カパック村 朝早く ①
レモンの先っちょには、少年の夢がつまっているのです。それというのは、こういうわけです。
カパック村にはおよそ、千六百人の人が住んでいます。村の中心には、大人が十人集まっても持ち上げられないような巨大な石が、七つ。五つがそれぞれ自由に転がっていて、そのうちの二つの上に橋が架かるように一つ、あと、台形の一番大きな石の上にもうひとつが乗っていて合計七つですが、全部同じ色の灰色で、そこを中心に道路が六つに伸びて村を構成しています。
村は赤やオレンジ薄橙、無秩序な色順でレンガが並べられていて、それが道になっているわけですが、たまに家をもそのレンガで作っている人もいたりして、そうなると、外から見ると目がちかちかしますから、やはり家はしっくい壁で固めて作った方が落ち着きがあるように感じます。
しかし、十四歳の少年マルクムは、そんな村とは少し離れて、緩やかな坂道をずっと上がった先の崖のふちにある、大きな木製の家に住んでいました。なぜここに住んでいたかというと、彼の家がレモン畑をもっているからです。彼の家は代々レモンを育ててきていて、この右も左もレモンの木の広大な畑のおかげで、この村もレモンを交換し経済をしてきたので、村では、サーシャ家といえば知らない人のいない有名な家族です。
家族構成は、マルクムの父親レスト・サーシャ、と母親ミル・サーシャ、姉のヤングと妹のララです。
レストはこのレモン畑のように広く大らかな性格の持ち主ですが、過去暴力団に名を連ねてい、とはいえその頃は今と違うかと想像力で遊んでしまいがちですが、そうではなく、その頃も今と同じ大らかな人物でした。それまで何の苦も無く、流れに身を任せるだけで何かと上手くいっていたけれど、三十一になって、自分のポストを譲れるような勢いのある部下が現れたことを機に足を洗って、その後見初めたミルと結婚し、婿入りとしてこのレモン畑を手伝うことになったのでした。
ミルは小さい頃からずっとレモンの匂いと一緒です。一人っ子の彼女は、年の取りすぎた両親と一緒に三人でこの家に暮らしてきました。交友関係を紹介すると、彼女が今でも会うのは、学生時代の親友エルザのみで、エルザは三年前に結婚して、子供も一人いますが、それ以降子どもができていないのを、ミルはよく「もうひとりつくってあげなよ、エンちゃんのためにも」と言ったりして、それに対してはエルザ自身も「そのつもりでいるのだけれど」と腕を組んで首をかしげたりします。
それに彼女はとても平凡な女性です。エルザに言わせると「若い頃は異常なほど執着癖と、独占欲をもっていた、それがかなわないとミルは自分すら信じられなくなって塞ぎこんだり、世界を拒絶することもあった」そうですが、レストがいる今は(それも浮気をするつもりのないのが丸わかりな程ぶくぶく肥っていく)ずっと安定して、もう平凡な、強い母親という女性になりました。
ヤングとララは、時にマルクムを共通の差別対象として手を組み、時に互いを最大の憎むべき敵として拒絶し合う、仲のいい姉妹です。
ヤングは勝ち気ですぐマルクムを殴りました。十三歳の時初めての恋をしました。相手は一つ上ですが、その人というのが結構な不良生徒で、その人と付き合ってからというもの、多大に影響を受け、夜遊びはするわ学校は抜け出すわ、完全にヤングも不良生徒の看板を掛けられる仲間入りをしたのでした。その人とはほんの半年ももたず別れたのでしたが、ヤングの不良生徒的性質だけは残り、友達を村を出て買い物をしたり(そんなことをする必要なんて毛ほどもないのに)、十五歳になって煙草を吸ったり(十八歳にならないと吸ってはいけません)しました。
ある時、レモン畑を煙草を吸いながら歩いて、学校から帰ってきたヤングが、扉を開けて早々カバンを投げ入れ、大声でマルクムを呼びました。部屋で勉強をしていたマルクムが玄関まで迎えにいくと、彼女は
「高校行くからさ、勉強教えて」
というのでした。
この村で高校に行くのは少数派です。村には高校は無く、隣のテレロ市に行かなきゃなりません。マルクムはびっくりして腰を抜かしてしまいました。
「な……なんで?」
「なんでも」
理由を聞いてもこんな感じで「行きたいから、行くの」としか答えません。なのでその日から、と言いたいところですが、その日はヤングが友達と遊ぶ予定をいれていたので、次の日から本格的に受験勉強を始めることにしました。残りの日数は、たった七か月です。
ヤングはマルクムの三つ上ですが、なぜマルクムが彼女に勉強を教えられるかというと、マルクムが非常に明晰だからです。異常に、と形容してもいいかもしれません。彼はもうすでに高校でやるような数学や化学・物理などに足を踏み入れてますし、学校というのも、テストは常にすべて満点に近い点数(間違いはひとつか、多くてふたつ)を取り、だから最近は学校に行かず、家でずっと勉強したりしています。テストの日になると登校して、また高得点を取るので、先生もそれは許しているのでした。
本当に七か月間、ヤングは気をそらさずに勉強を続けました。もちろんマルクムもそれに付き合いました。そして見事、高校には受かったのでした。マルクムは、ヤングが合格発表から嬉しそうに帰ってきて、部屋でおやつを食べている自分を見つけると、嬉しそうに殴ってきたのを憶えています。それ以降、ヤングは高校に入るというので煙草も止め、真面目になったわけではないけれど、それほど無理に逸脱した生活はしなくなりました。適当に学校を休んで遊びに行く事がたまにあるくらいです。
ヤングはテレロ市に高校に行きましたが、同時にマルクムはもっと難しい県の学校に入学しました。ストロメイアは、この国で一二を争う難関校で、もちろんカパック村からこの学校に行った人など今まで一人もいません。数学や宗教学、絵画、音楽などさまざまな試験を受け、マルクムはこの学校に受かったのでした。電車に乗って村を出るとき、村中の人が集まりました。今まで頭がいい、と評していたマルクムがこれほどまでだったとは、誰も思わなかったのです。
マルクムが村から出て、丁度一年がたって、マルクムは春休みに学生寮から帰ってきました。連絡も何もしていなかったので、駅で迎える人もいなくて、マルクムはひっそり帰ってきたのでしたが、やはり村の中ですれ違う人たちは驚き、そして称賛の声でもって彼を迎えるのでした。マルクムが帰ってきた。そういう知らせが村をめぐり、ついにはサーシャ家にまでと届き、ミルはとたんに高揚して、やりかけの料理をふかしてしまい、それにも気づかずリビングを行ったり来たりして、マルクムのためにはどのように準備をしたらいいのかと、いろいろ触っては置いて動かしてみたりを繰り返しました。
しかし、いざ帰ってきたマルクムは、そのような歓迎を受けるような元気ではありませんでした。彼は帰ると、母親との挨拶も早々に、自分の部屋に入ってすぐに寝てしまいました。
電車での長旅につかれたのだろう。皆はそう言い、マルクムを起こさないようそうっとしておいたのですが、次の日になっても元気にはならず、その次の日もそうでした。結局、春休みが終わり学校へ向かわないといけない日になっても、マルクムは部屋から出ようとしませんでした。ミルは心配しましたが、レストに相談すると、
「行かなくてはならない学校に行ってるわけではないんだから、なにも無理して学校なんか行く必要はない。行きたくないのならそれでいいし、学校は休んでもいいし、もし行けないのならやめればいい。そう言ってきな」
と言われ、マルクムにもそう伝えました。
それでマルクムは部屋から出るようになりましたが、明らかに頬などはこけて、あの頃のような生命の明るさは減少していました。
そんなマルクムを、心配して(というより単に学校で何があったか気になって仕方なかった)ララは、引きこもりがちなマルクムの部屋に入りました。そして驚きました。部屋の中が、何枚もの絵で埋め尽くされていたからです。それはパレットに描いた油絵や、画用紙に描いた水彩画まで、そして大量の鉛筆での下書きや、何かの描きかけの紙までもが、もうとにかく床に散らばっているのでした。ララはその場に座って、やはり鉛筆で何か絵を描いている兄に聞いてみました。
「絵を描いてたの?」
「うん」マルクムは絵を描き続けました。そして、「……最近はね」と続けました。
ララはいろんな絵を見て回りました。そのなかには本物と見分けがつかないくらい正確に描き写された大工道具の絵や、雲の綺麗なデッサン、家の形の猫みたいな変な絵など、色々な絵がありました。
「たまには運動したら?」
ララはマルクムの隣に座って言いました。散歩に出かけて、その時に話を聞いてやろうとたくらんだのです。
「してるよ、夜とか」
「ちがうよ。日の光に当らないといけないの」
マルクムは筆を止め、いくらか考え、分かった、と言いました。
「ほんと? じゃあ行こ、今から」
「今から……。分かったよ」
そうして、ふたりは散歩の準備をして(動きやすい服と、飲み物)家を出たのでした。
いかにも春という、太陽が暖めた柔らかい空気に、穏やかな風が吹く日で、そんな風が吹くたびに、レモンの葉たちはさらさらと歌をうたった。マルクムはララに歩幅を合わせて、ゆっくり歩いた。踏みしめるたびに、質のいい土がミシミシとめり込む。……そんな道でした。
いくらか歩いて、ララが、
「ねえ、お兄ちゃん。学校の事なんだけどさ」
と口を開くと、同時にマルクムは急に跳びはねて、
「なんだあれは!」
と向こうを指さしました。
「えー、知らなかったの?」
「知らないよ。一年間帰ってこなかったんだから」
「帰ってきて何日か経つじゃん。今まで気づかなかったの?」
「気づかなかったなあ」
マルクムは背伸びをしてそれを眺め、近くに行こう、と言いました。マルクムが興味を持ったものというのは、レモン畑のど真ん中に墜落したUFOなのでした。
それは、近くに行くと、見上げるほど大きいのです。
「なんだこりゃあ」
マルクムは気の抜けた阿呆な声を出しました。
「これね、私だけが見たの。落ちてくるところ」
ララは自慢げにそう言いました。するとマルクムは興味津々に、その話を聞かせてくれ、とララに頼みました。するとララも、自信たっぷりに話をするのでした。
ある夜、なかなか眠れない、という理由でララは夜更かしをしていました。それは昼間ぐっすり寝すぎたからなのですが、そのせいでやる事もなく、仕方なしに窓の外を眺め幾千とある白い星を数えていると、とても近くに動く星を見つけたのでした。……流れ星だ! と思い、家を出て生で見ようとすると、願い事をするあいだ、その星は消えるどころかどんどん大きくなり、それが星ではない何かだと分かったころには、ララは恐怖で動けなくなっており(自分の上に落ちてくるかと思った)そのままなすすべもなく、墜落を見てたのでした。それは地面を揺らすとともに強烈な音をたて、土や枝や葉をあたりに吹き飛ばしました。ララはその場で腰を抜かし、村中の人がその物体を見に来るまで口をパクパクさせて、綺麗な夜空を見上げていたのでした。
「すげえや」
「すげえでしょ」
その話はマルクムにとても気に入りました。それからというもの、ことあるごとにあの話をして、と頼み、そしてララもその度に胸を張って自分の武勇伝を語るのでした。マルクムは夜をふかして、朝になった時などよく、起きてきたララにその話をしてもらい、その後に自分のベッドに寝に行くのでした。
そうやって少しずつ元気になっていったマルクムだったけれども、それもあまり長くは続きませんでした。
ある時、マルクムはヤングに言われて、焼き鳥を買いに村に降りて行きました。合計で、三週間ぶりくらいの村ですが、それはマルクムが子供のころから全然変わりない景色で、色々なレンガで彩られています。
マルクムは固まった土の道から、レンガの道に踏み入りました。彼はそこで、居心地の悪さを感じました。それというのも、彼は華々しく県の学校に進んだのにも関わらず、結局帰ってきてしまった。それは、彼なりの理由、と言うより信念のあっての事ですが、そんなことは誰にも説明していないので、人にただ逃げただけの弱かった自分とみられる気がして、それはいいのですが、そんなことで自分が村の人たちの嘲笑の対象になるのは、何というか間違っている気がしたのでした。学校を辞めたことは事実でしたが、それはあくまで事実で、脱落したわけではないし、脱落したとみられる筋合いもないのです。が、マルクムにはすれ違う青年や、婦人らに、そう見られているような気がしてなりませんでした。
中央の石の広場を通り過ぎて、そのまままっすぐに少し歩き、左にあらわれる階段を上がったところに、公園があるのですが、その横が焼き鳥屋さんです。
マルクムは、扉をスライドさせました。暗くなるよう設計された建物のオレンジ色の光と、外の昼の明るさが混じって、とてもノスタルジックの特別空間じみた雰囲気でした。そこにタレの匂いがして、とても変な感じ。
「おい! マルクムの奴じゃねえか」
奥から腕に袋をさげ、バリボーたちがやってきました。バリボーはマルクムと同じ年齢の少年で、彼の家は輸入商をしています。彼のうしろにいるのは、バリボーと同じ中学校に通っている、彼の後輩やらでしょう。
「なにか?」
マルクムはバリボーに目を合わせないようにして、そう言って、隣を通り過ぎようとしました。すると、その瞬間、バリボーがマルクムの腕をつかみました。
「お前、諦めて逃げたらしいな」
とても嘲笑的でした。マルクムは腕をふり払って、その場に立ったまま、
「違うよ。君たちには全然わからないだろうけれど、学問だけをやっててもしょうがないんだよ。僕は、勉強が難しいだの、面倒くさいだの、そういう問題とははなから付き合っていないんだ。君たちのものさしで、逃げたとか、評価しないで」
「は?」
マルクムはバリボーの反応も見ずに、店の奥に行き、ヤングに頼まれた「ボンジリ」と「ねぎま」と「皮」を二本ずつと、自分用に「モモ」と「ツクネ」を買いました。
お金を払い終わるころには、バリボーたちはいなくなっていました。
マルクムは店を出て、袋を揺らして、階段をおりていき、このまま帰るのですが、バリボーとのやり合いにいささか興奮してしまったので、気が収まらないまま、「自分の言ったことは正しい」、「僕の本当にするべきことは何か」とか「僕が絵を描くのは、間違いがちな人の認識を正すためだ」とか、頭のなかで自分の理論を反復して、何度も説明し直し、寄り道ばかりをしてなかなか帰りませんでした。
ようやく彼が石の広場を通りかかったくらいで、後ろから見も知らない太った婦人が追いかけて来ました。
「マルクムくん」
彼女はマルクムに追いつくと、彼の肩に手を置きゼーゼー息をししました。つばを飲み込んで息を整えると、彼女はマルクムにこう言いました。
「ララちゃんから聞いたんだけれど、マルクムくん、今絵を描いてるんですってね。私のね、娘のユイエンもそうなのよ。絵を描いてるの。ずっと悩みの種だったんだけれど、と言うのはね、あの子はちっさい頃からずっと、絵を描く以外に興味をもてなくって、勉強もしないし、友達も作らないし、ああ、ララちゃんだけは仲良くしてくれて、本当に感謝しているのだけれどね、それで、マルクムくんくらいの頭のいい子も絵を描くって聞いて、ちょっとうちの子のも見て欲しくってね。どうかしら、いい? 変わった子だけれど……変な事しか言わないの」
「ええ、いいですよ。今からでも行きます」
マルクムはその話にとても興味を持ちました。学校では、自然科学の話ばかりなされて、絵に興味を持った同級生なんてなかったし(ひとりもいなかったわけではないけれど)、その子ならマルクムの今までしたかった、絵についての議論もできるかもしれない。それに、マルクムは小さいころから絵を描いていたわけではなくて、見ることは人よりは多くあったけれど、実際描き始めたのは学校の美術室が初めてなので、絵を描いている期間というのはここ一年ちょっとのものだったから、小さいころから長く絵を描いているその子はマルクムとは全然違う感覚を持っているかもしれない。そんなことを思ったからでした。
そうやってマルクムは楽しみに、彼女について行ったのでしたが、そこで大きなショックを受けました。このショックがマルクムに絶望と暗黒を与えたのです。
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