第12話

 後日、アルバートとイチは二人揃って大英美術館に到着した。アルバートは先に馬車を降り、イチに手を貸す。

 後から続いて出てきたのは、男装の麗人だった。

「一人で降りられます」

「レディには手を貸すと決められている」

「この格好ですし、大丈……」

「ここは手を取って降りて欲しいんだ」

「そんなに怒らないで下さい。仕事中はこちらの格好の方が都合が良いのです。決して貴方から贈って頂いたドレスを着たくない訳では」

「午後、帰ったら」

「……分かりました。着替えます」

 馬車の扉近くで押し問答している主人達の会話を、御者は小刻みに笑いを堪えながら耐えて待っている。

「メイスン、何笑ってる」

 主人の低い声に、いえ、何でも、と返し、正午過ぎに迎えに上がります。と言って一旦戻って行った。


 見慣れたバックヤードの外扉を叩くと、灰褐色の頭がひょいと表れ、直ぐに開かれた。

「おはようございます、レディ・イチ。おや、今日はミスター・ジェラルドもご一緒ですか?」

「ええ、例の北斎を知りたい、と。ミスター・メイ、用意出来ますか?」

「大丈夫ですよ、お入り下さい」

 二人を迎え入れたメイは、細い廊下を先導して例の地下への扉を開いた。螺旋を下り待っていると、メイが奥の扉から二つに分けた浮世絵を持って来て、大机に広げてくれた。

 右に三枚、左に一枚。

 アルはじっと四枚を見比べるが、やはり何が違うのか分からなかった。

「ミスター・ジェラルドは美術に目覚められたのですか?」

「いえ、そうゆう訳では無さそうですが」

 後ろでこそこそと話す声にため息をついて身体を起こす。

「贋作が出たとあらばイチを預かっている男爵家として、議会に報告する義務があるだけだ。書類を書くのに実物も見ないで書けないだろう?」

「意外とちゃんとなさっているのですね」

「どういう意味だ」

 アルバートが細目でメイを睨むと、

「ええ」

 とイチはゆっくりと微笑んだ。

「アルはいつも仕事をきちんとされています。尊敬しています」

 黒瑪瑙くろめのうの揺るがぬ眼差しに、アルバートはたじろぎ、ん、まぁな、と咳払いをする。

 兄の代わりをしているだけで実際はこれといって信念がある訳では無く、ただ滞るのは性に合わないので手元にある仕事を片付けていっているだけなのだが。

 イチに仕事が出来る男に見られるのは、満更でもない。メイがニヤニヤ笑っているのは頂けないが。

 再びメイを睨んでアルバートはイチの方へ向いた。

「俺にはどこがどう違うのか分からん。イチ、説明してくれ」

 アルバートの言葉を受けて、イチは、分かりました、と浮世絵の前に立った。

「浮世絵が版画の技法で描かれているというのは、ご存知ですよね?」

 同じ絵柄が四枚。西洋の印刷とは違うが、刷ってある物である事はアルバートでも分かるので頷く。

「技法として、絵師が墨で絵を描き、彫り師がそれを版木と言われる木に移して彫り、刷り師が版木に色を付けて刷っていくのですが……どうもこの一枚だけ刷り師が故意か不注意か、大波の一番深い藍の色の部分を二度

、いや三度刷りしているのです」

 ええ? とアルバートは贋作と言われる物と真と言われるものを並べて比較するのだか、やはり素人目には分からない。

「こちらの三枚は一色でこの深い藍色を出していますが、〝真〟ではない、と言ったこちらの一枚は薄く藍の色を重ねて深い藍色を出しています。刷り師が色をのせて行く際には絵師が立ち会うのが常なので、葛飾北斎の指示だった可能性が高い。落款らっかんは本人の物ですので」

「つまりこちらの一枚は色味を見る為に試し刷りをした物だと」

 アルバートの言葉に、イチは嬉しそうに頷いた。

れもなく同じ所に重ねて行っています。熟練の刷り師です。他の物と遜色そんしょくがないので北斎も落款を押したのではと思われます」

「しかし、言わばプレの商品となりますよね。版元も承知の上との事、と言う事ですか?」

 メイが興味深げにイチに聞く。アルバートとしても、正しい商品と実験に使った商品が同等の価値で英国に来たのか? と気になった。

 イチは複雑そうに苦笑した。

「もともと、浮世絵の価値はそれほど高くはなくて……それこそ日本からの陶器の輸入品を包む紙代わりに使われて来たものを、こちらの方々がお認め下さって、今、大英美術館で所蔵されるまでになりました。当の北斎はそれ程の価値になるとは思っていなかったと思いますよ。

 出来が良かったので落款を押した。どうせ版元もここまでの出来だと気付く事もないだろう、と、一種の茶目っ気の様な気がしてなりません」

 イチはそう言うと穏やかな、嬉しそうな目で〝真〟ではない一枚を見た。

 イチの目には、まるで北斎と彫り師が腕を組んでニヤリと笑っている様な情景が目に浮かんだ。

「ミスター・メイ、ミスター・ジェラルド。お二方にお願いしたいのですが」

 黒々とした瞳が二人を真摯に見つめる。

「〝真〟ではない、とは言え、間違いなく本人の作です。この一枚も、大英美術館に保管して頂ける様、御尽力頂けないでしょうか」

 贋作となれば一筆書いて叩き売り、もしくは焼却処分となるが、これは〝真〟に近く、さらには恐らく世界で一枚しかない、

 〝真〟に近い葛飾北斎作「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」となる。

 イチは、自分も美術鑑定士として鑑定した経緯を一筆添えるのでお願いしたい、との事と、もしかしたらエスペシャルな一枚として将来価値が出るかもしれない、とも伝えて欲しい、と頭を下げた。

「勿論です。レディ・イチ」

「イチ、お前の望む様に尽力する」

 二人が力強く頷くと、イチは花がほころぶ様に破顔し、ありがとうございます、と言った。

「な、なんと美しい微笑みだ……! 蝶が舞い華が咲く……例えるならば、以前フランスで観たピエール=オーギュスト・ルノワールのジャンヌ・サマリーの微笑みに近い! 彼女は残念ながら赤毛の髪だが、レディ・イチが彼女の様なドレスを着、美しい微笑みをルノワールの筆で描き留めて貰えるのならば……」

 リチャード・メイが明後日の方を向いて夢想してる間に、アルバートはイチの手を引いて螺旋階段を駆け上がった。

「ああ、待って下さい、ルノワールと連絡を取りますのでぜひ」

 メイの言葉をバタンと扉を閉めて遮ると、アルバートとはイチの腰を抱えるが如く早足で細い廊下を歩いてく。

「あ、アル、あの、ミスター・メイのあの調子はいつもの事ですから」

 心配せずとも一通りの賛美が終われば元に戻ると言うと、アルバートは苦虫を潰した様な顔で大英美術館の外扉を開けた。

「例えあいつがイチに美術的価値としての好意しか持っていないとしても、お前の顔をあの恍惚としたすけべ親父の前に晒したくは無い!」

「アル、言葉が……」

「オズワルドの様な事を言うなっ」

「アル、あっ」

 外扉の踊り場から階段を下る時に足がもつれて声が出た。アルバートはさっと振り向き受け止めるとひょいと横抱きに抱える。

「……そそっかしいのか、足が悪いのか」

 イチが転びそうになる事を想定していたかの様な動きに、イチは目を白黒とさせる。

「あ、ありがとうございます」

「よくたたらを踏んでいるが……足が悪いのか? 隠し事は無しだ」

「いえ、足は悪くないのです」

「じゃあ何でそんなに転びそうになるんだ」

「……大股に歩くからです」

「なに?」

「……男性の様に大股に歩こうとするので……よく足が絡んでしまうのです」

 恥じ入る様に俯くイチのうなじが赤い。

 アルバートはそれこそ大股に歩きながら大通りで待っている馬車へと向かう。

「ではこれからはもう転ぶ事はないな」

「え?」

「イチは今日をもってミスター・ハジメからレディ・イチになるからだ」

 午後、カントリーハウスから母を呼び寄せてある。父には文で知らせ、兄にはもう連絡が届き、こちらへ戻る旅の途中だろう。

 略式とはいえ正式にイチをジェラルド男爵家の一員として迎え入れる旨をそれぞれ伝えた。文句は言わせない。ごねるなら家を出るまでだ。

「イチ、約束、覚えているよな」

「ドレス……慣れないのですが」

 母国でも一度も着て居ない、と不安そうなイチに、俺がエスコートする、と言い、それに、と言葉を紡いだ。

「慣れてもらわねばならないのだが? レディ・イチ」

 片眉をあげにやりと笑う翠眼に、黒瑪瑙はその美しい瞳を拗ねたように見上げた。

「承知しました。ミスター・アルバート。いえ、アル」

 慌てて言い直した愛しい人の頬に軽く褒美のキスを落とし、馬車へと乗り込んだ。



 大英美術館からタウンハウスまでの短い間に、何回褒美を挑んで何回断られたかは預かり知る事は出来ないが、到着した際にがくっと腰砕けによろけアルバートに抱えられて屋敷に入ったイチの様子を見ると軍配はアルバートに上がったらしい。

 御者がくっくっと忍び笑いをしながら、馬車を動かして行く。

 見上げた空は倫敦にしては珍しく突き抜ける様な秋晴れ、まるで二人の前途を祝しているみたいだな、と、ずっと二人を見守ってきたメイスンは清々しい気持ちで馬場へ向かった。



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