歌舞伎前線 力尽き
「南足長駅」から「やる気駅」への電車。
ちょうど席は埋まりきって、車内のスペースは半分を埋めるほど乗客が立っている。スーツを着た年を取った男や、若い男、そして女。とっくに就職を終えた老人老婆。二、三の違った制服が見える学生たち。大学生や働いているのかわからない男、など人種・性別・年齢・職業、分け隔てなく集まっていた。
今は「南足長駅」を出たばかりだった。彼らが乗るこの電車は特急電車で「南足長駅」から「やる気駅」までは四つ駅を通過する。この間おそらく二十分くらいかかるだろう。
電車が動き、密室状態となって、三分ほど経ったころ、最初に異変を見せ始めたのは、同じ制服で二人並んでいる男子学生たちのうちの一人だった。
おもむろに俯き、、手で顔を隠すように頭を抱えた。
「ケンリ、どうした」
友人であろうもう一人が訊ねる。ケンリと呼ばれた彼は、無言で首を振った。それでも気になったのか、その友人は呼んでいた本にしおりを挟み、鞄に仕舞うとケンリの肩を持ち上げた。
ケンリはそれでも手だけは顔を隠したまま、外そうとしない。
「なんで顔を隠すんだよ」
友人は半ば笑いながら問いたてるが、ケンリは再び無言で首を振るだけだった。その様子に、友人は疑問を覚え始め、周りの乗客たちも彼らの様子を気にし始めた。
「なぜ顔を隠すのか、話せよ」
と友人はケンリの手を引き剥がし、そして、あっと声をあげた。ケンリの顔は、青白くなっており、目尻あたりのほんのり赤みが差していた。
「おい。……お前、それ……」と友人。
「……ちがうよ」
ケンリが、誤魔化すような口調で言ったが、その舌の根の乾かぬうちに
「おまえ、かぶいてきてる……」
と友人は驚愕を押し殺した声で囁いた。「ちがう」と首を振るケンリに、友人は
「いいから、顔を隠しとけ」と諫めた。
その様子を見ていた、彼らの前に立っていたスーツ姿の男が
「どうした」と聞いた
「いや、何でもないんです」
「体調が悪いなら」
「大丈夫です」
やる気駅まで持つか? と友人がケンリに隠れるように確かめる。ケンジは力なく肯いた。
何かあるな……相当しんどそうだぞ……。男は吊革につかまって揺られながら観察していた。しかしケンリと呼ばれるこの体調が悪いだろうことしか、分らない。彼はついに決心して、少年の顔を隠す手を払いのけてみた。
「おい! 何すんだよ!」
友人が怒声を上げたが男の耳には入っていなかった。男は一歩に歩と後退りして
「かぶいてるじゃないか!」と叫んだ。
「あいつを見ないようにしろ」誰かが訴えた。「うつってしまうぞ」すると今度はどこかで老人が「窓を開けろ。換気するんだ」と指示した。また女の声で「ふくらはぎをもむと症状が薄れると聞いたことがあるわ」とも聞こえた。
車内では口を抑えるもの目を抑えるもの鼻をつまむもの、座り込むもの飛び跳ねるもの寝ころぶもの。それぞれがそれぞれの知っている、信憑性のあるのかないのか分からない対処法を、叫び、試み、車内は騒然としている。喚くものや泣きだすもの震えるものや笑いだすもの、隣の人を殴ったり大声で叫んだり車内を目一杯走り回る者も出てきた。
そのころのケンリは、意識朦朧としてきており、顔色はいよいよ白く、目頭まで赤みは到達して来てい、鼻筋に青い線がかかり始めていた。
その様子に友人まで恐れを催したのか、彼と距離を置き、耳に指を突っ込み飛び跳ね始めた。
車内は騒々しく各々がそれぞれの対処法を試み車両は揺れていた。隣の車両に逃げようとする人もいたが、騒ぎを見て取った隣の車両の乗客が、扉を硬く閉ざし、入って来れないようにしていた。窓から飛び降りて、大声で何やら叫び遁走する者もあらわれた。車内ではいまだに、ドアを蹴とばすもの端っこで蹲って身を隠そうとするもの手を口に突っ込むものひたすら首を横に振り続けるもの自分の首を絞めるもの他人の首を絞めるもの
「問われて名乗るもおこがましいが、生まれは「山栗の犬目町」
母に父親、弟一人 浪にこだます家族のだんらん
今や己も高校生の いっちょ前にも円熟したる——」
いきなりケンリは座椅子に立ち上がり、足を広げて腰を落として、首をカクカクさせながら決め込んだ。
それにより混乱は一度静まり、全員車両の両端に固まり、ケンリの様子を息をのんで見守った。誰も近づかない。
ケンリはもはや服装まで絢爛で艶やかな和服に変わっていて、どこまでも響く硬い大声で台詞を謡い続けた。
その一挙一動があるごとに、周りの乗客がざわっと、うごめいた。
いよいよ「やる気駅」についたころ、ケンリはぐったりとしていて立ち上がることすらままならなかった。通報を受けて駅で待機していた救急隊員がすぐさま駆けつけて、彼をはこんでいった。
「こわかったね」
先を歩く色が呟いた。
「うん。ってか何なんだよ、かぶくって。なんか意味の分からない騒動に巻き込まれちゃったな」
エクラが唾を吐きながら言った。
「私、どうなっちゃうのかと思いましたよ。何をすればいいかわからなかったし」
色は後ろ手を組んだまま、肩を揺らして歩いていた。
「何もしなくてよかったんだろ。みんな馬鹿みたいになりやがって」
エクラはポケットに手を突っ込んで、下をむいて歩いていた。
「でもよかったですね、私たちは無事で」
色は立ち止まって、振り向いた。下をむいてたエクラはそれに気づかず、頭が色の胸にぶつかった。
「おっと」
顔をあげて、エクラは後退った。笑顔で目を合わせてくる色の顔は、青白く、目尻に赤みが差して……
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