第4話
翌日、アルバートとイチは倫敦に向かう馬車の中に居た。社交シーズンが終わり居住をカントリーハウスに移した直後なので、美術館に行く為にはまずタウンハウスのある倫敦まで戻らなければならない。
イチは英国貴族の習慣を詳しく知らされてなかった為、倫敦から離れどんどんと郊外に連れて行かれる事にも不安を感じていたらしい。
「正直、勾引かどわかされたかと思いました。でもお屋敷に着いた時、執事さまが私の名前を正確に言って下さったので安心しました」
「それで、か」
おそらくイチはほっとし、執事にあの笑顔を振る舞ったのだろう。先日玄関ホールでの執事に緩んだ顔に納得した。
「今、タウンハウスには最低限の人間しかいない、追って家の者が来るまで簡易なもてなししか出来ないな」
「とんでもない、無理を言いまして申し訳ありません」
丁寧にお辞儀をして詫びるイチに、人が居ない方が何かと都合がいいか、と呟く。
「え?」
「いや、何でもない。そろそろ着くぞ」
馬車はドミニオン劇場の角を曲がり、しばらくしてブルームズベリー・ストリートを左折し大英美術館の脇に止まった。
「悪いがバックヤードから入る、いいか?」
「イエス、アル」
名前呼びが定着したな、とほくそ笑んでアルバートは先に降りる。
後から降りてくるイチに手を出そうとして、きょとんとされた。
「一人で降りられますが…」
「…これは失敬」
習慣で出してしまった手を慌てて下げる。
ばつ悪げにハットの鍔つばを握ると、またあの顔でふふっと笑い、おかしなアルですね、と黒瑪瑙はゆっくりと馬車を降りた。
バックヤードに通されて収蔵品の目録を渡してきた学芸員は、アルバートに向かって話しかけてきた。
「本日は足を運んで頂きありがとうございます、ミスター。リチャード・メイと申します。日本から鑑定士様が居らしているとの事をですが…」
「アルバート・ジェラルドだ。こちらが美術鑑定士のミスター・ナリタ」
「ハジメ・ナリタです。よろしくお願い致します」
紹介され名乗ったイチを見て、メイはおぅ、と感嘆の声を上げた。
「なんて素敵な黒瑪瑙くろめのうの瞳をお持ちだ! まるでハトシェプストのきりりとしたお顔立ちにネフェルティティのオニキスの様な輝きが合わさって、少年の様な少女の様な、なんとも危ういオリエンタルの美の集約…ああ!なんと美しい!」
あまりののめり込んだ勢いに、思わずアルバートが背中に隠す。イチもぎゅうと腕を掴んできた。
「あ、あの、優先的に見なければならないものから見て行きますが…」
背中の影からなんとか要件をイチが言うと、メイは失礼しました、と上体を元に戻した。
「バックヤードにもだいぶ所蔵してありますが、出来れば表に出ている閲覧品からお願い出来ますでしょうか」
正気に戻り慇懃に言うメイは、こちらへ、と狭い廊下を抜けて扉から展示品の所へと案内する。
メイに鍵を使ってガラスケースを開けてもらってから、イチは暫く時間がかかりますから、とメイに言った。
「では終りましたらこちらに鍵をかけてバークヤードに声を掛けて下さい」
「おい、鍵を預けてもいいのか?」
あまりの無用心さにアルバートが声をかけると、
「これでも人を見る目は養っております。世界有数の美術品と同等の価値の有る方をお連れの方に、こちらの品は必要ありませんからね」
ニヤリと笑って去って行くメイに、なんだか面白い人ですねぇとイチが呟くと、理解不能だ、とアルバートは額に指を当てて首を振った。
メイを見送った後、イチは気を取り直して膝をついた。ガラスケースの中に有る展示品を一つ一つ見定めて行く。
アルバートは先日ドダリー卿に言っていたイチの言葉を思い出した。
「イチ、俺はここに居て大丈夫なのか?」
「ええ、アルが退屈でなければ」
「気が散るとか言ってなかったか?」
ああ、とイチは手に持っている黄瀬戸きぜとの茶碗を置くと、アルに向かってにこっと笑う。
「彼の方がいらっしゃれば気が散って見る事が出来ないので、そう言わせて頂きました。アルは大丈夫です」
そう言って、今度は黒い茶碗を手に取った。
アルバートは内心面白くなかった。イチに認められているのは嬉しいが…
(信頼は得ている、が、…とは見られていない)
イチは一通り展示品を手に取り、アルバートには分からない文字でメモを取っている。
「どうだ?」
「こちらに贋作はありませんでした。ただ…」
「?」
「いろいろと表記が間違っていて…あと箱書はこがきが…」
「箱書?」
「この茶碗達を入れていた各々の木箱が有るとおもうのですが、それが展示されていなくて…全てを展示する事は叶わないかもしれませんが、せめてこれだけでも…」
イチは朱色の茶碗と黒色の茶碗を少し手前に置いた。
「こちらで第三代にお目にかかるとは思いませんでした。第九代も一緒に置かれているので、目利めききの方がご用意されたとは思うのですが」
「イチ、分かるように説明してくれ」
アルバートの困惑した声に、イチは失礼しました、と慌てて言った。
「こちらの朱色の方が第三代樂吉兵衛作、赤楽あからくの茶碗になります。そしてこちらの黒い茶碗が第九代樂吉右衛門作、黒楽くろらく茶碗。どちらも名工の作です。一代から三代までは特別な物になりまして、この九代はまだ若い物なのですが、三代以来の名工と謳うたわれていましてーー云々」
「……イチ、分かった。分かったから」
「ーー三代以前のものは私共でも中々見ることが叶わず華族様方や大大名のお歴々方がお待ちの様でして、まさかこちら様で手に取る事が出来るとは……。そもそも樂らく茶碗とは一釜に一つしか焼くこと叶わず、気入らなければせっかく焼けた茶碗もその場で割ってしまうとの事で、私としては駄作であっても名工の駄作ならば是非手に取って見たいと思うのですがーー云々」
「イーチッ!」
「はっ、し、失礼いたしました」
ぱっと顔を赤らめてしまったという顔をした。
「イチ」
「は、はい…」
「君が優秀でアンティークを愛している事はよく分かった。だがな」
はい…、と犬であれば耳を畳んで尻尾を丸めている体でイチは神妙にしている。
おそらくイチの悪癖なのだろう。
気を付けてはいたものの、思わず出た、といった所か。しかし反省しているのは分かるがこれだけは言って置かなければならない。
「正直、あのメイという学芸員と同じぐらい引くぞ? 俺だから良いものの、他の貴族達の前では絶対自重しろ。後で何言われるか分からん」
イエス、アル…と応えて更にしゅんとなってしまった。その様はアルバートに強烈な庇護欲を沸かせ、どうしてくれようと手をこまねいていると、黒瑪瑙はそっと上目遣いに聞いてくる。
「あの…ではアルの前では良いですか…?」
その哀しそうな潤んだ瞳に吸い込まれ、思わず頷きそうになりながら、いや、まて、と言われている事を天秤に掛け、アルバートは頭の中で瞬時にリスクを計算する。
「う……まぁ……俺がいい、と言った時ならば…な」
歯切れ悪く答えると、ぱあっと今までに見た事のない子供の様な笑顔で、ありがとうございますっ、と感動した様に礼を言ったイチは…
「私、幼い頃から骨董が好きでして、いつもおに…お父様の隣で一緒に見させて頂いておりました。色々な綺麗な物達が私に語りかけてくれる様でして、勿論新しき物には新しい良さが有るのですが、古い物にはまた格別な良さがあり、歴史を感じ、いろいろと調べて参りますとまた次々と興味深い事が分かりましてーー」
「イーチッ!」
俺は今、良いと言ってはいない!
そう訴えるのだが嬉々として喋る黒瑪瑙の耳に入っておらず、暫くの間全く興味のないアンティークの話を延々と聞かされるのであった。
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