夢オチだけは絶対許さないと宣う、もちろん実際違う

 朝、目を覚ました時、私はいつもと違った感覚を感じた。それは私という存在についてであり、この顔が、手が、細胞がいつもと違うのだ。私はベッドから降りて、洗面所に向かった。

 洗面所に行き、私は稲妻が脳を焦がすくらいの衝撃を受けた。洗面台なので、もちろん鏡があるわけだが、私の姿が鏡に映っていなかったのだ。

「ヒェッ」

 襲ってくる恐怖心に、私は鏡から目をそらした。けれど、また気になって鏡を見た。やはり映っていない。三面鏡になっているそれの三面、どれを見ても映っていない。……私は鏡に映らない人間になってしまったのか!?


 私は私という存在が不安定になったような、そんな不安感を抱いた。そして、これを両親に報告することにした。普段はあまり私と会話しない両親だが、このことはそんな事情を差し置いても報告すべき一大事だ。私は廊下をわたり、朝食を食べる二人の横に立った。

 しかし二人は私のいることに気づかなかった。そのまま、何食わぬ顔で朝食を食べ続けた。

「そうか、私は透明になったんだ」

 私はその場で叫んだ。そして、そして私は私のほうを見向きもしない二人をおいて冷蔵庫へむかい、母の大事にしているプリンを一口で飲み込んだ。それは凹凸一つない永遠に平坦な雪景色に、私の足跡を一つつけるような、何にも代えがたい愉悦であった。


 これで私は解放される。私はそう思った。毎朝の髭剃りの習慣からか? いや違う! 生活というものからだ。

 というのは、私の人生を知っていただければ納得できるだろう。私は現在四十二歳、そしてたいして大きくもない印刷会社に働く平社員である。いまだに平社員をやっているのには理由があって、実はこの会社に入ったのは十年前なのである。それまで私は小説を書いていた。といっても小説家だったわけではなく、ただ家で書いていた。収入は何かというと、アルバイトと、親の金だった。三十を越して、それでも少し諦められなくって、でもやっぱり自分のことを客観的に考え、親にも言われ……それで泣く泣く会社勤めを始めた。あの年で雇ってくれたのは有難かった。けれど、やはり私に労働というのは、耐えがたい苦痛だった。

 年下の上司から嫌味を言われ、周りの若い子とは当然馴染めず、部長や課長も私を遠ざけた。居場所のない私は、いつも一人でのろのろ仕事をするのだった。そして居場所がないことは、会社だけのことではなかった。

 家族を持たない私は実家に住んでいる。そして、私が親からいないものとされ始めたのは、二十代後半に入ってからだった。その頃から母親は、夕飯などは夫の分と自分の分だけを作って、息子である私はには作らなくなった。私は自分で作る事もあったが、大体がコンビニで買って済ませた。たまに行われる会話も最低限のものしかなかった。そして私が最後には母の声を聞いたのが、深夜コンビニでチキンを買って帰ってきた私に、たまたま廊下ですれ違った時に言われた「あんた。もう知らないよ」という言葉だった。ちなみに、その言葉によって私は就職することになったのだ。


 そんな私の人生だったから、ここで透明になる事は単に解放だった。逃れられた。

 私はパジャマ姿のまま家を出た。こんなだらしない姿で町を歩いても、誰も私のほうを見ない。これほど世界に自由を感じたことは無い。私はこのまま、私のいない会社を見に行こうと決めた。


 駅で電車を待つ間、思い切って上の服を脱いでしまった。実は三週間前から部屋で筋トレをしていて、腹筋などが引き締まってきたのを誰かに見せたかったのだ。

 町中で見せびらかしてやろう。そう思って私は、羞恥心の感じることのなくなった今、それを実践したのだが、透明になった私の筋肉ももちろん透明で、誰も私のほうは見向きもしなかった。そんなミスに私は大声で笑った。姿だけでなく、声も聞こえないのだろう。私はぬいだ服を線路に投げ込んだ。そしてそれが落ちたとき、丁度電車がやってきた。


 いつもの如く電車は混んでいた。見えないと言っても実体はあるらしく、私は周りにぎゅうぎゅうに押され、とても窮屈な思いをした。もしかしたら透明の空間だけがあいているのかもしれない。そう思って心配になったが、運のいいことに、私の周りの人はみな私に背を向けるようにたっており、私のいる空間を疑問に思った人はいないように見えた。さっき裸になったせいでスーツがこすれて痛いし、足もいつもより余計に踏まれる気もしたが、こんな満員電車に乗るのも今日を最後にしようと心に誓い、なら最後を楽しんでしまえ! と私は会社の最寄り駅まで耐えきったのだった。


 駅について私は切符も通さず改札を突っ切った。音が鳴って閉じられたが、そんなものは力技で通り抜けてやった。もちろんに誰にも何も言われない。機械の不具合としか思われないだろう。


「おう なつなんだぜ おれは げんきなんだぜ」

 夏でもないのにこんな歌を歌って私は町を歩いた。こんなに気分よく会社に足が進んだのは、初めてのことだ。

「あまりちかよるな おれのこころも かまも きんきんするほど あつくなってるぜ」


 ついに会社に到着した。私はエレベーターに乗り三階のボタンを押した。となりには同僚の林田という若い可愛い娘も乗っている。彼女は私のほうをちらりとも見ず、一心にドアを見つめていた。私はそんな彼女の方を穴があくほど見てやった。正直、前からこの会社の中では彼女だと思っていたのだ。

「今日もかわいいね、林田」

 いつもなら絶対に言えないようなことも、思い切って言ってやった。面と向かってこんなことを言うのも、案外興奮するものだ。林田はそんなことにはちっとも反応せず、ただ到着を持っていた。


 三階に到着した。私は自分の机のある一番端まで歩いて行った。

 思い付きでここまで来たが、特にやる事といってない。とりあえずそこら辺をぶらぶら歩いた。みんなの机を見て回った。それでもつまらなかった。

 そうだ! なんといってもみんなは私のことが見えないんだ。それに聞こえないんだ。私は上半身裸でいる事が、そうはいってもやはりどこか恥ずかしく、スースーする感じがしていたが、そんなちっぽけな恥かしさすら感じる必要はないのだ。思い切って、いき過ぎてやろう。これは私を押し込めたこの会社への、ひいては社会へのやり返しだ! 


 私は思い切って下も脱いだ。パンツ一丁どころではない、そのパンツも脱いでしまった。そして、私は私の机の上に立ち上がった。そして私は、そのうえで踊ってやったのだった。

 これほどにないというバカな踊りをしてやった。両手を不器用に舞わして、テコテコテコテコぎこちなくステップを踏んだ。

「ギャハハハハ! アッそれ! アァそれ! ア、ヨイヨイヨイヨイ!」

 私の声が響くだけ。社内は静かだった。

「ホレホレホレホレ、ホレホレホレホレ」

 そうやって躍っていると、一分ほどして、課長が机を強く叩いて立ち上がった。そして彼は叫んだ。

「おい! 説丸! さっきから何をしてるんだ。気でも狂ったか!」


 私は踊りをやめ、口も閉ざし、しばらくの間フリーズした。十五秒くらい止まったと思う。それが私には一時間にも二時間にも思えた。説丸。せつまる。……私の名前である。

「な、何ですか。もしかして……わ、わ、わ、わ、わ、私のことがみ、見えるんですか」

「見えるも何も、お前のすべてが見えてる。見たくない所もな」

 私は透明になっていたわけではなかった。私は透明になっていたわけではなかった。みんな意識してか、無意識にか、私を無視していた、それだけだったのか。知らない。そんなことを考える余裕すらなく、私はゲロを吐いた。


 そして、私は机から静かに降りて、両足が地面につくと、階段の方へ駆けだした。全員私の行動を見守っていたのが、痛いほど伝わってきた。

 私は階段を駆け下りた。そしてビルから出て、町を走り回った。

「ギャーーーーーーーーーーーー」

 私の悲鳴か、他人の悲鳴か分からなかった。私はとにかく町を駆けた。駆けた。駆けた。


 ……


「ギャーーーーーーーーーーーー」


「ちょっとエクラさん、エクラさん。見ました? 今の」

「見てたよ」

「裸の男の人が叫びながら走って行きましたよ。何があったんでしょうね」

 色は口を押えて、くぷくぷ笑いながら言った。

「さあな」エクラはうしろで笑う色に答えた。目だけはすれ違った美人の方を追っていた。「なにか辛いことでもあったんじゃね?」


「フーー……。でしょうね」

 色はため息で息を整えて、手で顔をパタパタ仰いで、落ち着いてから言った。そして立ちどまった。「あれ? エクラさん? どこですか?」


 色はエクラを見失ったのだった。「エクラさん。……もう、……すぐ消えちゃうんだから」

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