反抗と希望のschneit
「今日はここまでかな」
エクラはドリルを置いて、背伸びをした。
「お疲れ様です」
後ろから女の子がホットココアを渡した。ありがとう、というエクラの息は白く濁る。冬の午後四時である今、エクラは本棚づくりの作業を一旦終えた。恐らく、明日の作業で完成させる事ができるだろう。エクラは女の子にそう言って飲み干したココアのカップを返すと、手を振ってその場から離れた。エクラは、早く帰ってホテルの風呂にゆっくり浸かって体を温めたいと思った。ホテルまでは歩いて帰れる。
ホテルにつく前に、エクラは寄り道をせざるをえなくなった。通りかかったハンバーガー屋のテラス席で、ハンバーガーにかぶりついて頬張る、かわいい女の子を見たからだ。ぶ厚いコートとベージュのマフラー、赤くかじかんだ手で大きなバーガーを握っていた。エクラはひとりで座る彼女のテーブルに、隣の椅子をもってきてそこに座った。
「おいしい?」
女の子は困惑した様子で咀嚼を続け、それを飲み込むと、
「どうしたんですか? し、知り合いじゃ、ないよね」
と訊ねた。エクラはそれに対して頷くだけだった。
彼女は名前をティナといった。もうすぐ二十歳になる十九歳で、大学生だといった。近くのビルで、両親と妹と四人で暮らしている。部屋はそのビルの最上階だと聞き、エクラが金持ちなのか、と聞くと、ティナは嬉しそうに頷いた。
「この店にはよく来るの?」
「うん、ハンバーガー好きなの」
「俺は何を食べればいい?」
エクラがそう聞くと、ティナはアボカドバーガーと答えた。アボカドが嫌いだったエクラだったが、ティナがそれでも食べられると力説したので、アボカドバーガーを買った。一口、齧りついて、それ以降エクラは顎を動かせなくなった。口中にアボカドの風味が広がったのだ。彼は無言でバーガーを、嬉しそうに笑うティナに渡した。残りはティナが食べた。食べ終えると、今度は彼女がエクラに質問した。エクラはいつも女の子にするように素性を説明した。旅をしていることや、何故せざるをえなくなったか。旅の苦労とただ今の状況。虚実織り交ぜて話す。色のことは言わなかった。それもいつものことである。
それを聞いたティナは、エクラに
「じゃあ、今日は私のうちにきたら? 晩ごはんうちで食べようよ」
と提案した。エクラは考える時間もなしに承諾した。すべて作戦通りである。
エクラが立ち上がったとき、ティナが彼のズボンの尻のところが破れているのを見つけた。
「エクラくん。ズボン破れてるよ」
彼女が言うと、エクラは確認した。
「……ホントだ。ちょっと待ってて、一回ホテルに戻るからさ。家の場所だけ聞いておいて、あとから一人で向かうことにする」
「わかった」
そこで二人は別れた。エクラはすぐ近くのホテルに帰る前に、もうひとつアボカドバーガーを買った。
ホテルに到着し、部屋にはいったとき、色は本を読んでいた。すっかり部屋が暗くなっているのにも気づかずにいたので、エクラは電気をつけ、アボカドバーガーを色の前に置いた。バーガーを包む紙袋は熱に萎れて、匂いのしみができていた。
「ああ、ありがとうございます」
色は本から一瞬だけ目を離して、エクラに言った。エクラは、今日は外で晩ごはんを食べてくることを色に伝えた。すると色は、
「わかりました」と言って、ついでに「ズボン破れてますよ」と、すぐに見つけるのだった。
エクラはシャワーを浴びた。長い髪にリンスをぬりつけた。鏡を見て、髪を染めてみてもいいかもしれないと考えて、目を細めて視界をぼやけさせイメージしてみた。
リンスを流す。首筋にナメクジが這ったようにぬるぬると落ちてきて、エクラもそれらを流すため、長い時間シャワーに当り続けた。お湯が細い線になって出てくるので、とても勢いのあるシャワーで、エクラも色もこれには気に入っていたのだが、何も考えずにシャワーに当たり続けるには、少々頭皮にダメージがありすぎるのがネックだった。
身体中を触って、抜かりなくすべすべするのを確認すると、風呂場から出て、新しい服を着た。シャツの上に白いニットセーターを着た。これはある時、長すぎる旅路に色が編んだもので、袖は指先が隠れるくらい長すぎるし、首元は広すぎて胸元まで垂れさがった。色は編み物に飽きたのか、そもそも趣味ではないのか、色が編んだのは後にも先にもこれ一つである。初めてにしてはすごいよ、とエクラは褒めたのだが、それにもあまり嬉しそうにはしていなかった。うん、と返しただけだった。
ともかく、エクラは、それを着てティナの家に向かうことにした。洗面所から出て、リビングに戻ると、読書をやめた色がエクラの破れたズボンを縫っているところだった。
「鍵は持っていった方がいい?」
エクラは色のおさげ髪を両手に掴んで聞いた。
「大丈夫ですよ」色は首を振って、エクラの手から逃れる「たぶん、部屋から出ることはないと思いますし。一応持って行ってもいいと思いますけど、なくさないようにしてくださいね」
エクラはティナに聞いたとおりに道を探した。すっかり暗くなった町の、空気は風も吹かないほどに冷えていた。帽子についた耳当てを手で押さえて耳を守りながら歩いた。見上げると空が雲で覆われているのが見え、夜のように暗いのも納得できた。
エクラが歩くその前には、ずっとセーラー服の少女がいた。まるで彼女に道案内されてるようだ、とエクラが考えたとき、その少女はふりむいた。
「あのう……何ですか?」
少女がこわごわとエクラに言った。
「何ですか、って、どういうこと?」
「どうしてついてくるのかな、って……思いまして」
「いや、ついて行ってるわけじゃなくて、たまたま俺の行く道に君がいただけだよ」
エクラがそう言うと、すみません、とその少女は下唇を噛んだ。そしてふり返って再び歩き出した。
結局、エクラはずっと少女のうしろにいた。彼女はミイシェといって、ティナの妹だったのだ。
家につくとミイシェは狐のように目を細めてエクラを睨むと、そのまま何も言わず家に入っていった。やってきたエクラをティナが迎えた。彼女に言われるまま、エクラは家にはいり、彼女の話を色々と聞いた。エクラはそれを、表面上とても楽しそうに聞くのだった。目を見て、納得したように頷くのだ。
父親は学者で、現在は政治家でもあるらしい。彼は大学に、民俗学の講義をしに行ったときに、生徒だった女性、山子と出会い、その後秘書として再会した彼女と結婚したらしい。それがティナたちの母親である。
今日は、山子はいたが、父親の方は今外国に行ってるらしくいなかった。エクラは山子に挨拶をして、リビングでくつろいだ。くつろぎやすかった。ティナがエクラを紹介すると、山子はとても朗らかに喜んだのだ。
ミイシェはずっと部屋の中にいて出てこなかった。ティナに聞くと、勉強してるんじゃない? いつも言われてるし、と答えた。
晩ごはんは山子の作ったおでんだった。一人一人に大きな器に取り分けられている。エクラはおでんでお米を食べることに内心戸惑ったが、努めて平然を装った。机を四人で囲んだ。山子は、お父さんずいぶん若くなったね、と言って笑った。
食事が始まって、ミイシェは不機嫌そうにした。そして、自分の器に入ったゆで卵をつかんで、
「これ嫌い」
と言った。
けれど、それを聞いた山子は、表情をかえずに
「食べなさい」
と言った。
ミイシェはしぶしぶゆで卵を器に戻して、それ以外のものを食べはじめた。
ミイシェを除く三人が食べ終わり、エクラが今までの旅であったことを話して盛りあがっている中、ミイシェは残ったゆで卵を恨めしそうに見つめていたが、とうとう決意したのかそれをつかんで、口にほおばると、そのまま聞き取れない声でごちそうさまと言い、席を立った。が、母親に食器を片付けるように言われ、他の三人の分も含め、それらを台所へ運んだ。食器を水に浸けると、ミイシェは自分の部屋に帰っていった。
遅くなってしまったので、エクラは、今晩に限りこの家に泊まっていくことに決まった。
会話がひと段落ついた。エクラは、ティナが先に風呂に入るということで、ミイシェの部屋を訪ねてみることにした。
静かな廊下をわたり、部屋のまえにたつ。扉をノックした。が、何も返事は返ってこなかった。耳を扉に近寄らせてみた。中からはオルゴールの音が幽かに聞こえたけれど、人のいる気配の全くしない静かさだったので、エクラはそうっと扉を開けた。
部屋の中にはミイシェがいた。彼女は椅子のうえにしゃがんで、立てた膝のうえに腕を組んで、その中に顔をうずめていた。エクラが入ってきたことには気がついていない様子で、その姿勢のまま微動だにしなかった。
エクラはそこまで歩いていった。机の上のオルゴールが、健気に音をたてていたが、それも止まってしまった。エクラは、その止まってしまったオルゴールのぜんまいを巻いた。するとまた音楽が鳴り始め、それと同時にミイシェは起き上がり、
「なに?」
とかすれた声でいった。
「本が好きなんだね」
エクラは部屋の本棚に並んだ本を見て言った。
「本を読んでいるときだけ、自分がいなくなるから」
「僕の知ってるある女の子も本が好きでさ。まあ、その子はミステリしか読まないんだけどね」
「そう」
エクラは本棚の前に座って、並んだ本をそれぞれ調べていった。
「自分のことが嫌いなの?」
「ううん」ミイシェは首を振った。「そんなことない。けど」
「けど?」
「今の自分は、私じゃないから」
「本当の自分、みたいなこと?」
「私のやりたいことは、やらせてもらえないから。親にも理想はあるの。だから、私の思うような自分にならせてくれない。お姉ちゃんは何も言われないのに……」
「ふーん……おすすめの本とかある?」
ミイシェは椅子から降りて、本棚から、短めの小説を一冊取り出した。
「これ。私が一番好きな本」
「かしてくれる?」
「……いいよ」
そのあと、ミイシェは部屋を出た。エクラは、今晩、空いてる父親の部屋に寝ていい、とのことだったので、その部屋に行き、そこでかしてもらった本を読むことにした。
『愛とつながりき形而上』という本だった。
いくらか読んでると、ティナがホットミルクを持ってきてくれた。彼女はエクラが読書をしているのを見ると、
「コーヒーの方がよかった?」
と聞いた。
エクラが、コーヒーを頼むと持ってきてくれ、感謝をすると、ティナはその代わりにと言ってエクラに、明日動物園に行く約束をとりつけた。午前中は予定があるので午後から行く、と約束がなされると、ティナは、また明日、と手を振って部屋から出た。エクラは再び読書に戻った。
本に意識をやりながら、左手に持ったペットボトルのアイスコーヒーをカップにそそいでいると、つい入れ過ぎてカップから溢れさせてしまった。こぼれたコーヒーは、エクラのセーターとズボンに黒いしみをつくった。エクラは頭を抱えて、本をそばに置くと、布巾を取りに行きそれでテーブルを拭いた。そして、服の汚れを落とすために、洗面所に向かった。
洗面所の扉を開けて、一歩入ったところで、エクラは立ちすくんだ。その時丁度風呂から出てきたミイシェと、チェスでもありえないような対面をしたのだ。
「ごめんねー」
と言って、エクラは洗面台まで小走りで行って、服の汚れを洗いだした。驚いて、洗面所から出ていきそうになったのだが、やっぱりもう少し裸のミイシェと同じ部屋の中にいたかった。
「見ないからね」
と言って、エクラは鏡越しにミイシェの様子をうかがった。
ミイシェもミイシェで、動揺を見せず、下着だけつけた。そしてエクラのほうをむいて話しかけた。
「ねえ、この代償、払ってくれる?」
「ふふん」と笑って、エクラはミイシェの方を向いた。「何をすればいい?」
「私を連れ出してほしいの」
「誘拐じゃん」
「そう」ミイシェはじっとエクラの目を睨んでいた。「……誘拐」
実行は深夜二時。ミイシェは荷物をまとめてエクラの部屋をノックした。エクラが扉を開けて、顔を出す。
「……眠たいんだけど」
エクラは唇を尖らせた。
「約束でしょ」
廊下に響かないように、囁き声で叱責するミイシェ。エクラは何も持たず部屋から出てきた。ミイシェは先に歩いて廊下を進む。エクラはその後をついて行って、ついに二人は家を出たのだった。
そとは雪が降っていた。食パンをちぎったみたいな雪が、ぱらぱらと降った。それらはアスファルトに当って、すぐに水になったけれど、街路樹のふもとの土の部分だけ、白く残っていた。
「家出なんて一人ですればいいのに、なんでわざわざ俺も連れて行くんだよ」
「ひとりだったら勇気出ないでしょ。あなたがいるから、別にそれはあなたでなくてもいいんだけど、もうひとり連れの人がいるからこそ行動に移せるの。もしひとりで家を出て……そしたら、私はどうすればいいのよ」
「どうにかすればいいんだよ」
「無理」
ふたりはタクシーをつかまえた。
「旅に出るっつっても、たまには家に帰れよ」
ミイシェは黙り込んだ。
「帰る場所がある事は重要だからさ」
「あの家でも?」
「どんな所でも、帰る場所にする努力があるんだよ、捨てるのは簡単だろ」
「うるさい」
タクシーは走り続けた。
ここらへんでいいですかね、とタクシーの運転手は速度を緩めて言った。
「ありがとうございます」
とエクラは言って、ポケットからカードを取り出して料金を支払った。降り立ったのは、駅の前だった。国から国に走る鉄道の、巨大な駅だった。朝が訪れるまえのこの駅は、まだ始動しておらず、静かだった。
ふたりがタクシーから降りたとき、雪はごうごうと勢いを強めて降っていた。五メートル先は見分けられない。
「どうするの?」
ミイシェが聞いた。
「俺は帰る」エクラはうしろを指さした。タクシーに少しのあいだ止まっていてもらっているのだった。「お前は電車に乗って、どこか好きなところに行けばいい」
エクラは財布を出して、ミイシェに渡した。ミイシェは、自分のを持ってると主張したが、エクラは渡すのだった。
「それと、これも」
と言って、エクラはミイシェに貸してもらった本を返した。
「どうも」
ミイシェはそれだけ言うと、髪の毛に乗った雪をふり払って、少しだけエクラに会釈すると、振り返って、駅の方へ歩いていった。
すぐにミイシェの姿は見えなくなった。
次の日の朝、エクラはティナの家を出て、別の女の子のところへ、本棚をつくりに向かった。そとはすっかり雪が積もっていた。
本棚はすぐに出来上がった。女の子に感謝されながらも、エクラは早々にその場を離れて、ティナと動物園へ行かなくてはならなかった。
昼過ぎにはティナの家へ帰ってきて、一緒に家を出た。
動物園をめぐり終えると、暗い夕方になっていた。今日も泊っていくかと聞かれたが、エクラはホテルで寝ると言った。
エクラはホテルに帰ってきたけれど、部屋の扉は開かなかった。鍵がかかっていたのだ。チャイムを鳴らしても、何の返事もなかった。
疲れ切ったエクラは、そのまま扉に背をあずけて座りこんだ。そして、そのうちにその姿勢のままでうつらうつら、眠ってしまった。
「エクラさん」
買い物袋に野菜やら、飲み物をいれて、腕に下げた色が、エクラを揺すって起こした。エクラは目を覚ますと、この国を出て次のところへ行こう、と言った。
「えー、いっぱい買い物しちゃいましたよ」
「ちょっと荷物が増えただけだ」
「なんでそんなに急に言うんですか、もう」
荷造りをしながら、色は不満げに言った。
腕に荷物をさげたふたりは、予定より数日早くホテルを出た。そして車に乗って、どこか分からない次なる場所へむかって出発した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます