。
「漢字が読めないのかい?」
「うん」
ナァファはみなみのところまで行って、後ろから本をのぞき込んで漢字を教えてやった。みなみはすぐに読み続けた。けれども一、二頁ごとに読めない字にぶつかって、その度毎にナァファに教えてもらった。だからナァファは、それからもそこを離れることができず、エマとケントが満足するまでみなみが音読するのを手伝うのだった。
日が変わって、ナァファは遅くに目を覚ました。彼は眠気まなこに朝食を食べようと食堂へ行った。いつもと同じ、質素な朝ごはんだった。ちんたらそれを食べ、彼は風呂場へ行き身体を流すと、また部屋に帰った。特にすることといってなかった。
少しして扉のむこうから、
「しつれいします」
という幼い声が聞こえて、それがエマの声だと認識すると、ナァファは、どうぞと言った。エマは扉を静かに開けて、
「ナァファさん。みなみを知らないですか」
と聞いた。
確かに見なかった。と彼は思った。
聞くと、朝からみなみがいないという事だった。他にいないのは山中はいつも朝から散歩に出かけるのでいないが、経仁もそうらしかった。
「みんなで出かけたんじゃないかな。すぐに帰って来るんじゃない?」
「けれど、まいちゃんがずっとみなみを呼んでて、ナァファさんのときはちゃんとレイさんが手伝ってたのに、誰も手伝っていないから」
「おかしいな」
おかみにはみなみが必要で、連れ出すときには身代わりを用意するべきであることは前日にナァファがやってみたことなのに、しかもそれは経仁から提案されたことだった。彼がみなみを連れ出すのに、おかみをひとりにするわけがない。
「とりあえず僕が手伝いに行くよ。ケント君は?」
「したにいます」
「ケント君の面倒を見てやっててくれないかな」
エマはぐっと気合を入れて頷いた。ナァファは、エマがよくみなみに文句を言っているのを聞いていてわがままな子だと思っていたが、意外にしっかりした子だと認識を改めた。
彼はおかみのところに走った。そして到着してすぐ、かれは風呂掃除を言いつけられた。
昼をすぎて、山中がみなみを連れて帰ってきた。
「どこに行っていたんだ」
ナァファが聞くと、山中は何食わぬ顔で、
「森を歩いていただけです」
と答えた。
「あの僧は? 一緒じゃなかったのか」
「知らないですね」
「なにかの当てつけか。俺はずっと仕事をしなくちゃならなかった。あの女も起きないしさ。別にいいんだけどね」
「すみません」
そんな二人を見て、みなみが、
「私が、連れて行ってッて頼んだの」と口をはさんだ。「みなみ、もう一回森を歩いて、行ってみたいところあったから」
みなみが帰ってきたのを知って、エマが駆け寄ってみなみに抱きついた。みなみもそれを受け止めた。けれども彼女はどこか寂しそうな表情を浮かべるのだった。なにか考え事をしているようだった。
少し遅くなったが昼食を食べることになった。もうすでに食べたエマとケントは外で遊んでいた。食堂には、だから五人。ナァファとおかみとみなみと山中とレイが集まった。
今日はおかみとナァファが作った昼食である。彼は生姜焼きをつくったのだが、出来は悪くなかった。
食事もある程度進んだところで山中が突然、
「今日の夕方、ここを出ようと思います」
と言った。
誰も何も言わなかった。彼はひとりで続けた。
「経仁さんは……ここで話しておくと、彼はいなくなりました。それで僕は帰る方法を失ったわけですけれど、代わりにヘリコプターを見つけまして。皆さんも最近空を飛んでいるのを見たと思います。僕はそれを使って帰ることにします」
山中が言い終わると、それを聞いたレイが、今度は口を開いた。
「じゃあ、私もそれに乗ろっかな。乗れる?」
「大丈夫だと思います」
「じゃあ、乗る。……あたし、どうやってここを出るか知らなかったんだ」
彼女はそう言って、最後に一口豚肉を食べ、食事を終えた。そしていつも通りに寝ころんだ。
夕方になって、ナァファは山中が乗るというヘリがあるところまで、彼について行って見に行った。レイはもちろん、みなみもついてきた。みなみはとても緊張した面持ちだった。足元をしっかり確認しながら、用心深く木の根を踏みしめて歩いた。
四人はナァファがみなみを連れて川に行ったのとは逆のほう、宿の背の方角に歩いた。すると、海の見える崖まで延々続くかと思われた木々が突然ひらいた。そこは広い砂の地だった。夕陽が斜めに降り注ぐ。薄く朱に染まった空が、木の陰を長くのばす。その先に山中の言うヘリコプターが落ちていた。その向こうには、四角く白い建物があるのも小さく見えた。
「これ?」
レイが言った。山中は、うん、とだけ答える。そして彼は、一度他の三人の顔色を窺うと、そのまま何も言わずヘリコプターに乗り込んだ。彼は操縦席に座った。ナァファは気になって訊ねた。高く顔をあげて声を張った。
「運転できるのか?」
「たぶんできます」白明はほぼ聞き取れないほどの小さな声で答えた。「前に一度近くで見たこともあるし」
「それだけか?」
「ええ」
レイも乗り込んだ。ガラス窓の奥で山中がスイッチを操作し、ゆるくプロペラが回り始めた。ナァファは、みなみのとなりに立ってそれを眺めたが、プロペラが早まるにつれて危険に思い一歩ずつ後ろに下がった。そしてみなみの方を見ると、ナァファと違って彼女は一歩も下がらず、腕の先で拳をかたく握って立っていた。そして彼女は、何を思ったのか一歩前に歩み出て、大声で言った。
「みなみも連れてって」
レイが閉まっていた扉を開けた。みなみはそこに向かって声を投げ入れた。
「みなみにもお母さんがいるんでしょ」
高い機械音と、低い機動音が混ざる。足元の砂はプロペラの風に弾かれて、その身を逃がした。
レイも山中も何も言わず彼女のことを見つめかえすだけだったが、ヘリコプターの下にぶつける風がいよいよ強くなってきて、みなみも立つのがやっとになった時レイが手を伸ばした。みなみは駆けて、その手を両手で握った。そして中に乗り込んだ。ヘリはそのまま上昇した。分厚い音の層と一緒に、ナァファの真上でいくらか止まっていたが、すぐにどこかへ方向を決めたらしく、空中を渡った。ナァファの上から砂が降りそそいだ。彼はそれを、蛍を受け取るように両手で器を作って、少しだけ受け取ることができた。それ以外に出来ることは何もなかった。
彼は部屋に帰って、砂を瓶に入れた。
彼はおかみにみなみが島を出ていったことを伝えた。おかみは「そうかい」とだけ言って、畳みかけていたみなみの浴衣をそこに置いた。そしてナァファにエマを呼んでくるよう頼んだ。
ナァファはエマをおかみのところに連れて行き、自分は部屋に戻った。
そしてこれからのことを考えるのだった。
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