第9話

 イチはルーペを胸ポケットに入れると、懐中時計を取り出し時刻を確認した。

 先程まで見ていた波立つ浮世絵を再度、今度は鑑定士としての目ではなく、観覧者の目で見る。

 力強く、静謐で、美しい。

 日本の美がここに集約していると思った。

 ああ、アルと一緒に見たい、とも。


 最初に会った時から、不遜な人だと思った。

 一言の挨拶で終わり、こちらを無視しながらも観察している。でも。

 イチの体調の変化に一番早く気付いて声を上げてくれたのも、アルバートだった。

 お酒が飲めない事も、看破してくれたのだろう。風が当たるように座らせてくれた心遣いに、もう惹かれていたと思う。


 イチは無意識に横髪に手をやり、無い髪を思い出し耳にかかった短い髪を耳にかけた。

 人前にいる時は緊張しているので出ない癖が、この地下室にいると何度も出る。

 惜しんではいない。惜しんでは……

 自分ではそう思っているが、手は正直という事か。

 イチはため息をついて側にあるチェアに深く座る。背もたれに身体を預け、そっと目を瞑った。




 ****




「お市、こちらに」

「はい、父様」

 日当たりのいい離れに呼ばれ、市は父と向かい合わせに座った。

 庭にメジロが名残の桜花をついばみに来ている。成田屋の桜は山桜を植えてあり、近隣に咲く桜よりも早く、往来の人々の目を楽しませていた。今も、遠くでここの桜はお早い、という声が聞こえる。

「お市、以前話していた事だが」

「はい、承知しております」

「すまんな」

「……いえ」


 兄が亡くなる事は、もう以前から承知の事だった。もともと虚弱だった兄が、急速に身体を悪くしはじめたのはここ半年の事だ。

 成田屋の跡取りとして他家へ丁稚から働き始め、ここ数年は成田屋へ戻り父と一緒に旅をしながら骨董の収集に努めていたのだが、旅の疲労が徐々に兄の身体をむしばんでいた。

 どんどんと痩せていく兄に何度も旅に行くのを休んで欲しいと言ったが、骨董に会えるのは一期一会なんだ、その機会を逃したく無いんだ、と無理を押して行ってしまった。

 ある冬の日、吐血し倒れた時には、もう手の施しようがない、もって春まで、と医者に宣告され、そしてその医者の言った通りに命を消して逝った。病床で心待ちにしていた、桜の花は待たずに。


 父はそんな兄をずっと静観していた。

 母亡き後、父や兄の留守を守っていた市が、何度も父に兄の事を訴えても父は何も言わず、ただ首を振るだけだった。

 理解出来ず、兄にとっては最後の旅になった出立の前夜、既に頰がこけ、細身になってしまった兄を思い行かせられないと啖呵を切った市に、父は無言で目の前に立った。

 至近距離に寄せられた父の目はほの暗く、薄っすらと血走っていた。

「お前は……私達に死ねと言うのか?」

 静かな、猛るでもない、今夜の夕餉はまだか? と言わんばかりの声色だった。

 目に映るは市では無く、ひたすらに骨董だけを追い求める、狂気の目。

 息遣いなく薄く笑った父の目を見た時、

 市はもう何もかも諦めた。

 骨董に出会えるのは、一期一会なんだ、と言った兄と、同じ目の色だったから。



 その兄も今はもう居ない。

 一年前から話が有り受けていた英国での美術鑑定の話も、父は兄の状態を慮(おもんぱか)る事もなく受けていた。父は骨董を探す旅を維持する為、資金を欲していたからだ。

 一度英国に行ってしまえば戻っても戻らなくても大金が支払われる事は、事前の約束で政府から合意されていた。

 もう、支度金として前金も支払われ、父は既に手を付けていた。

 そして場合に寄っては戻らずともよい、とさりげなく市に言った。跡取りは番台の吉之助を養子にする事が決まっていたのだ。

 吉之助は既に妻子が有り、市は用済みの娘であった。


 市の代わりに泣きながら髪を切り、支度をしてくれたおきよとお八重に見送られ母国を離れたのが、もう遥昔に思える。

髪を切り、兄の代わりになると決めたのは市の意思だった。もう、成田屋には戻れない。一人、美術鑑定士として生きていくには、女のなりよりも男の方が、自衛の為にも都合が良かった。




****




 薄く目を開けると、そこは薄明かりのついた大英美術館の地下室で、ゆっくりと立ち上がると色鮮やかな浮世絵が佇んでいた。

 イチは机の隅にある紙を二枚取り、ある文字を書く。一つは短く、一つは少し悩んだ後、ざっと書いていく。

 贋作という文字は使いたくなかった。自分の様に惨めに丸めて捨てさせたくは無かった。どうしても、この一枚だけは。


 後で説明する為にも、短い文に纏めた。

 それぞれをそれぞれの場所に置き、また時計を改める。

 あと数分で正面玄関に出なければならない。

 メイはランチやティータイムの時以外は、邪魔をせずこちらへは来ないので、イチが居なくなった事は正午過ぎに発覚するのだろう。

 状況を知ったアルの顔が目に浮かんだが、ごめんなさい、と心の中で謝った。


 昨晩開けたドダリー卿の招待状に書かれていたのは。


 ーー親愛なるオニキス。

 明日、十一時半。大英美術館、正面玄関にお迎えに上がります。どうかお一人で来られる事を願っています。高尚なる美術談義は二人だけで、と英国では決まっているのでね。

 貴方の忠実なるしもべよりーー


 へりくだった言葉が、かえって強制力を持っているかの様だった。

 アルの立場を考えると、断る手立ては無いとイチは見ていた。それに、アルを窮地には立たせたく無い。

 イチは仕事が終わればこの国を離れる身だが、アルや男爵家に取ってはこの件が後々引きずる事になるかもしれなかった。

 ドダリー卿のあの喋り方を見れば、それは明白な事だと思った。

 それはどうしても避けたかった。



 カツ、と螺旋階段を上がって行く。


 ーー迷惑をかけずに、今、出来る事を。


 ただそれだけを胸に、黒瑪瑙は意思をもって地下室の扉を開けて出た。

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