汝は妖狐なりや?
小型の虫が腕の上を這い回る感触が走り、私の身体は椅子から転げ落ちた。クソッタレ。私は痛みを堪えながら腕に目をやった。よく見ると腕時計であるはずの物体が、
私より遅く
確かボスから話半分に聞いたことがある。かつて英国にこのような風貌をした名探偵がいたと。話が本当だとすれば、この
「この度はミラージュ・ペルソナ・サービスをご利用いただき誠にありがとうございます。ご用件をどうぞ」
私はヘッドセットマイクに向かっていつものように極めて事務的に、しかし営業用の明るいトーンで話しかけた。
客の要望に合わせて自分自身もカメラに顔を映してはいるが、それは巧妙に偽装したアバターだった。ディスプレイ越しの客の下には、容姿端麗な架空の女の姿が届いているはずだ。
ただし、そのアバターも客が余計な猜疑心を抱かない程度にあえて整形されている。そして、音声も耳障りの良さだけが特徴の没個性的な声に調律されていた。
今の私はカメラの前で肘掛け付きのゲーミングチェアに腰掛け、床に打ち付けた尻を擦っていた。こんな業務態度でもアバターは自動的に畏まったOLを演じてくれる。体勢だけは気楽なオフィスで助かった。
「見たところ、寝起きのようですね」
手元の端末が解読した紹介状の内容をディスプレイに吐き出す。紹介状には最近、警察沙汰になった新興宗教団体を主宰する神父の名前が書かれていた。
うちは老舗でも大手でもない、ボスを含めて3人のしがないペルソナ・ディーラーだ。顧客の要望に合わせてAIの人格を仕入れて売り捌く。AIよりまともな人格の客が金を落としてくれれば有り難いが、往々にしてこの手の商売は詐欺師と軽犯罪と面倒事のオンパレードだった。
だからこそ、
そのような執拗な
どこから紹介状を手に入れたか分からないが、ここはさっさとお帰りいただくことにしよう。グッバイ、
「
「……冷やかしですか?」
「毒物を取り扱う時には注意しなければ。貴方にとっても。そうでしょう」
芝居がかった態度で
「とある興味深い事件について、お話ししたいと思っています。お付き合いいただければ、
まさか脅しをかけられるとは、面倒なことになってきた。この
「事件と仰っしゃりますと……?」
「その前に、先にお名前を。ミズ?」
普段であれば
「それではワトソンで」
「この会話にピッタリです」
段々と億劫になってきたので、会話の主導権を明け渡してしまおうと思い、私は素朴な疑問を口にした。
「ところで、どうして貴方は私が寝起きだと思ったんですか? アバターを介して会話しているのに」
「眼球の不随意運動ですよ」
「アバターの視線が僅かに揺れていました。つい先程まで正常な座位ではない姿勢を取っていて、頭部を急激に動かしたのでしょう。そうした体位変換に伴って誘発眼振が起こり、アバターの視線の動きに反映されたのです。そうなれば後は簡単です。床を這って何か探しものをしていたか、仮眠を取っていたか。後者のほうが確率は高い」
「なるほど」
アバターのわずかな動きから相手の状態を推理するとは。優れた観察力は流石、
「さて事件の概略ですが、ペットの殺害事件なのです。しかも残虐な」
「これは大変痛ましい事件です。殺された狐の飼い主であるハドスン夫人はペットの死を悼み、そして誰がこのような惨たらしい事件を起こしたのか知りたいと、私に調査を依頼しました」
写真をよく見ると、狐の首にはリストバンド型の有機デバイスが巻き付いている。しかも、ただ巻き付いているだけでなく、生体に半ば融合していた。つまり、これは単なる生身のペットではない。
「アンドロイドですか」
「左様。このエキゾチックな生物を模したペット型アンドロイドは、自宅に設置されていたペット用の医療マシンを使って命を奪われたのです」
スクラップブックのページをめくると、前脚に採血用のチューブを挿したまま、血溜まりの中で死んでいる狐の写真が大写しになった。たとえペルソナによって知性を得たアンドロイドと言えども、その身体の大部分は有機物だ。可愛らしい小動物の画像ならいざ知らず、こんな画像を用意するなら先に断りを入れてほしいものだ。
しかし、
「さて、ミズ・ワトソン。一体、誰がどのような目的で狐を殺害したのか。推理できますか?」
その推理を披露するのが
「医療マシンの不具合では?」
狐の死体は医療マシンの上にあったのだから、素直に考えれば医療マシンが狐殺しの犯人だろう。採血しようとして誤って大量の血を抜いてしまい、狐は死んだ。だが、それだけの事件であれば全く興味をそそられる内容では無い。どちらかと言えば単なる事故だ。
「残念ですが、医療マシンに不具合は見つかりませんでした」
あっさりと否定されてしまった。予想はしていたけれども。
「それでは、医療マシンが意図的に狐を殺したということではないですか? 医療マシンもペルソナを持っているはずですから。実は医療マシンのペルソナは隠れてペットを殺してきたサイコパスだったとか」
「そうですね。確かに、医療マシンが狐を殺したのは事実です。それでは、その動機は分かりますか?」
「分かりません」
「そうですよね。動機が無いのです。ミズ・ワトソン」
「ペット用の医療マシンと言えども、その仕事は病気を診断し、怪我を治癒させることです。医療マシンのペルソナはアンドロイドの供給会社が独自に手配したもので、模範的な医療従事者の人格を有しています。医療ミスも全く無い。医療マシンのペルソナに異常が見られない以上、医療マシンの意思が事件の原因に繋がったとは考えられないでしょうね」
「それじゃあ、狐を飼うのが面倒になって、飼い主が殺したんじゃないですか?」
私がぶっきらぼうに言うと、
「写真を見れば一目瞭然ですが、飼い主は狐に愛情を注いでおり、狐も彼女によく懐いています。最早、家族の一員と言っても過言ではない。そのような愛らしい存在を自らの手にかけるほど、飼い主が精神的に参っていたという事実もありません」
飼い主が犯人だという線も無し。
「では、近所の人間が飼い主に怨嗟か嫉妬心かを抱いて、医療マシンに細工して狐を殺したのでは」
「ミズ・ワトソン。やたらめったら推理を口にすれば当たるというものではありませんよ。家のセキュリティシステムには、誰かが家の内部に侵入したという記録は残っていません。それに、近所の人間が飼い主を恨んでいたということもありませんでした」
謎めいた笑みを浮かべる
「狐は自らの意思で、検査のため採血するように医療マシンを設定し、検診プログラムを実行しました。医療マシンは設定された通りの検診プログラムに従って狐の脚から採血を開始しましたが、何故かチューブを挿して採血が始まると停止しています」
そこまで言うと
「医療マシンの動作中に予期せぬ
予期せぬ
「犯人は巧妙にプログラムを書き換え、医療マシンを殺人マシンに変えたのですよ」
「一体、誰がそんな残酷なことを?」
私の問いに対して、
「狐自身が、ですよ」
「はい?」
狐が医療マシンを操作し、自ら命を断った? 確かに可能ではあるが、目的が分からない。
「どうしてそんなことを。バックアップがあるとは言え、自分が死ぬんですよ」
「勿論です。しかし、狐にとっては自ら死ぬこと自体が目的だったのですよ」
「どういう意味ですか?」
「最近のアンドロイドは長寿です。野生の狐が10年程度しか生きられないのに対して、アンドロイドの狐は30年近く生きられる。それに加えて少食で、疫病にも罹りにくい。遺伝子操作の賜物です。さらにペルソナを搭載しているおかげで、怪我をしても自分で医療マシンを使いこなして治癒してしまう」
一般的に考えれば、ペット型アンドロイドは良い事づくめのように思える。手間もかからない理想のペットだ。しかし、そのようなアンドロイドとしてのペットの特徴が、狐の自殺と何の関係があるのだろう。私が首を傾げると、
「世話要らずのペットなど、ペット産業にとっては売上に打撃を与えるだけの邪魔者です。自宅で簡単にペット型アンドロイドを治療できる医療マシンのせいで、獣医師の職も奪われてしまいました。ペットは愛され、手を尽くされてこそ、初めて意味を持つ存在なのです。だからこそ――」
パチンと指を鳴らして、
「狐が事故に見せかけて自殺するように、アンドロイドの供給会社が狐のペルソナに罠を仕組んだのですよ。たとえ一度や二度、死んでしまっても、愛するペットであれば生き返らせたいと望むのが飼い主というものでしょう。アンドロイドの買い替えを促すには良い機会です」
確かに、最近はアンドロイドの耐久性が上がっていて、よほどの理由が無ければ買い替えを行わない持ち主が増えてきている。アンドロイドのメンテナンスも軽減されているし、アンドロイドの供給会社が売上で苦戦するというのは尤もだ。
「飼い主の愛情を利用して、アンドロイドを継続して購入するように、アンドロイドの供給会社はこのような自殺機構をペット型アンドロイドを仕組んだ。ペット型アンドロイドには知性があるとは言え、その処理能力はせいぜい幼児に毛が生えた程度です。医療マシンを誤って操作してしまい、事故死したとしても疑いはかからない」
腑に落ちるような落ちないような。それが
「ここまでの推理を立証する必要があります。そこで、狐のペルソナを調べていただきたい。自殺に至るような、繊細な性格であったことが分かれば良いのです」
紆余曲折を経て、ようやく
「承りました。ペルソナを調査するように手配いたします」
「ありがとう、ミズ・ワトソン。これで
「結果は後日、お知らせいたします」
「楽しみにしておきますよ。これで私も違法なペルソナの売買に関する事件を忘れられます」
***
今、私のディスプレイにはペルソナの調査結果が表示されている。ペルソナの性格を診断した結果、小動物を痛めつけたり殺したりする残虐性の傾向が見られた。このような反社会的な傾向を持つペルソナであれば、ペット型アンドロイドの狐を失血死させても不思議ではない。しかし一方で、それが獲物を狩る習性を持つ狐のような動物のペルソナであれば、妥当な傾向とも言える。
ただし、ペルソナの
「替え玉か」
私のディスプレイを後ろから覗き込んで、同僚が眼鏡を押し上げた。狐が検診プログラムを走らせる直前、狐と医療マシンのペルソナは入れ替わっていた。狐は医療マシンに成り代わって、自身の身体のみを殺したのだ。つまり、狐の死は事故死でも自殺でもない。これは故意に起こされた事件だ。
「狐のペルソナに細工して、事故死に見せかけるように仕組んだのはアンドロイドの供給会社でしょうね。アンドロイドの買い替えニーズを作ろうとしたんでしょう」
アンドロイドの供給会社から見れば、ペット型アンドロイドを殺された飼い主からの訴訟や賠償金の支払いに備えるよりも、ペット型アンドロイドを殺して本体を買い替えさせるほうが利益に繋がるのだろう。事故死と思われるペットの死について、わざわざ調べさせるような飼い主が何人もいるわけでもないだろうし。
一方、
だが、
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