第13話

 

 ジェラルド家を執事に見送られて出たのは夕刻、少し日も暮れはじめた頃。

 アルバートは馬車内の座椅子に座ったや否や、早速向かいに座る貴婦人に語りかける。


「いいか、イチ。俺から離れるなよ。もし俺が他の方と踊らなければいけなくなったら、絶対壁側にいるんだぞ、隅の方だぞ」

「分かりました、大丈夫です。それに」

 イチは苦笑して少しだけ伸びた横髪をそっと耳にかける。

「日本人でこんな短い髪をした者など、皆様方からすると視野にも入らないと思いますが」

「イチ……」

 アルバートは眉間にしわを寄せてこめかみに指を当てた。

「確かに、現在我が国での亜細亜人の地位が低く見られているのは申し訳ないが認めよう。しかし、イチは別だ。リチャード・メイがいつも言っているだろう、何だかの微笑みだとかかんとか。今、ヨーロッパ中の美術界でオリエンタルが流行っているんだ。イチは、その」

「美術的価値として良く見られる?」

 面白そうにゆっくりと笑う黒瑪瑙(くろめのう)の瞳にアルバートは、うっ、となる。

 深いため息をついてその魅惑的な漆黒の瞳を見る。

「それもあるが、俺が言っているのはそんな事じゃない」

「?」

「美術的価値を抜いても、イチは魅力的なんだ。俺みたいにほだされる輩が出て来るのが心配なんだ」

 アルバートのストレートな言葉にイチはしゅっと頬を染める。アルバートは又しても、うっとなる。

「くそ、その顔……ここだけにしてくれ」

「アル、言葉……それに、これは私の所為ではありません」

 恥じ入って俯くイチの白いうなじがアルバートを誘う。

「イチ、本当に、わざとじゃないだろうな」

「何を……」

「今、キスをしたら化粧が落ちる」

「アル」

「抱きしめたらドレスが崩れる」

「……」

「待てと言われた犬みたいだ」

「ふふっ」

「お前っ」

「だって、ふふっ……アル、犬だなんて」

 以前は拳で口元を隠していたが、今はもう手を添えるだけだ。随分と所作が女らしくなった。いや、戻ったという事か。だがその笑顔が破壊的なのは前も今も変わらない。

 はーー……とアルバートまたため息をついた。

「笑顔禁止、ダンス禁止、喋るの禁止、としたい」

「何を言って」

 流石にイチが呆れた顔をした所で、馬車が止まった。扉が開き、アルバートが先に降りる。そして左手を伸ばしイチに差し出す。

 イチも右手をそっと乗せた。

 満足そうに笑ったアルバートを見て、イチも嬉しそうに微笑む。やはり破壊的に。

 ドレスの裾を慎重に掴みながら降りたイチを待ち、そのまま自分の腕に手を添えさせ、アルバートは前を向いてゆっくりと歩き出す。

「なるべく笑わない様にしてくれ、頼む」

「無茶な事を」

「せめて俺に向けて笑ってくれ」

「……分かりました」

 仕方ないアルですね、と言った声が甘いので、アルバートは見ない様し、ともすれば囚われてしまうのを防ぐ。

 無意識なのがまた最強だ。しかも今日のイチはいつもの様に自分の腕の中に閉じ込めておく事も出来ない。

 実質の社交界デビュー、ジェラルド男爵次男の婚約者としてのお披露目でもあるからだ。


 玄関ホールから舞踏会の会場の大広間へと廊下を歩く。少し照明が抑えてある廊下の先からはくぐもった弦楽の音色が聞こえる。

 黙っているイチは、緊張しているのだろう。

 広間に入る前に、少しだけ歩みを落とす。

「アル?」

 変化に気付いてイチがこちらを見た。

 アルバートは身体をかがめて素早く頬にキスをする。

「……」

 無言でとがめる目をしながら少しほっとした様な顔をした。

「堂々としてろ。今日こそは俺がお前を守る」

 ドダリー卿の二の舞にはしない、と暗に言うと、気にしなくていいのに、と気遣う様な目の色をしたが、やがてニコッと微笑んで、よろしくお願いします、と囁き前を向いた。

 それを受けてアルバートも歩き出す。

 大広間の扉に近づくと、ゆっくり開かれ、弦楽四重奏の音色と共に喧騒と明るい舞踏広間と社交の間が目の前に広がった。



 ****



 ジェラルド家次男と共に広間に入ってきた女性を見て、貴婦人達はまあ、と溜め息をついた。

 流行のツーピース・ドレス。若草色のドレスに銀糸の小花の刺繍が散りばめられている。

 背中から床にかけて下がっているトレーンと呼ばれる長い裾は淡い金色で、やはり同色の糸で蔦をモチーフにした刺繍が刺してあった。

 また、紳士達は何も言わずにごくりと喉を鳴らす。

 背中部分が浅いVラインに切り込まれており、華奢な背中のラインが見える。

 惜しむらくは髪の毛が短い事だが、その艶やかな黒髪は伸びて結い上げようものなら、うなじが遠目にも匂い立つ色香を醸し出しそうなのは容易に想像出来た。

 だが、紳士達は黙ってほぞを噛む。

 魅惑的な黒瑪瑙くろめのうが見るは、隣の婚約者。

 その柔らかい眼差しには、他の誰も見えていない。


 主催者への挨拶が終わった後、お決まりのカドリールが終われば後は自由に歓談の場となった。

 自然と、今日の話題の華へ目線も集まる。

 ジェラルド家次男の横を片時も離れない様が、いじらしく、愛らしく、また次男の溺愛振りを見て、嫉妬の目も半分は諦めと失笑に変わった。


 美しい黒瑪瑙が先日噂になった美術鑑定士だったという噂を聞きつけて、果敢にも挑みに行った紳士がいたが、次々と繰り出される美術談義に這々ほうほうの体で去った所を見ると、一筋縄では行かなそうだ、と扇子の中で感心させられていたとは、本人の預かり知らぬ所。

 もっとも、ワルツを一曲踊った所で直ぐにバルコニーへ隠してしまったジェラルド家次男の手際の良さから見ても、今後黒瑪瑙に手を出す者はほぼ居ないのでは、という下馬評となった。


「足、大丈夫か?」

「すみません、慣らしてはいたのですが」

 バルコニーのガーデンチェアに座ったイチに足を出させてヒールを脱がすと、両足首の裏と足先の甲に擦り剥きがあり、じんわりと血が滲んでいた。

 アルバートは内ポケットから木綿のハンカチーフを出すと歯で裂いて器用に右足から患部を巻いていく。

「アル、凄いですね」

「昔取った杵柄だ」

「?」

「やんちゃだったという事だ」

 ああ、と頷いてふふっと笑うイチは、舞踏会の柔らかい内明かりに照らされてとてもあどけない。

 舞踏会の中では気を張って美しく保っていた姿勢が、このバルコニーでは和らいでいる。

 美しく貴婦人然とした装いなのに、無防備に足を晒している姿はアルに喉の渇きを覚えさせた。そして一抹の不安も。

「イチ、知っていると思うが、俺以外に男の前で足を晒すなよ?」

「え?」

 きょとんとしている顔に、やはりか、とため息つきながら左足の足首を巻き始める。

「イチの国ではそうではないのか?」

「あの、仰ってる意味が」

 本日何度目かの長いため息をつくと、これはもう実地で教えないと分からないか、と悪い顔がもたげてくる。


 その無防備な顔が、どう変わるのか……見てみたくなるのは男としての性。


「アル? あの、どう……なに……や、やめ……そんなとこ……やぁ!」


 バサバサッとドレスを下ろして丸まっているイチを見ながらぺろっと血の味がする唇を舐めると、やり過ぎたか、と一人ごちる。

 俯いているうなじが真っ赤で、すまん、もうやらないと顔を上げさせると羞恥でどうしようもなく潤んだ黒瑪瑙の瞳は、アルを充分に満足させるものだった。

「イチ、可愛いな」

「知りません!」

「足、最後だけ巻かせてくれ」

「もう巻かなくていいです!」

「もうここではしない。ドレスが汚れる」

 ドレスが汚れるといったアルの言葉に、イチは涙目で睨みながら今度はほんの少し、足先だけを出した。

 優秀な生徒に満足して手早く巻くと、ドレスの中に隠れてしまう前に足の甲にキスをした。

 アル! という悲鳴にすまんすまん、とイチをさっと抱き上げる。

「さ、もう帰るぞ」

「この格好で?!」

「牽制には充分だろ」

「歩けます」

「イーチ、今日は俺が守ると言っただろ?」

「……仕方……ないですね」

 渋々、といった体で頷いたイチに腕を肩に回させると、目線が一緒になった。

 吸い込まれたかの様に、イチの瞳が覗き込んでくる。

 最近、気が付いたのだ。

 たぶん、イチは。

「俺の目が好きか?」

「!」

「俺もお前の瞳が好きだ」

「アル」

「黒瑪瑙の様に、綺麗だよ」


 たまらずしゅっと染まった頬に口付けた。

 返答はなんとイチからの初めての口づけで、舞い上がってしまったどこぞの誰かは肩をバンバンと叩かれるまで離さなかったらしい。


 足を痛めた美しいオニキスは婚約者の肩に顔を埋めて、皆様に顔向け出来ずに申し訳ありません、と鈴の音の様なか細い声で挨拶をしたかと思うと婚約者と共に風の様に去っていった。




 後日社交界にまかれた噂は以下の通り


 ーーージェラルド家次男の元にオニキスの至宝あり、黒瑪瑙の瞳が見るはジェラルドの翠眼のみ。他は入らずーーー


 ジェラルド家に届く招待状の束が無くなり、やっとアルバートは少し軽くなった肩を鳴らすのであった。









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黒瑪瑙美術鑑定士は狙われる なななん @nananan

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