第7話
アルバートは猛然とタウンハウスに戻り、とにかく迎えには行って何とか話をしなければと執務室に入ると、机の脇のサイドテーブルに山のように積まれた封書に度肝を抜かれる。
「何…だっ、この量は!」
「…全てアルバート様宛の招待状でございます」
「っ…側に来たならば声を掛けろ!」
「そしてこちらが領地から届いた書状です」
執事は素知らぬ振りをして手に持っていた書類の束をドサッと机に乗せた。
「なっ、昨日送っただろうが!」
「…ジェフリー様が
「はぁ?! 何で巴里なんか」
「巴里でジャポニズムの展覧会と骨董市が開かれるそうで、イチ様がいらっしゃる間にご自分の
執事の淡々とした言葉に、アルバートは拳をぶるぶると震わせてダンッと机を叩いた。
「どいつもこいつも邪魔しやがって!」
「アルバート様、言葉が汚うごさいます」
「あんの馬鹿親父が!!」
「アルバート様!」
「うるさい!」
吠えたかと思うとフロックコートをソファに投げ捨て、父宛の書状を片っ端から読み始める。結局の所投げ出す事はしないアルバートを黙って見守ると、執事は一礼してお茶の支度をする為、下がって行った。
仕事に集中する為に一切を遮断してペンを走らせていたので、途中簡易なランチが置かれたのも、茶が置かれたのも、執事が扉近くて何か言ったのも目に入らず猛進していた。
一区切りがつき、目がぼんやりとしてスペルを間違えそうになったので、一旦休憩とする。身体を起こし、それでも次の書類を見ながら左手でスコーンを頬張ると、読んでいる書類の奥に黒いものが見えた。
(何であんな所に服が……っぐ?!)
ガタッと立ち上がって側に行くのだが、微動だにしない。慎重に俯いている顔を覗き込むと、イチは座りながら器用に寝ていた。
アルバートは一先ず安堵のため息を吐き、近くにあったクッションをソファの端に寄せて、イチの身体を楽な体勢にしてやる。いつの間にか畳まれていた自分のフロックコートを掛けてやると、イチは身動ぎはしたが、起きはしなかった。あどけない寝顔は例の学芸員が言ったように美麗だが、今は目の下に隈が出来ていて疲労の色が濃い。この様な顔にしてしまったのは自分なので苦く思いながらも垂れていた前髪を梳く。
初めての土地、慣れない慣習、度重なる移動に心身共に疲弊をしていただろう。それを自身の気力で補っていた所に、信を得た人物からの思いも寄らない行為。
冷静に考えれば酷い事をしたと自分でも思う。
しかし理性では止まらない物をアルバートは知っていた。他人はどうか、など関係ない。自分は止まらないというだけだ。
だからイチ対しても済まない、とは思わない。貪欲に手に入れる。
が、流石に寝込みを襲うのは憚られた。
髪を梳くだけに留め置く。留め置くのだが……
梳いても下がってくる横髪を耳にかける。その手で頬を撫でてしまう。また身動ぎしたイチの小桃色した唇がアルバートを誘う。
黒瑪瑙は瞑っていても魅惑する事を辞めない。それに抵抗出来る者など、居ようか?
一回だけだ、と心に決めた軽く触れるだけのキスはその堪え難い柔らかさに脆くも崩れ去り、バチっと頬を叩かれるまで続いてしまった。
「あ…」
「アル!」
悲鳴の様な抗議に我に還る。
「ああ…すまない」
「す、す、すまないでは済みませんっ…どいて…下さい…」
訴えられて、あ、ああ、と上体を起こすのだか、少し潤んだ黒瑪瑙を目の前にしてまた吸い寄せられる様に屈んでしまう。
「アル…っ! は、話をしに来たのです」
くぐっと両腕を身体の間に挟んで力一杯押してくる細腕の力無さにああ、やはり女だな、と再認識する。
「何だ?」
「この状態では話せませんっ」
「そうか?」
「アルっ!」
「冗談だ」
くくっと笑ってアルもろとも上体を起こす。
乱れたブラウンの髪を掻き上げていると、イチも体裁を整えて、こちらを見ていた。
ひたと見据えた目はウィンターの月の様に冴えていて、固い意志が見て取れた。
「お話があります」
「ああ」
「アルさまは…」
「アル」
「…アルは、その…お、男の人が、好きなのです…か?」
アルバートは突拍子も無い質問にまじまじとイチの顔を見る。イチは、どちらかと言うと冷静を装いつつも、緊張をしている様に見えた。
何故そんな事を、と一瞬思ったが、ああ、まだ告げていないのだったと思い出した。
「いや、俺は男色の趣味はない。イチ、俺は…」
それを聞いたイチの瞳が一瞬だけ見開いた。しかし直ぐに元の冷静な瞳に戻る。
「では、お戯れは辞めて下さい。いくらドダリー卿の件があるからとして、アルの名誉に傷が付きます。将来有望な方の道を閉ざす様な事はされるべきではありません」
「いや、イチ、あのな…」
「変な噂が立ってもいけません。しばらく美術館には私一人で行きます。色々とお忙しくされている様ですし、貴方の貴重な時間を頂く訳にはいきませんから」
「イ…」
「…私にとっても…都合が良くもあります。今集中しなければいけない案件が…とにかくそう言う事ですから、私の事はお構いなく、お仕事に集中して下さい。では」
怒涛の様にしゃべりながらするりと身体を返すと、最後の挨拶の時にはもう扉の向こうに行っていた。
流れるようなクイーンズ・イングリッシュに口を挟む事が出来ず、呆然と佇むアルバートの側で執事がティーセットを片付けている。
「おい!」
「何でしょう」
「何故俺は口が挟めないんだ!」
いつもは百戦錬磨の貴婦人達との際どい会話も卒なくすり抜けて言いたい事だけ言っているアルバートが、口を挟めない所か引き留めも出来なかった。
執事はそんな事も分からないんですか? と眉を上げる。
「古今東西、女性に弱い理由は一つです、
惚れた弱みですよ」
******
イチは長い廊下を通って当てがわれて客室に戻る。バタンと扉を閉めて奥にあるベットに頭を沈めた。
しばらくして身体を起こす。
耳がジンジンと赤いのが分かる。
きっと…頬も。
「……っ」
片頬をぐしゃっと握りながら空いた手でボスッと枕を叩く。
「アルの……」
心が乱れて仕方がなかった。
また翻って枕に突っ伏す。
執事が夕食の知らせを告げにくるまで、イチは一歩も動けなかった。
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