第5話
一通り喋り終えたイチが満足そうにいそいそと展示品を正しい順番に並び替えている。
アルバートは垂れてくる前髪を何度も搔き上げながらため息を吐く。
(流石に俺でもあのトークを長時間は聞いていられん)
勘弁だ、と思いながらも嬉々として話すイチの
(イチは声色も愛らしいから音楽として捉えて聞き流す、とでもするか?)
大変失礼な事を思いながら一旦ガラスケースに鍵を掛け、二階にあるブースから階段を降りようとした時だった。
「イチ、こっちだ」
「アル?」
降りようとした階段踊り場の先にドダリー卿が居た。丁度階段に向かって歩いてくる所だった。
アルバートは有無を言わさずイチの手を取って足早に歩きだした。長い廊下を抜け、先程とは反対側の階段を下がっていく。
「アル、どうしたのです」
一緒になって付いてくるイチは、少し小走りなっている。
「ドダリー卿が来ている」
「彼の方が…」
イチの顔がさっと青ざめたのを見て、アルバートは更に足を早めた。
色々な部屋や回廊を足早に歩きながら身を隠す場所を探すのだか中々に無い。展示物はどれも見やすく配置されており、死角になる場所が無いのだ。
とうとうグランドフロアまで下がってきて、巨大な円柱と壁の間にあるバックヤードへの扉が見えた所だった。
二階の回廊からドダリー卿の姿が見えた。
見えたと言うことはこちらも気付かれた。
チッと舌打ちすると、アルバートはイチに声を掛けた。
「イチ」
「…はい」
息を切らしながら、アルバートを見上げた黒瑪瑙を捉え、円柱の影に隠れた。
そしてグッと腰を捉えて抱き寄せる。
「アル?!」
突然の事に身を固くするイチに、シッと言って黙らせた。
「ドダリー卿がこちらを見ている」
「は、はい…」
「実はドダリー卿を黙らせる秘策を思い付いた」
「なんです?」
「俺と恋人同士になっている事にするんだ」
「なっ」
イチは黒瑪瑙の瞳を目一杯開いて、こちらを見ている。アルバートは想像通りの顔を見て喉でくくっと笑ってしまった。
「アル!」
咎める瞳もまた魅力的だ。
そっと頬に手をやると途端に不安げに揺らぐ瞳も。
もっと見せて欲しい。
俺にしか見せない瞳を。
「ドダリー卿に見られている内に証拠を見せつけておこう」
「証拠って」
「これだよ」
頬の手を
「待っ」
「シッ、振りだけだ」
「ほ、本当ですか…?」
「ああ、振りだけ。目を閉じて」
黒瑪瑙の瞳の中にはアルバートしか写っていない。その瞳が揺らぎながら、迷いながら、白磁の様な白い瞼を閉じた。
その様にアルバートはゾクッとする。
素直に閉じてしまう黒瑪瑙。
こんな〝娘〟見た事が無い。
そう思った瞬間、たがは外れた。
「いい子だ、イチ」
言うが早いかアルバートは小桃色の唇を塞いだ。
んっ……やぁ……と言った小さなくぐもった悲鳴は聞かなかった事にした。胸に置かれていた細腕がドンと叩いたが抱き締める力を強めて動けなくする。
頤の手を首筋に沿って移動させ、もっと深く貪る事が出来る様にすると、イチは大人しくなった。
と同時に腰を支えていた腕にずしっとした重さが掛かる。
その変化に気付いて唇を離すと、アルバートはイチ諸共円柱に寄っかかってぺろっと自身の唇を舐めた。
「しまった…やり過ぎた」
意識を飛ばしてしまった相手が崩れ落ちない様に支えながら二階を探ると、ドダリー卿の姿は居なくなっていた。
「良し」
牽制は届いたと見て良いだろう。
だがその代わり……
アルバートはよっとイチを横抱きにすると、首ががくっと落ちないよう体勢を整えて歩き出す。
(どう、説明するか…)
男と偽っているイチの唇を奪った事によって事態が複雑化したのは間違い。
「しまった、キスする前に女だと気付いてると言えば良かった」
それよりも先に愛を告げるべきです! と進言してくれる執事は側に居なかった。
しまったしまったと言いながら、愛しい人を大事そうに運ぶ。
力なくアルバートに預けているイチの身体は思った通りに柔らかく、間違いなく女性の身体であった。
先日の舞踏会のテラスでよろめいたイチを支えた時、偶然脇に手を入れて支えた。柔らかな脇腹と共に不自然に相反した硬い胸の境を丁度触ったのだ。胸を何かで巻いている事を察し、アルバートはイチが女性である事に気づいたのだ。
バックヤードへの扉を肘で開けて狭い通路をゆっくりと歩く。
管理室にいたメイにイチの体調が不良になった事を告げ、明日体調が戻ったらまた此処に来させる事を約束した。
「すまない、鍵が胸のポケットに入っていて取り出せないのだか」
「いいですよ、明日持って来て頂ければ」
「だから無用心過ぎないか?」
「何度も言いますが人を見る目は養っております。それにしても…美しい! このしどけなく眠っている様は…ジョン・シンガー・サージェントを知っていますか? 彼の書く絵画の中にこの様な美しい寝顔の君がいるのです。秀作です、それに匹敵する程…ぜひ彼に見せてあげたいですねぇ」
「見せん」
「了見の狭いお人だ」
「なんとでも言うがいい」
メイはアルバートの物言いに片眉を上げ、コホンと咳払いをすると、ではまた明日。と慇懃に礼を取り、バックヤードから表へと出る扉を開けてくれた。
アルバートは短く礼を言い、待っていた自家の馬車に近付く。御者が慌ててドアを開けながら、心配そうにイチの様子を見やった。
大事ない、と言うと、ほっとした様子で、なるべくゆっくりやります。と言い、二人が中へ入ったのを見届けてドアを閉め、持ち場へ戻っていった。
起こさない様にゆっくりと座る。
体勢を整え、ステッキで小さく二回ドアを叩くと、馬車はゆっくりと走り出した。
揺れる車内の中、膝に抱きながら愛しい人の髪を撫でる。
黒瑪瑙の黒髪は直ぐにアルバートの指をすり抜けてしまう。
(美しい黒髪であっただろうに…)
国は違えど女性の髪は大切にされている筈だ。こんなに短くするなど…
何故、男として来たのか。
何故、偽らなけれならなかったのか。
何故、髪を切らねばならぬ程…
短くも艶やかな漆黒の髪に口付けをすると、物思いに耽る。
明日イチと話して、理由を聞こう。そして気付いている事も言おう。
アルバートはそう心に決め、何と言おうか、とまた思考の波に身を委ねた。
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