第8話

 その日の夕食後、気分が優れないので、と、部屋で夕食を取っているイチを見舞う。

 ノックをするとはい、と声だけがした。

 来訪を告げると扉近くまで来た気配はしたが、開けられる事は無かった。

「俺だ、開けてくれ、話す事があるんだ」

 アルバートは努めて冷静に言うと、私は有りません、と扉の向こうの声が告げた。

 にべもない返しに臆する事なくアルバートは続ける。

「ドダリー卿から招待状が来ている。イチ宛だ、俺では開封出来ない。だが内容は知りたい。開封して見せて欲しい」

 しばらくして薄く扉が開くと細い指だけがそろっと出て来た。無言だ。招待状だけ載せろと言う事だ。

 その薄く開かれた小ぶりの手だけでもこちらを魅了することを知らないのか。

 焦茶色の扉から覗く白い指をアルバートは少し強引に手前に引く。

 イチは扉の向こうで抵抗しているらしく、肘までしか出さ無かった。これ以上引っ張ると怪我をさせる。それは、本意ではない。

「イチ、約束だ。明日の朝でいい、開封したら内容を教えてくれ」

「自分で返答出来ます」

「違う、筆記の心配をしているんじゃないんだ。立場上、断る事が難しい。イチだけが招待されているのか、付き添いとして俺が行けるのかどうか……とにかく対策を立てたいんだ」

「……明朝お伝えします」

「必ずだぞ」

「分かりました」

「……」

「……手を、離して下さい」


 招待状を握らせつつもその手を離す事が出来ない。イチの手が逃げようと引っ込もうとする。


「俺は」


 アルバートはイチの手を握りしめた。


「俺は、お前が男でも女でもいい。

 ……愛している」


 息を呑む音と共に招待状が滑り落ちた。

 その薄く滑らからな左の手に想いを込め口付ける。


「それだけは、覚えておいてくれ」


 落ちた招待状を拾い握らせ、再度握りしめてからアルバートはその場を去った。

 残された左手は長い間扉から離れられず、出る事も引く事なくただ呆然と握りしめたまま、その場に佇んでいた。




 ******




「なにぃ?! また先に出て行ったのか!!」

 袖のカフスを止める手がとまる。朝、イチを捕まえ招待状の件を聞こうとかなり早く起きたのにも関わらず、イチはもうタウンハウスを出ていた。

「どうもイチ様の習慣として朝がお早い様です。私共の始業時刻と同刻には起床されている様でして、いつもは私共の支度を待って食堂に降りてこられるのですが、今日は仕事を急ぐから、と」

「ドダリー卿の件は」

「返信の封書を預かり先様にお届けしました」

「内容は!」

「個人的な封書なので存じ上げておりません」

「〜〜〜〜〜っ俺に伝言は!!」

「お仕事頑張って下さい、と」

「お前っっ!! それでも俺の執事かっっ!!」

「苦節三十年!!! アルバート様専属の執事でございます!!!」

 ぐぬぬぬぬと睨み合う。

「一先ず、今鑑定している物が終わらない事にはどこにも行かないと仰っていたので、直ぐにという訳ではない様です」

 同じ体勢のまま口をへの字にして器用に喋る執事の言葉に、アルバートは身体を元に戻した。

「今鑑定している物とは、何だ」

「葛飾北斎という画家の物だそうです」

「ホクサイ? 知らんな」

「日本の浮世絵の大家だそうです。貴族方の中にはコレクターも居る程ですよ。名前だけは覚えておいて下さい」

 ふんっと興味無さげに鼻を鳴らして支度を済まし居間へと歩き出す主人を見て、執事はまた眉を上げて、分かってないですね、と後ろから言った。

「興味の有る話題を振って女性を振り向かせるのは恋の常套句でしょうに」

 アルバートは早足で歩きながら、お前こそ分かっていない、と言った。

「イチにその話題を投げてみろ。お前は絶対後悔する。そして俺は……時間の有る時でなければ絶対に美術の話題には触れない」

 きっぱりと宣言したアルバートに執事は肩を竦めて首を振り、居間に到着した主人の為に扉を開いた。




 同刻、イチは大英美術館のバックヤード地下に居た。

 早朝、まだメイは出勤していないかもしれないと思いつつ扉を叩くと、灰褐色の頭がひょいと現れたので感謝しつつも驚いた事を言うと、「昨日早めに上がられて行ったので、今日は早く来られるかと」と飄々と答えてくれた。

 イチはメイの心遣いに再度感謝し、早速机の上に浮世絵を広げて貰う。

 四枚を横並びに均等に並べた。


 葛飾北斎作「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」、日本の浮世絵師と言えば北斎、と名が上がる大家である。

 富嶽三十六景の中でも神奈川沖浪裏はイチの母国でも人気を博し、その内の四枚も大英美術館が所蔵しているとは知らなかった。

 左手から画面一杯に広がる大波に、小舟が翻弄され、今にも飲み込まれそうな迫力の構図、秀悦なのは右奥にある富士である。手前の踊り狂う様な波とは対照的に小さく静謐に佇んでいる。

 イチは実際にある富士の高さを知っているがゆえにこの手前の波の高さも想像させ、更に胸迫るのだが、外国の人から見てその真意が伝わるのだろうか、と少し疑問に思う。

 今度アルに聞いて……と無意識に思い、はっとして頭を振る。

 真意が伝わらなくとも、大英美術館は四枚も所蔵した。その事に、芸術は、良いものは国を超えて認められるのだ。とまた心に留める。

 今日は些事に構っている暇はない。この浮世絵の真贋を決めねばならない。

 ……時間がないのだ。

 イチはルーペを目に当てる。

 一枚目の浮世絵の前に身体を折り、じっと見定めていった。

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