第6話

「何? もう行った?!」

 翌日、イチと今後の事を話すために執事にイチの様子を聞くと、執事ははい、と澄ました顔で答えた。


 昨日、アルバートとイチが美術館に行っている間にタウンハウスを整え、最低限滞在できる様にしてくれた彼は、アルバートに抱きかかえられながら帰って来たイチを見てすぐに客室へ誘導し、てきぱきと室内を整え、イチを寝かし執務室に戻ったアルバートに茶を出した。

「如何なさいました?」

 イチの様子を見て執事が心配そうに聞いてくるのを、ん、まぁな、とアルバートはお茶を濁した。

「長旅の疲れが出たのでしょうか」

「まぁ、そんな所だ。大事にしてやってくれ。さて…領地から持って来た仕事でもするか」

「アルバァトさまぁ?」

 執事はいそいそと執務机に座ろうとソファを立ったアルバートの前にさっと立つ。

「何だ、今から仕事だ」

「確かに、お仕事の出来る方だと存じております。しかしながら気持ち良くお仕事に向かう方ではない事も良く存じ上げております。…イチ様に何をなさったのです」

 髪を掻き上げて何も、と言おうとするのだが、イチの柔らかい唇の感触を思い出して一瞬、躊躇した。間髪入れずに執事が目を剥く。

「まさかっ! 紳士に有るまじき事を!」

「する訳無いだろう! 公共の場だ!」

「過去貴方が仕出かした振る舞い、胸に手を置きそれでも違うと言えますか?!」

「誓ってそこまではしていない!」

「では何をしたのです!」

「………キスをしただけだ」

 アルバートが仕方なく吐くと執事の毛が総毛立つ勢いで、貴方という人は!! となじられた。

「あの様な深窓のご令嬢に向かって! 何をやっているのですか!!」

「…知っていたのか」

 イチが女性だと気付いているのは自分だけだと思っていたが。

「当家に到着した際、馬車から降りる時によろめかれたので」

「…足が弱いのか? 俺の前でも…」

「存じ上げております。ですから昨日もお屋敷の中で粗相があってはいけないと私共の方でイチ様のお部屋をお守りしておりました」

「お前! 俺を何だと思っている!」

「アルバート様でございます!」

 ぐぐぐぐっとお互い睨み合い、引く事をしない。

「イチ様は当家にてお預かりしております、大切な、大切な、お客様です。確かにあの様に愛らしく、可愛らしく、黒瑪瑙くろめのうを細めてニッコリと微笑まれるとくらくらとしてしまう事は分からなくもありませんが、鑑定が終わりましたら速やかに自国へお帰りになる方です。その事、重々承知の上、自重なさって下さい!」

 息もつかぬと一息に言い放った執事に、アルバートは静かに言った。

「重々承知の上だと言ったら?」

「…アルバート様」

 ぎりぎりと睨んでいた執事の目が見開いた後、瞬時にすっと引く。正しい距離を取り、こちらを見つめた。

「正気ですか…」

「あれに魅入られれば誰でもそうなる」

「そうだとは言っても…」

「俺はこの件に関しては引かんぞ」

「ジェラルド家はどうなさいます、貴方様が居なければ」

「兄上が居るだろ、嫡男だ」

「ロジャー様は…」

「お前達は知らないだけで兄上は出来る人だぞ?」

「アルバート様…」

「それに俺は約束したからな」

「何を…」

 執事はアルバートのふふん、という幼き頃よく見た悪戯っ子そのものの顔を見た。

 アルバートの告白に、まさか、と応えると、信じる信じないはともかく、兄上とはそう言う約束だ。と悪びれず言うと、

「とにかくそう言う事だから、イチの事は頼む」

 と言って、今度こそ執務机に座って猛然と書類を読み出したのだった。



 それなのに、だ。

「イチの事は頼むと言った!」

「はい、頼まれましたのでこの様に」

「どう言う事だ」

「イチ様は今日は一人で行きたいと仰られましたので」

「ドダリー卿に狙われているのだぞ!」

「ええ、私もそう進言致しましたらば、本日はバックヤードから出ないから大丈夫だと」

「馬鹿なっ、それだとメイという学芸員と四六時中一緒になるじゃないか!」

「アルバート様と一緒よりは、と仰られたので」

「なっ……馬車を用意しろ!」

「無駄だとは思いますが」

「いいから用意しろ!」

 アルバートの憤怒の形相に、仕方ないですね、でも自業自得ですからね。と釘を刺して執事は馬車を用意させた。


 昨日と全く同じ道を半分の時間で走らせて大英美術館に着くと、バックヤードの扉は閉まっていた。

 アルバートがステッキで声高に叩くと、灰褐色の頭がひょいと覗いた。リチャード・メイだ。

「おや、ミスター・ジェラルド、如何なさいました? 昨日の鍵ならばハジメ様がお持ち下さいましたよ?」

「……ミスター・ナリタだ。ファーストネームは失礼だろう」

 名前呼びを咎めると、

「有難くも友人と認めてくださいましたので、大丈夫ですが」

 飄々とのたまうメイに、親しすぎるだろう、という棚上げな言葉を何とか飲み込んで低い声を絞り出す。

「……イチを出してくれ。話が有る」

「今日は勘弁して欲しいとの事ですよ?」

「イチに聞いているんだ!」

 メイは仕方がないですねぇ、と肩を竦めると、バタンと扉を閉め、鍵を掛けた。

「おいっ!」

 閉められた扉を強引に開けようとすると、今、聞いてきますからお待ちください、と扉の向こうで声がして、足音が去って言った。

 聞いてくるからといって、閉め出しは失礼だろう! と待っていると、足音が直ぐに戻ってきた。しかし開ける気配がない。

 ハジメ様は今日はお会いしたくないそうで、お引き取り下さいねぇ、と言って足音が去ろうとしている。

「待ってくれ、少しの時間でいいんだ!」

 一目も憚らず叫ぶと、足音が戻ってきて、貴重品を触っているので集中したいそうです、ではお預かりします。と慇懃な声が有り、今度こそ何を言っても扉は開く事はなかった。


 とても聞くに耐えない罵詈雑言を放ってアルバートが去ったのを察したメイは、バックヤードにある地下倉庫に下がると、数枚の浮世絵を広げているイチにアルバートが来て去って行った事を告げた。

 イチはルーペを目に当て、浮世絵から目を離さず、ありがとうございます、とだけ言うと、変わらずにそのまま集中している。

 メイはその姿にくすっと微笑むと、何か有りましたら上に上がってきて下さいねぇ、とだけ言って下がって行った。

 イチはそれには返事をせずにただひたすらに目の前の葛飾北斎作「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」と相対していた。

 同じものが四枚、部屋一杯に広がる大机の手前に均等に並べられている。

 画面一杯に立つ巨大な波の線を何度もルーペで見ながらなぞるのだが、ああ、と呟くと身体を起こして机の上にルーペを置き、部屋の隅にある椅子に身を投げ出す。

 やがて椅子の上に脚を折り畳んで小さくなると、ぎゅっと膝小僧に顔を埋めた。

 漆黒の髪から覗く耳を、薄っすらと赤らめながら。

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