第3話

執務室にて書類に目を通していると、ノックと共に執事がイチの来訪を告げた。

「通してくれ」

 ざっ、ざっ、とサインをしていると、執事と共にイチが遠慮がちに入って来る。

「すみません、ミスター。お仕事中ならばまた改めます」

「イチ」

「はい」

「名前」

「…失礼しました、アル」

「良し。少し待ってくれ、あと少しで終わる」

 イチの顔も見ずに猛然とサインをしているのが終わると、額にかかった前髪を軽く掻き上げて立ち上がった。

 イチが座っている二人がけのソファにどかっと座る。

「お行儀が悪いですよ、アルバート様」

 執事が窘めながら茶を入れてくれる。

 うるさい、と一言発して茶を飲む様に、イチがふふっと笑った。

「それだ」

「何か?」

「君の国の男はそんなに良く笑うものなのか?」

 イチがさっと無表情になった。その顔もある一部の嗜好の者には耐え難い破壊力だが、まだ笑顔よりはましだ。

 イチが顔色悪く聞いてくる。

「あの、私はそんなに笑っていますか?」

「いや、そんなに四六時中笑っている訳ではない。ただ…」

「ただ?」

「ある嗜好の輩にとって素晴らしい破壊力があるだけだ」

 本当は全ての人々を魅了させる破壊力だが、その事は敢えて伏せる。笑わなくなってしまっても困る。

「今日のパーティーは、曲者が多くてな。パーティの時だけは余り笑わない方が得策だ。あと俺と極力離れない事だな」

「イエス、アル」

「後は…内輪だが舞踏会形式だ。ステップは踏めるのか?」

「一応仕込んで来ましたが自信が有りません。それに…此方こちらの女性は背が高いので…」

「フォールドし難いか?」

 はい、と頷いた。

「私共の国の者は皆、背が低いものですから」

「では壁際にいる事だな。俺はどうしても1人2人は踊らなけれならない。俺が近くに居ない時はそのように」

「分かりました」

「他には?」

 わざわざ執務室まで出向くと言う事はイチも聞きたい事が有るのだろう。

 はい、とイチは居住まいを正した。

「実は私は此方に来るようにと言われただけで、今後の予定を告げられていないのです。いつ頃美術館に行くのでしょうか」

 昨日も今日も晩餐とパーティーがあるだけで動きなく、心配になったと言うのだ。

 アルバートは頷いた。

「今日中に仕事を一区切りさせる。明日には連れて行こう」

「そんな、アルのお時間を頂くことは出来ません。場所さえ教えて頂ければ自分で…」

「我が国の権威ある美術館のバックヤードに行くんだ。君が1人で行って開けて貰えるとは思えない。それに…」

 この少年の様な青年が美術鑑定士だとは、事前に情報が入っていたとしても信じて貰えないだろう。門前払いだ。

 そしてそれよりも他に懸念事項がある。

「今日の出来次第だが…十中八九、俺の盾が必要となる」

 不吉な断言をするアルバートを困惑した顔で見つめる黒瑪瑙くろめのうは、私にはまだ分かりませんが、と言い、

「色々とご迷惑をお掛けしますが、宜しくお願い致します」

 と深々と首こうべを垂れた。




 ********




 略式とはいえカドリールから始まった舞踏会は、一頻り踊り終わって歓談が始まる頃にはやはり今回の華の話になる。

 主催であるジェラルド男爵に招かれて特別に許可された青年は、美少年と言ってもおかしくはない儚さを持ち、ここらでは珍しい漆黒の髪、透き通る様な滑らかな肌、そして一番目を引くのは静かに輝いている黒瑪瑙の様な瞳。

 普段は海千山千で皮肉の応酬をしている貴婦人達でさえも、その美しい視線を投げかけられればほうぅとため息を吐いて称賛してしまう程の艶やかさ。

 暫く踊りに加わらなかったので平民の出か、とも思われたが、ジェラルド家次男と共に一曲だけとはいえ連なって踊ったワルツは完璧なフォールドで、出自はよく分からぬが教養を兼ね備えた黒瑪瑙の美男子との触れ込みが後に社交界の噂として立つ事になる。


 当のイチはやはり相当に緊張をしていたらしく、ポルカが始まったのを見計らってアルバートはテラスに促した。自分にはワイン、イチにはウォーターを渡してテラスの手摺に寄っ掛かる。

 疲れたか? と聞くと、少し、と淡く微笑んで水を口に含むイチの顔色はやや青い。

 緊張が抜けないのだろう。ダンスは苦手だった様で、一人目が完璧なフォールドだったからもう一人ぐらい行くか? と耳打ちすると、もう、これ以上は…と緊張の為に潤んだ瞳で断ってきた。

 分かった、とさりげなく肩を抱いて其々の思惑の有る視線に牽制する。

 有る視線は黄色い叫びを扇で隠し、

 有る視線は薔薇色の溜息をこぼさせ、

 有る熱い視線には諦めの吐息を吐かせた。

 ただ一人を除いては。


 アルバートはそのねっとりとした視線に気付いていた。

 やはりこれぐらいの牽制では物ともしないか…と一人呟くと、イチが怪訝な顔をした。

 アルバートはニヤリと口元だけ笑い、黙ってワインを煽る。

 その後の言葉を待っていたイチだったが、アルバートが言う気がないと見ると、黙ってテラスの向こうの空を見上げた。

「里心がついたか?」

 片眉を上げて揶揄るアルバートに、まさか、と柔らかく微笑む。

「何処から見ても、月は月だと思っただけです」

「何だ、情緒も何もないな」

 呆れた様に言うアルバートに、私に情緒と言う物はありません、と黒瑪瑙はまたクスリと笑った。

 本当にこの笑顔は破壊的だ、とアルバートは残りのワインを飲み干した。

(俺でさえ吝やぶさかではないと思わすぐらいだ)

 要らぬ思考を髪を掛け上げて切ると、戻るか、とイチを促した。


 はい、とイチが身体をこちらに向けた時だった。足を縺れさせて身体が傾いたので、おっと、とアルバートが右手でイチの身体を支えた。お互いグラスを持っていたのでアルバートの胸にイチが飛び込む形となり、イチは強かに鼻を打った。

アルバートの右手が…固まる。

思った固さではなかったのだ。…イチの身体が。


「痛っ」

 と言って顔を押さえたイチに、アルバートは数瞬止まってから、大丈夫か? と声を掛けた。

「はい、何とか」

 少し涙目で大丈夫ですと言っているイチを、アルバートはまじまじと見つめる。

「あの…アル?」

「あ、いや、…何でもない」

 アルの態勢を整えてから、テラスからダンスホールへ2人で戻る。


 少し意識を飛ばし過ぎていたのだろう。

「いやいや、見せつけてくれますな」

 とにこやかに近付いて来たドダリー卿の動きに反応する事が出来なかった。

 アルバートは内心強烈な舌打ちをしながら、表面は鉄壁の笑顔で取り繕う。

「何の事やら私には分かりかねますが」

 アルバートの物言いにイチがピクリと反応する。言葉遣いで身分の差を感じたのだろう。

 隣で緊張しているのが分かる。

「まぁそんな事を言わずに、その素敵なオリエンタルの瞳を紹介して頂けないだろうか?」

 ねっとりとした顔で微笑んでいるドダリー卿。謙っているが否定などある筈がないという言い方だ。勿論、此方に拒否権は無い。

「勿論です、ドダリー卿。こちらは当家で預かっております、ミスター・ハジメ・ナリタ。ハジメ、この方はドダリー子爵だ、ご挨拶を」

「初めまして、ハジメ・ナリタと申します。ご尊顔を拝見出来、光栄です。マイロード」

「ドダリーだ、それ程固くならなくてもいいんだよ、ミスター・ハジメ。君は声も美しい。貴方にマイロードと言ってもらえると心が震えるよ」

 歯が浮く台詞をこのドダリーという男がねっとりと言うと隣で聞いているアルバートさえも鳥肌が立ってくる。

 イチは努めてにこやかに、光栄です、マイロード、と応じた。

「お若いのに美術鑑定士だとか。私も美術は好きでね、どちらの美術館を巡られるのかな?」

 イチは差し障りなく大英美術館を始め重たる美術館の名前をいくつか上げた。

「大変興味深い、同席したいくらいだ」

「ドダリー卿」

「ミスター・ハジメ、どうかな?」

 お前には聞いていないとばかりに言葉を重ねてきたドダリー卿に、イチは申し訳ありません、マイロード。と眉を下げて謝る。

「鑑定は集中力を必要とするので、どなたも側にいる事は叶いません。また、朝から晩まで時間を要するので、お忙しい閣下には不向きな仕事でございます」

「そんなにも…」

 朝から晩まで、という言葉に撫でつけられた口髭を触りながら鼻白むドダリー卿に、恐らく膨大な量なので、とイチは至極真っ当な事を言って断った。

「では、いつかゆっくりと美術談議をしたいものですな」

「時間が許しましたら」

「貴方の仕事が早く終わる事を祈って指折り日を数える事にしよう。マイ・オニキス」

 もう自分の物だと言うような物言いをし、アルバートをにこやか牽制してドダリー卿は離れて行った。

「…すまん」

 何も助けに成らず、ほぼイチに相対させてしまった事を短く謝ると、イチは、いいえ、といってアルバートに向き合う。

「貴方が側に居て下さったので、なんとか切り抜けました」

 信のある人が居るだけで強くなれるのですよ、と黒瑪瑙は信頼と安心を乗せてアルバートの見つめ、ゆっくりと極上の笑顔で微笑んだ。


 背後から貴婦人達の様々な色のため息とくぐもった小さな嬌声が聞こえ、紳士からは嫉妬と諦めの眼差し。

 黒瑪瑙は一夜にして英国貴族達を魅了した。



 ーージェラルド家次男の側にオニキスの至宝有り、ドダリー卿挑むも想い叶わずーー


 下世話に広がった噂の人を一目見ようと、ジェラルド家に束になった招待状が届いてアルバートを苦しめるだが、それはまた先の話である。


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