カパック村 朝早く ②

 焼鳥屋さんでバリボーに会った帰り道、気持ちの収まりがつかないマルクムが寄り道に寄り道を重ねていると、とある婦人に呼び止められました。彼女の頼みは、娘であるユイエンの絵を見て欲しい、というものでした。マルクムは興味を持って、婦人について行くことにしました。


 婦人について行って到着したところは、銀行の裏に立つ立派な家でした。門を開けて中に入ると三階建ての棟があり、それは来客用や物置として使われているものですが、そこを通り抜けると中庭になって、その先に立つ家にユイエン少女がいるのです。

 そんな説明を聞きながら、マルクムは中庭を歩きました。中庭は芝生のところどころにレンガで囲まれた花壇があって、その中には花が咲いていたり、まだ季節が来ていないものがあったりしました。中心に一本、道が通してあって、ここを歩くのですが、マルクムはそこを歩きながら、ずっと左右一つずつ置いてある大理石の循環式噴水に驚いていました。

「あの噴水の中を開けて、そしたらね、そこにホースを繋ぐところがあって、そこにホースを繋いで花に水をあげるのよ。これってすごく便利だと思わない?」

「そうですね」

 婦人の開けた扉から、マルクムは中に入りました。

 婦人の案内によって向かった先は、二階の、隅の、ある部屋です。婦人がノックをして扉を開けると、そこに少女はいました。娘一人に与えるには、やはり広い部屋でした。日の当たる清潔な部屋でした。彼女はベッドの上で座って本を読んでいました。

「ユイエン、マルクムくんに来てもらったわよ」そして、婦人はマルクムのほうを見て言いました。「あの子もね、ララちゃんから話を聞いて、マルクムくんに会いたがってたのよ。ねえ、ユイエン。……そうだ、私は軽食に食べられるもの用意するわね。マルクムくんよろしく。ユイエン、私行くけれど、マルクムくんに失礼の無いようにね」

 そう言ってぱたぱたと去っていきました。マルクムは慎重に部屋に足を踏み入れ(女の子の部屋に入ったのはこれが初めてでした)ユイエンに話しかけました。

「絵を描いてるって聞いたけれど……」

「うん」

 ユイエンはパッと目を大きく開いて、マルクムを見て頷きました。そして秘密の宝物をちょっとだけ見せるみたいに舌をちらっと出して、小さく笑いました。

「そうなの」

 彼女は寝間着で、足を横に曲げて座ったままでしたが、マルクムが、絵はどこ? と聞くと、膝を抱え込んで、そこの間にあごをうずめて、

「あっち」

 と指さしました。

 マルクムは絵の方へ歩いて行って、イーゼルにもたれる油絵を覗きました。それは右下に少し空白の残った絵でした。

「これって描きかけなの?」

 マルクムは訊ねました。

「うん。たぶん」

 応えて、ユイエンは膝を抱えて座ったまんま横にぱたりと倒れました。そして、

「ねえ、面白い?」

 とマルクムに聞くのでした。

 マルクムはその絵に見惚れていました。ものすごいパワーがあったのです。それは、電灯輝く夜の街で、それぞれ人が、話したり歩いたり掴み合ったり、そんな絵でしたが、マルクムの今まで見たことのない描法、妙に柔らかい感覚で建物が描かれ、逆にそこにいる人々が固く感じられ、濃い色の雲はくっきり描かれ止まっているように見えるけれど、その奥の星空が流れてみえる、バランスの取れた色彩感覚で描かれた異様風のリアルな街並みは、そんな不思議感とあいまって、右下の空白に吸いこまれていくように感じました。

 すごい、かもしれない。とマルクムは思いました。

「これどこの街?」

「うーん、小さいときに連れて行ってもらった……」

「アト市だよね」

「ん。そんな感じ」

「なんでこの絵を描いたの」

「晩ごはん食べてるときにね、その街に行ったときの話が出たの。お父さんが言い始めて、それで思い出したから」

 よく見ると、絵の左の中央あたりに、そこだけ折れ曲がって見えるように描かれた部分がありました。トリックアートで使われる手法でした。

「なにこれ?」

「思いついたから、かな? そこにそれをする意味は無いんだけどね」

 ユイエンは嬉しそうに言いました。

 マルクムが絵から目を放して、白い天井の複雑な造りを見ていると、婦人が入ってきました。レモンティーと、ココナッツクッキーを運んで、それをユイエンのベッドのよこの丸テーブルの上に置くと、ユイエンに対して、もうすぐ晩ごはんだからあまり食べ過ぎないように、と注意して、マルクムには遠慮しないよう言い、部屋を出ていきました。

 ユイエンはクッキーを食べ、布団の上にこぼれた粉を見ていました。マルクムはそんなユイエンを眺めて、彼女に、

「ねえ、他の絵ってどこかにあるの?」

 と訊ねました。ユイエンは、物置にある、と答えました。物置とは、中庭を通る前に過ぎたあの棟のことです。

「今までどのくらい描いてきたの?」

「うーん、わからないけど、ずっと描いてきたから……。とりあえず物置に仕舞っておいて、たまったら見に行って、その中から残しておくやつとそうでないやつ、そうでないやつっていうのはお父さんが出張に行った時とかにそこで売ってくるらしいの。たまに売れるけど、多くはそうでないってさ。そうでないのがどうなってるのか分からないけど。つい最近整理したから、そんなにたくさんは置いてないと思う。」

 彼女はそう答えました。


 マルクムは説明された通りに、物置まで足を運びました。そこには四、五十作ほどの絵が置いてありました。

 これを見たから、マルクムは自信を失ったのでした。そこにはデッサン絵がありました。シュルレアリスムも、印象派に数えられるようなものも、天使を描いたのも川を描いたのもありました。それらはどれも技術に不安定さがなく、幼い頃からずっと絵を描いていて、絵を描くこと自体に四苦八苦していない、自由な絵でした。それでいて、そのような基本の絵から、とっぴな発想を持って描かれたもの、真似できない手法、繊細な感覚。マルクムは、それらの絵を注視するのはやめ、全体を見まわしただけでその部屋は出てしまったのでした。


 家に帰るとマルクムは、ヤングに焼き鳥が冷えていると怒られましたが、机に焼き鳥を置くとそんな声も聞かずに、すぐさま自室へもぐりこみました。そこでもまた、並べられた自分の作品を見て恥ずかしくなるのでした。自分の裸が並んでいるよりも、見るに堪えない気分で、マルクムはそれらをすべて集めると、部屋の端に積んで上から布をかけてしまいました。今まで描いたすべての作品が、どれも嫌いになった瞬間でした。


 それ以来彼は再び引きこもりの生活を続けました。学校時代にすべてを捨てて選んだはずの絵画の道に、居場所を見つけるのに、布団の中で二週間を必要としたのです。それは、県の学校に受かったところから形成された、高い自己評価と紙の裏に隠れた優越感を、折って曲げて、付けて伸ばして、眺めたり離したりの繰り返しに、それだけの時間を要した、ということでした。

 しかし、マルクムの強みは小さいころから絵を描いてきたわけではない事でした。マルクムは今まで自分が描いてきた絵が、何をしたくて描いたのか、どんなことを試したのか、すべて把握していて、それだけに今まで足りなかったところや、これからするべきこと、してみたいことは少し考えてわかりました。二週間たって脳をまっさらにして、再び白いキャンバスに向かいました。それでもやはり、自分を見ることは苦しいことでした。絵を描くごとに、マルクムは顔を暗くするのでした。


 ある夜、マルクムは台所に忍んで、そこから包丁を取り出し部屋に戻りました。それを見ていたレストは、訝しんで彼の後をついて行き、少し様子を見るために廊下で待っていましたが、何の物音も聞こえないマルクムの部屋を不気味に思い、思わず扉を開けました。するとそこには、丁度自分の左腕を切ろうとしていたマルクムがいたのです。

父親が入ってきたことに気がついて、マルクムは力なく右手に挙げた包丁を力なく降ろしました。

「大丈夫か」

 レストが聞きました。

「どうやって生きたらいいのか分からない」

 いくらも時間をかけて、ようやく口にしたマルクムの言葉は、そのようなものでした。彼は、自分も世界も黒くて、絵を描いていても、何をしても、この世界に喜びがあるように感じない、と言いました。

「喜びを感じるまで生きてみたらいいんじゃないか?」

 レストは言いました。

「だけれど、しんどいよ。辛いし」

 マルクムは少しずつ言葉をこぼします。「とても淋しい」

 レストはマルクムの肩に手を置き、息を落ち着かせました。そして台所に包丁を直すと、水を汲み、それをマルクムに飲ませ、マルクムをゆっくり寝かせました。

 それ以来マルクムは自傷しようとはしなかったし、この夜あったことは、レストもマルクムもあえて触れようとはせず、平生どおりに暮らしました。


 ある日曜日の早朝。珍しく早起きしたララが、マルクムが起きているのか部屋に入って確かめると、そこにマルクムはいませんでした。マルクムは徹夜をしていて、朝の散歩にレモン畑を歩いているのでした。


 レモンの木に囲まれながら、マルクムは、指を組んで、思いっきり上に引っ張ります。今日はなんだかいい絵が描けそうな気がするのでした。暖かい朝の、レモンの木の陰の下を歩いていました。時折吹く風が、涼しくマルクムの首を冷ましました。彼の目的地はUFOでした。

 間近で見るそれは、とても大きく、首が痛いほど見上げなければなりません。恐らく金属で出来ているのでしょうが、錆などはひとつも見ることはできず、蓋をしたお皿のようなそれが傾いていて、三分の一は土に埋まっています。定間隔で丸い窓がついていますが、中を見ようにも傷だらけで全く見えず、さらに中に入れるのかというと、扉のようなものは一切ないので(土の下にあるのかもしれない、だとしたら中の人は存分に困っているだろう)中に何か入るものなのかどうかも、実際のこれを見ると疑わしくなるほどです。マルクムは回り込んで裏側を見てみたけれど、そちらものっぺりしていて、まるでどうやって飛んでいたか想像もできません。

 マルクムが出来るだけ近くでUFOを観察するため、しゃがんでUFOに顔を寄せて見ていると、突然、

 ボゥーーンン

 と、低い音をたてたように感じました。驚いたマルクムは身を引いて構えましたが、その後、いくらたっても何も変わった様子はなく、それ以降UFOは大人しくなったので、マルクムも安心しました。それで彼は、家に帰って、朝ごはんを食べることにしました。


 しかし、マルクムは家に入ることなく、手前で立ちつくしてしまいました。そこに、見たことのない少女が倒れていたからです。

 小柄な、肌の白い、東洋人でした。黒髪は頬のあたりで雑に切ってあり、細い首筋が日に当たっていました。大きな黒いパーカーを着て、ショートパンツに太ももを露にしていました。

 マルクムは少女のそばにしゃがみ、肩を揺すって呼びかけてみました。少女はとても柔らかく軽くて、彼女はマルクムに救済の象徴のように感じさせました。しかし実際に助けなければいけないのは、少女の方です。マルクムは家の扉を開けると、そっと少女を抱きあげ、中に運びました。丁度通りかかったララにベッドを貸すよう頼み、その少女をララの部屋に寝かせました。


 少し様子を見て、起きる気配がなかったので出ていこうとすると、やにわに腕を掴まれ、見ると少女が口を小さく動かしていたので、マルクムは耳を傾けました。そこから聞こえてきたのは、お腹が空いた、と言う言葉でした。彼女の、氷の子猫のような声に、マルクムは背筋を冷やしました。

「……う、うん」

 どうにかそれだけ言って、マルクムはぎこちなく部屋を出ました。

 彼がリビングに行くと、丁度ミルが起きてきたので、彼女に事情を話し、少女のための朝食を作ってもらう事にしました。

 ミルが作ったのは、レモンの乗ったおかゆと、卵のスープでした。マルクムはそれらを、スプーンと水の入ったコップと一緒にお盆に乗せ、少女の寝るララの部屋まで運びました。


 少しだけすくって、息で冷まして、少女の口にもっていってやると、彼女は音をたてて啜り、小さく口を動かしました。次はもう少し多めにすくってあげました。それでも少女は食べました。

 時間をかけて朝食を食べきった少女は、起き上がるとマルクムのほうを見て、

「おやすみ」

 と言ってまた寝てしまいました。それを見届けたマルクムもまた、自分の部屋に戻り、眠るのでした。

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