猿山奇譚

「ある冬の日のことです。とても冷え込み、時折雪の降った夜を明けて迎えたその日は、やはり寒く、晴れてはいますが、風などは肌を切るように冷たい、そんな日でした。ある青年が、この猿山を訪れました。


 ちなみにですがこの猿山には、約百五十匹の猿が住んでいます。皆さんもそれを見学に来られたのでしょう。彼もそうでした。


 彼というのが、もともと動物が大好きだったらしく、国中の動物園をめぐっていたそうですが、この猿山と言うのも噂にきいて、彼の故郷とはかなり離れたところではあったらしいのですが、わざわざ有休をとって旅行までして、訪れていただいたらしいのです。


 ホテルに前日入りして、朝早く、この山が係員によって解放されるや否や、彼は入山料を払って、この山に登りはじめました。


 あまり下の方には猿はいません。と言うのは傾斜がそれなりにありますし、木々も高い所にまで登らないと枝がないくらい、太くて大きなものしかないからです。

 青年は片道三十分かかる山道を、きっちり三十分かけて登りました。


 『猿、出没注意』のかわいいイラスト付きの看板、これは今では変わって違った仕様になっていますが、この看板が見えたあたりから猿のよく見えるエリアであって、彼はここから、興奮して、多少足早になって登って行きました。

 もうそこから少しのぼると、ご覧の通り平らに開けた場所になりますが、皆さんは行かれましたでしょうか、実はもう少しだけ上にあがる道があるのです。見て下さい、あの上の所、少し出っ張って見える高い細い木があります、あの場所です。青年はそこに向かいました。


 青年がその道に向かったのは、丁度サルたちの体調検査と朝食を配って廻る仕事をしていた飼育員がすれちがって、その際に教えたからでした。彼女はとても可愛らしい女性だったと聞いています。そして彼女は、訪れた青年に、上への行き方、これを教えると同時に道案内まで引き受けました。

 青年は飼育員について行って、道を見つけました。それは、あの頂上の木に向かう一本の坂道。上へと続く道でした。そして彼は、そこを登って行くわけですけど、その時後ろから飼育員の女性がこう言ったと云われています。


(私は仕事の続きをしてきますから、じゃあこれで。何かあったら探してください。あと、気をつけてください、昨夜の冷え込みで土が凍ってしまっていますから、滑りやすくなっています)


 青年は了解して、彼女に感謝を言い、その道を、彼女を置いて登り始めた。


 飼育員の女性はうしろから彼を見守っていたそうです。彼は一度ふりむいて、それに気づき笑いかけました。彼女も笑みを返したそうです。


 そして事件が起きたのはこの後でした。青年は滑らないように注意して。坂道を登りきりました。そして彼女の方を振り返りました。

 その時です。登りきったことで注意が緩んだのか、そこで彼は足を滑らせました。そしてバランスを崩したのです。


 しかし彼は悪くない反射神経によって、もう片方の足で着地し、地面を踏みしめました。しかしそこもやはり凍った地面で滑りやすくなっています。彼はまたバランスを崩しました。そしてまた逆の足をつく、と滑る。またついて滑ってついて滑って。その繰り返しに、彼はその場で長い間、足をつるつるさせ続けました。

 女性が見ている手前、死んでも転ぶわけにはいかなかったのではないか、研究の結果、そのような見解を示す方も多いそうです。私も同じように思います。

 そしてその間に、可哀想なことに、彼の周りに猿が寄り集まってきて、彼を笑いものにしたそうです。彼も相当、腹に来たでしょうが、殴りに行くわけにはいきません。少しでも、動こうとして重心をずらせば、転んでしまうし、それに恐らく猿が好きでここで働いているのであろう彼女の前で、猿に向かうことはできません。彼がせいぜいできるのは、結果転ばない事です。それでしか、彼のメンツは保てない。そのような状況に追い込まれていたと言います。そういった当時の状況は、最近判明したわけです。それによって様々な研究が進みました。


 とにかくそこで彼は足を滑らせてから、転ばない事が八十年の間続いたそうです。ずっと右足を滑らせては、左足で危うく着地し、その左足を滑らせては、右足で着地。それを延々続けていましたそうです。

 しかし、人には寿命と言うものがあります。そうやって耐え続けた青年ではありましたが、八十年と少したって、彼はとうとう寿命が尽きて死んでしまいました。


 そんな彼のプライドを讃えて造られたのが、この神社の始まりでした」


 女性ガイドはそう説明した。

 白明とレイは顔を見合わせた。

「なんなの? この作り話」レイが言った。

「何を聞かされているんだろうね」白明が言った。

「いいえ作り話ではありません」ガイドさんが言って、ある個所を指さした。「これが証拠です。近寄って、ご覧ください」


 白明とレイは、近づいて、凝視した。そして声を揃えて言った。

「ホントだ!」

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