諦念と衝撃にregnet

「今日はここまでかな」

 白明は解説書とノートに解かれた問題とを見比べて言った。

「おつかれさん」

 彼は、とある富豪にやとわれ、今はその家に住み込み、十三歳である少女の家庭教師をしているのだった。およそこの街でなされている商売には、すべてこの家の主人が関わっていると言ってよく、殊にこの周辺に立つ小売商店のほとんど、おおもとは彼、山口善太郎によるものだった。それだけに、白明が今いるこの家も相当に広くできている。白明は初めてこの家を訪れたとき、どこまでが家なのか分からないくらいだった。彼が主人にそれを聞くと、主人は、すべてだ、と答えた。

 白明はまさに今、そんな主人の娘ミュウとの勉強を終えたところだった。

「……じゃあ、出てって」

 ミュウはノートを閉じてぶっきらぼうに言った。白明は、聞くまでもなく黙ってすぐに部屋をでた。そして右にも左にも続く、いくつも部屋の扉が並んだ赤い廊下に立った。目の前の影にはまった窓から、外の景色を見た。今日は朝からずっと暗く、灰色の世界には途切れることなく、灰色の雨が降っていたのだった。


 白明は階段を降りて大広間を突っ切り、また廊下(今度は青い)を通って、夫人、ミュウの母の部屋を訪れた。彼は毎日そこで経過報告をするのだ。今日も上々で何も問題の無いことを伝え、夫人が穏やかに微笑し頭を下げるのを見ると、部屋を出て与えられた自分の部屋に戻った。

 電気をつけると、整頓された自分の部屋が明るくなった。オーディオにCDをいれ、ヘッドホンをつないで曲を聞いた。白明は知らない言語のヒップホップのCDを集めることを趣味としていた。といって、今はまだ三枚しかもっていない。今日はとても静かなアルバムを、座り心地のいい木の椅子に脚も腕も組んで座り、目を瞑って聞いた。雨の音は消えなかった。そうやって、数十分、彼は黙って曲を頭に流れこませて、今日ミュウとやった地殻やらマントルのことやらを考えたのだった。


 タイトルも読めないアルバムを聞き終えると、白明は机の引き出しから煙草とライターを掴んで部屋を出た。この家は主人の部屋と、裏庭に出る扉から出てすぐの廂の下、あるいは広大な庭にいくつかあるガゼボ、にしか灰皿がなく、そこ以外はすべて禁煙である。白明は、裏口にまわった。

 外に出ると途端に湿気が顔に当った。大きく息を吸って館内のとどこおった空気を出して、流動的な空気を取り込んだ。だけれど気分に至っては何も変わらなかった。

白明は玄関ポーチの中、雨が当たらない一番端にしゃがんで、取り出した煙草を口にくわえて火をつけた。口一ぱいに吸って、溜めて、雨の中に吹きかけた。そのとき、うしろで扉が開いて、中からレイが出てきた。

「起きたんだ、レイ」

 白明は見上げて言った。

 レイは壁にもたれて立った。

「もう晩ごはんだからね」

 そして彼女も煙草を吸った。ふたりの間に雨降りのノイズが行ったり来たりする。レイは半分も吸わないうちに、煙草を庭に飛ばした。水たまりに落ちたそれはネズミのくしゃみのような音をたてて、一瞬で息絶える。

「ストレスたまる?」

 戻りがけにレイが訊ねた。家庭教師の仕事の事だろう。ミュウは飲み込みが良く、教えたことは一回で理解し次の問題に活かせる。だから教えるにおいて苦労は無かった。ただあまりにも取り付く島がないので、仕事をしている感覚がいっこうに得られないだけだった。

「いいや」

 と、白明は答えた。するとレイは、そう、とだけ言い館の中に帰った。白明は目の前に煙草を持ち上げて、赤く光る先端を見た。それは寿命のようにじりじりと本体を蝕む。白明は、また煙草に口をつけ、ぐんぐん吸った。煙を呑み込むと、血管のざわめきを感じて、それが脳まで巡ると青い息を出すのだった。


 煙草を吸い終えた白明も、吸い殻を灰皿に捨て中に入った。空腹だったので夕食を取ることにした。

 この家には料理人がいて、リビングの壁にあるタッチパネルで料理を選択すると、それが厨房に伝わり作ってくれる。日によってメニューは違うが、大体七、八種類から選べる。

もしくは、館の隅にはキッチンがあって、そこでちょっとした料理を自分ですることもできる。この屋敷の住人も、シャンメイやレイも毎日料理人の作る上等な料理を楽しんだが、白明は自分で簡単なものを作ってそれで済ませることが多かった。


廊下を進んでいくにつれ、物音からはどんどん遠ざかり白明自身の歩く足音だけが、何層にもなって響くようになる。館の東の隅、到着すると、開きっぱなしの両扉から質素なキッチンが見えた。

 そこはタイル敷きの床とベージュ色の壁、なんの装飾もない電燈の光に満たされ、長テーブルが六つ、周辺や壁際に数十の椅子があった。扉から見て正面の壁に右側によせるように、地味目なキッチンが設えてある。白明はそこにミュウが立っているのを見た。

 白明はそこまで歩いて行き、傍にある冷蔵庫をあけた。中を見て、野菜炒めを作ることにした。お米とみそ汁は常に用意されて暖めてあるのでそれを作るだけでよい。

 使う野菜をいくつか抱えて、台所に立ち、まな板と包丁を用意した。そして白明はとなりをちらりと見た。丁度ミュウがフライパンに卵を割るところだった。

 肌に響く音をたてて、油は卵を焼いた。野菜を切りながら盗み見ると、白身のふちがきつね色の泡になっている。黄身は山の小川の水のように澄んでいた。白身の一部が大きく膨らんで、すぐにしぼんだ。ミュウはそれをフライパンに触りもせず、ただぼうっと眺めていた。野菜を切り終わった白明は、フライパンを後で借りようと順番を待つ間、目玉焼きも食べたくなってので、冷蔵庫に卵を取りにいった。

 ミュウはできあがった目玉焼きを皿にうつし、食器棚からフォークだけを取った。白明が、彼女の後のフライパンを使って野菜炒めを作り始めたとき、ミュウは彼のうしろに立ってそれを見ていた。

 菜箸で火にかかる野菜たちを混ぜているとき、後ろからつつかれて、白明はうしろを振り返った。すると手に皿を持ったままのミュウが、

「旅してるの?」

 と言った。

「うん」

 白明はミュウから目をそらして、料理に戻りながら答えた。

「楽しい?」

 塩と胡椒をかけると、フライパンを振って野菜を反した。そしてまた菜箸でそれを均して炒める。

「……どうかな」

 ミュウは白明から離れて、座って目玉焼きを食べはじめた。白明の背後でじゅるじゅると啜って食べた。白明は野菜炒めが出来上がったので、目玉焼きにうつった。それが出来上がったころには、机の上にお皿だけがあって、ミュウはどこかにいなくなっていた。両手に皿を持った白明がそれに気づいたとき、窓の外がにわかに明るくなって、数秒後に雷鳴が聞こえた。


 食事を終えた白明は、散歩に出ることにした。

 衣装室に雨合羽を探しに行き、そこでちょうどいいサイズの黄色い長靴も見つけて、いよいよ外に出ることにした。家の周りを囲む、広大な庭を歩くのだ。


表玄関から出て、右に歩いて行くことにした。東である。砂利で、歩くために造られた道もあるのだが、白明は気にせず芝の上を縦横無尽に進んだ。ある程度家から離れると、不法侵入者たちが目立つようになってきた。今日は雨なので、ガゼボの下に集まっていたり、段ボールで必死に防いでいたり、気にせずに寝ていたりだ。

白明は彼らを目にとめず、ただ散歩をした。時おり雷がどこかで落ちた。綺麗に花が咲き並ぶよう肥やされた土。雨滴に容赦なく穴があく。止まった噴水。蔓で編まれた緑のゲート。芝の禿げたところ。

長靴が芝にパシャパシャ鳴るのを一心に見ながら歩いた白明は、一度立ちどまって上を見あげた。犬の目玉くらいに大きな雨粒が、顔に降り注いで、肌に弾け飛ぶ。まばたきをしてもしても視界が無くなったが、空が異様に黒く重たいのはよく分かった。これ以上歩くと危険だと思い、今日の散歩は早く切り上げて帰ることにした。また雷が落ちた。


 散歩を終えた白明は部屋に戻ろうとしたが、途中でレイに会った。彼女は一緒に部屋でゲームをするよう誘った。というより、ゲームの仕方を教えてもらうために引っ張っていった。いつになく元気があった。

「今日はいいベッドでよく寝れたからよ。いつもの車の中みたいじゃ、何時間寝ても足りない」

 何種類ものパジャマで散らかった彼女の部屋には小さなテレビがあり、テレビゲームが接続されていた。

「どこだったっけ? まあ、どこかの部屋に入った時これ見つけてさ、でも分かんないのよ。あんた使い方知ってる?」

 白明は頷いた。そして、スイッチを入れ、簡単な設定をすました。

「幼馴染がゲーム大好きだったんだ。毎日やらされたよ」

「家出るまえ?」

「うん、そのちょっと前、家出るときにはちょっと疎遠になってたかな」

「そうだ」

 とレイは思いついて提案した。

「あの子も呼ばない。あんたの教え子。呼んできて」

 あぐらをかいてコントローラーを握ったまま、レイは白明を押しだした。言われるがままに、ミュウをつれてきたが、このゲーム機はコントローラーを二つまでしかつなぐことができなかった。レイは迷った末、ゲームは諦めて、三人で大富豪をすることにした。彼女は、今度はミュウを、トランプを取らせに行かせた。

「自分で行きなよ」

「疲れるもん。頼まれたいでしょ、あんたらってさ」

「人に何かを頼んでもらいたいってこと? 頼ってもらいたいみたいな、……どうだろう」

 白明とレイが話し終えたと同時に、ミュウがトランプを持って現れた。三人はベッドの上で車座になって、大富豪を始めた。


 誰が話すでもなく、静かに淡々とゲームは繰り返された。勝者はほぼ順番にまわった。三人とも勝ったり負けたりしたのだ。三人はそうして、夜が更けるまで何時間も続けた。レイが勝ったとき彼女が、次で最後にしよう、と言ってあくびをした。白明もミュウもうなずいた。そして白明が三人分にカードを分け終わったその瞬間、強烈な光と轟音が部屋を襲った。そして、それが過ぎると暗闇だけが残った。落雷による停電だった。


 しょうがなく最後の一試合は中止となり、三人はそれぞれ自分の部屋に戻ることにした。白明ですら、そこから自分の部屋に暗闇の中戻るくらいのことはできた。この屋敷のつくりは単純なのだ。しかし、ミュウはそうじゃなかった。戻って、明かりのつかないままだったのでやる事がなく、ベッドで眠っていた白明は、使用人の一人に揺り起こされた。


 リビングに大勢が集まっていた。聞いてみるとミュウがいなくなったと言った。レイもいなかったが、それも聞いてみると、ただ起こそうとしたがどうしたって起きなかった、というだけだった。

「白明君、知らないか?」

 主人が真剣なまなざしで訊ねる。白明は首を振った。

「停電するまでは一緒にいたんですが、停電して、それで離ればなれになった、って感じですね」

「停電するまで、ふたりで何してたの」

 夫人が聞いた。

「いえ、レイと三人で。大富豪をずっとしてました」

「あの子なにか喋った? いつも黙ってるでしょ」

「そんなことよりも、ミュウがどこにいるかだ」

 主人は指で机をたたき、イライラしながら言って、それと同時に、その時何か思いついたように立ちあがって言った。

「あいつらだ。あの外にいるやつらだろ。あの社会の吐きだしものたちのどいつかが犯人だろう。おそらく、きっとそうだ」

 そう叫び終わると、館に沈黙がおとずれた。誰も何も言わなかったし、身動きもしなかった。どれくらい続いたかわからない沈黙を破ったのは、誰かの走る足音だった。

「ご主人! 犯人からです」

 勢い込んできた使用人が、主人に受話器を渡した。主人はそれを奪い取って、受話器に向かって大声を張り上げた。

「誰だ!」

 犯人はそれを無視して、淡々と説明を始めた。それというのは、娘を誘拐したから取引に応じろ、という電話だった。

 彼が求めたのは、街にあるうちのいくつかの店の権利と土地の権利だった。

 主人は、

「この街で俺に喧嘩を売るという事の意味が分かっているのか」

と、すごんだが、犯人は気にせず取引方法を説明した。傍らでは主人の秘書をやっている老人が一生懸命にメモを取っていた。


 通話が切れ、少しの話し合いの後、彼らは六人のグループで取引に向かう事が決められた。勝手に白明もメンバーに入れられていた。

「僕はどうすればいいんですか?」

 白明がメンバーのうちの一番若い男に聞くと、

「何もしなくてもいいよ。一応の護衛用について来てもらうだけだからさ。聞くところによると、銃の名手らしいじゃないか」

 と明るく言った。さらさら取引に応じるつもりは無い、という事や、実際誰がどういう動きをするかなど、白明にとって興味の無いことまで続けて話した。白明は相槌も打たず、頷きもせず、ただ黙ってそれを流した。


 白明は車に乗せられた。そしてその車はどこかへむかった。白明は窓に肘をついて、拳にあごを乗せ、振動と景色の流れるなか時間を過ごした。誰も白明には話しかけなかった。


 到着したところは倉庫だった。雨の当たらない、屋根のある下に車が止められ、白明は何も指示をうけなかったので、とりあえず様子見にあたりを歩くことにした。犯人に行き当たらないように、事件に関係しないように、けれど暇なので散策するのだ。他のメンバーたちは、巨大倉庫を取り囲み、中の様子をうかがって作戦を立て直していた。白明はそのそばにある、小屋を訪れた。ゲーム関係の場所なのか、そこには大量の旧いゲーム機が捨てられてあった。白明はしゃがんでそれらを見て、昔の思い出に浸った。


 雨は弱まってきたのか、その騒音は遠くなったように感じた。少し歩くと、カチャカチャいうゲーム音が聞こえた。白明が不思議に思って抜き足で近寄ってみると、地面に置いたランプの明りのすぐ横で、ミュウがあぐらをかいて必死にゲームをしていた。


「ミュウ!」

 名を呼ぶ声にミュウが顔をあげた。が、すぐにゲームの続きをした。

 白明はそばに行ってミュウのとなりにしゃがんだ。

「無事だったんだね」

 と言った。ミュウは、うん、と返した。

「犯人は? ……犯人って言うのかな? ミュウをここまで連れてきた人」

「取引するって……行った、どこかに」

「そうか」

 白明もそこであぐらをかいて座った。

「ゲーム好きなの?」

 ミュウは首を横に振って答えた。

「初めてやった……私ね、……家を出たのも、初めてなの」

「そう。どうだった、家の外は」

「小さかった」

「この世界は意外と広いよ」

「そうなの?」

「うん。見尽くすことは不可能だ」

 ミュウはゲームの電源を切った。

「そんな若くから旅をしてても?」

「全く。無理だね」

「ねえ……」

 ミュウはじっと下を向いていた。雨はまたどんどん強まったように感じた。けれども、それは沈黙が訪れたからそう感じただけかもしれない。ミュウは服の裾を握って、いよいよ白明の方に顔をあげると、口を開いて何かを言った。しかし、ちょうどそのとき、倉庫の方で発砲音が続いた。十数発立て続けになり、それによってミュウの声もかき消された。

 白明は倉庫の方角を見あげた。

「行こうか」

 ミュウの表情は明るくなった。

「事件は終わったみたいだし、家に帰らなきゃ」

 白明がそう言うと、ミュウの顔はまた暗くなった。


 ふたりは車に戻る前に、隠れて倉庫のなかを窺った。そこには何発もの弾丸を浴び血まみれになった汚い身なりの浮浪人があった。それは床にくずおれ、いまだ血を流していた。

「あの人?」

「うん」

 そう聞くと、白明はそこから離れて車に戻ろうと歩いていったが、ミュウはその場に立ちつくして、ずっと倒れた男を眺めていた。

表情には何もあらわれていなかった。白明はいくらかそんなミュウの後姿を眺めたが、諦めて先に車に乗り込んだ。そしてその時になって気がついたが、雨はすっかりやんでいたのだった。

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