すれ違い、虹の下で

 とても汚い部屋だった。シミだらけのシャツやら裸のDVDやら漫画やら、洗っていない食器まで転がっていて床に踏み場はないし、カーテンも閉めきっていてせっかくの天気のいい昼の日光も、そのカーテンの端から漏れるだけだった。弱った電気で照らす部屋は、気味悪く薄暗かった。

 男は軋むベッドから起きあがって、頭を掻いた。ボサボサ髪から抜けた毛が落ちる。男は部屋用の小さな冷蔵庫をあけて、牛乳を取り出し、わきに挟んで、冷やしていた賞味期限切れのあんパンもつかんで、それらをテープで修正したテーブルの上において座った。

 あたりを見まわして煙草を見つけ出すと、火をつけて吸い、鼻から煙を出した。そして煙草を空き缶に置くと、あんパンの袋をあけて食べはじめるのだった。


 食事を終えると男はボーっとする。いつもはそのままアニメを見るか、何もしないか、で時間を浪費するのだが、今日はあることを思いついて立ち上がった。

「今日は親もいない。出かけてる。何か買いに行くか」

 こんな生活を始めて、独り言が極端に増えた男である。男は続けて、

「週に一回この日は買い出しをすることに決めたのだった。そうだった、そうだった」

と呟いた。


 男は久しぶりに外に出た。彼自身では一週間に一回のつもりだが、実際は、時間間隔のずれているせいで、この日は十一日ぶりの外出だったのだ。家を出ると回廊があって、地上階まで降りると、扉を開けて外に出る。するとすぐに車の通る道路であった。

 ホコリ臭いもうもうとする昼間、男は汚い道路に目を落としながら歩いた。周りを見ても卑しい人間ばかりで、よく肩にぶつかる上、そらに対して謝罪を言うような人間もいなかった。

「とりあえず、スーパーマーケットでしょうか。ですね、安いですから。邪魔だなあ、こんなところに空き缶が落ちてたら子どもが転んで危ないだろって、分かんないのか」

 ぶつぶつ言いながら歩く男が、額ににじむあぶら汗を拭い、シャツをはためかせて風を送り、背中を丸めて建物の影の中を歩いている時、頭上で窓の開く音がした。それはある少女の開けた窓であった。柔らかそうな白い腕や、清潔な服、そして涼しそうに風に揺れる綺麗な黒い髪を、男が見あげながら歩いていると、段差につまずいて転んでしまったのだった。

 そして、その時通りかかった女に起こされた。

「大丈夫かしら」

 起き上がると男は女の顔を見た。そして目があった時男はそこに、軽蔑があるのを感じ、自分の身を卑しく思うと同時に、女に対していたたまれなさを感じた。すぐそこから逃げたかった。

「大丈夫なの?」

 ふたたび聞いてきた女を残して、男は歩きだした。自分が醜く思えたし、それはあの女のせいだとも思った。とにかく気分が悪かったのだ。

男はスーパーマーケットの前まで行ったが、中に入る勇気は出ず、結局何も帰らずに部屋に戻った。部屋の中で、彼は自己嫌悪と格闘しなければならなかった。久しぶりの外出は、彼にそのような陰々滅々を与えてしまった。


 しかし、男は次の日も通りを歩いた。もちろんその間あの開いた窓を眺めていた。窓が開くのを目撃するため、その同じ通りを数往復はした。

「あら、昨日の」

「……」

 立ちどまって、見てみると、昨日転んだ時に助け起こしてくれた女だった。彼女は今日もまた嘲笑するような上から目線で彼を見た。それのせいで彼はだんだんと自分が醜くなっているように感じるのだった。彼は少しだけ会釈して通り過ぎようとしたが、女が

「それだけ? 待ってよ」

 と後ろから声を掛けた。

「やめてくれよ」

 男は口の中でそう言った。そして背中を丸めて、女の方をうかがった。

 ちょうどそのとき、ふたりの横を、昨日窓を開けた少女が通った。男は横に跳びはねて、少女に注目した。少女はちらと男の方を一瞥するだけで、アパートの階段をのぼっていった。男は、そのまま何もせずに家に帰った。

 男は、それから毎日、通りを歩くのだった。そのたびに助け起こした女に、どこかしらで会った。男はそのたびに、目をそらして逃げるように道を変えて、歩き去るのだった。


………


「もう耐えられないんだ。あの女の軽蔑した視線には。俺に生きる価値なんてないかのように感じる。自信がないんだ、生まれつき。だから、すべてがうまくいかなかった。だけれど、あの女は俺の後悔や懺悔や反省のメタファーだ。あの女が俺の前からいなくなれば、すべてが好転するような気がする」

「そうかな……」

 白明はカフェで出会った、とある男の話を聞いていた。

「だから俺は、だから俺はあの女を、殺しに行くんだ」

「なにがあったらそんな答えになるのか。殺しに行く必要なんかないと思うけどな」

「あの女がいれば、俺はいつまでもこの醜い俺に縛られる」

 白明はコーヒーに口をつけた。


………


「私はね、彼と出会ってより世界は色づいたの」

 レイは喫茶店で出会った女と話していた。

「初めて会ったのは彼が道につまずいたときだったわ。とてもね、翳のある人なんだけど、今時珍しい芯のある人というか、見てるだけでわかるの、強い人だわ」

「……ふーん」

 レイはパンケーキをほおばった。

「はじめこそはとてもそっけない態度だったけど、会うにしたがって段々と求める目をしてきたの。下から私の表情をうかがうように見てくるの」

「へー、そりゃあ、脈があんじゃない?」

「そうなの、それでね、ついに昨日! その人からお誘いがあったの「明日(つまり今日の事ね)初めて会ったところで十四時に待っていてくれ」ってさ。あの場所は十二時だとかなり人通りが多くなるけれど、見つけられるかしら、なんちゃってさ、私たちはすぐに見つけあえるよ、なんてったってこんな多くの人がいる町でたまたま出会えたくらいなんだもの。運命の人。そうでしょ」

「そうね」


………


「じゃあな、時間潰しに役立ったよ」

 男はたちあがった。

「こちらこそどうも」

 白明も立ち上がる。そして男に別れを言って、カフェを出た。

 今日はとてもいい天気だった。心地よい柔らかい風が吹く。白明は宿に帰ろうと通りを歩いた。空には虹がでていた。白明がそれを見あげて歩いていると、道に転がっていた空き缶を踏んで、勢いよく腰をうってしまった。

「いてて」

 立ち上がろうとすると、上から手が伸びてきた。

「大丈夫?」

 見上げると、レイだった。

「ありがとう」

「……もしかしたら」

「なに?」

「運命の人かも」

「そうかな。僕は、君を殺すことになると思う」

「ふーん。……じゃあね。ああ、レルが話したがってたよ」

「わかった。今から帰るんだ」

「私は買い物行ってくるから」

 そう言ってふたりは別れていった。

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