第10話
イチが消えた、と連絡が入ったのは正午を過ぎて間も無くだった。
詳細を話すので大英美術館に来て欲しいとのメイからの走り書きのメモに、アルバートが単騎で馬を走らせて最速に到着した時には、メイがバックヤードの外扉の前で右に左にと動きながら待っていた。
「リチャード・メイっ!」
馬上から飛び降りて、メイの胸倉を掴むと、
「お怒りは後で幾らでも受けます、ミスター・ジェラルド! まずは中で説明させて下さい! 時間がない!」
メイも顔を引きつらせて言った。
イチを思っての言葉にアルバートは何とか溢れ出る怒りを収める。
「……状況を聞かせてくれ」
ばっと手を下げて睨む様に言うと、メイも体裁を整えながら、とにかくこちらへ、とバックヤードに招き入れた。
前回通った細長い廊下を歩き、ある扉の前に立つとメイは錠前の鍵の束を取り出して開ける。薄暗く急な螺旋の階段を降りて行くと開けた場所に出て、メイがスイッチを入れて電気を灯すとぼわっと灯りが点いた。
部屋一杯に広がる大机の上に、大波が書いてある日本の絵らしきものが三枚と一枚に分かれている。
「イチはこれを見ていたのか?」
集中しなければいけない案件があると言ったいたのはこれか、と見やる。
「ハジメ様は葛飾北斎の浮世絵に贋作が紛れているのでは、と仰っていました。四枚ある内の一枚にそれらしき匂いがする、と」
アルバートは三枚と一枚を見比べるがどれも変わりなどない様に見える。
三枚の方には、〝true〟のメモ、
もう一方の一枚には。
〝真ではないが……後程説明します〟
と達筆な字で書いてあった。細く、美しい字体にイチの左手を思い出し、アルバートは自身の拳を握り締める。
落ち着いた字体、乱れていない室内。
イチが意思を持って出て行ったのが分かる。イチは連れ去られたのではない。
自らここを出て行った。
とならば、行った場所は一つしかない。
「ドダリー卿の所へ行く」
誰に言うでもなく宣言すると、メイが私も連れて行って下さい、と言った。
「腕は強くないですが、一人より二人です」
真剣な目を受けてアルバートは頷く。
手早く浮世絵を片付けたメイは、足早に地下扉に鍵をかけ、準備をして表へ出た。
二人、馬場へ走り、馬鞍を装着するのもそこそこに駆け出す。
「ミスター! ドダリー卿宅にはこちらの方が早い!」
メイは器用に馬を操りながらアルバートを先導する。大通りから地元民でしか分からない路地に入り、右へ、左へとくねりながら駆け抜ける。
建物の壁と壁にかかった洗濯紐の間を潜り抜け、もう一つ曲がった先にはドロワーズが何枚もかかって居て視界を
「うわっぷっ」
メイは承知のなのかさっと潜っていくがアルバートはバサバサとハットに手をやり落とさない様に苦心しながら潜り、一つ引っかかってドロワーズが付いてきた。
「なにすんだい!ドロボーー!!」
という声に振り向きざまに「すまん!」とその肌着を投げる。後方で怒鳴り声では無く嬌声が聞こえて来たが気にしない事にした。
今は、それどころでは無い。
メイが迷う事なく疾走していくのに舌を巻きつつアルバートは離されないよう食らいついて行く。
やがて視界が開けてハイドパークに突き当たり、右へ曲がり北上する。
右手に見覚えのある白い石と赤煉瓦で埋め尽くされた外観の屋敷が見えて来て、メイにドダリー卿宅伝えると、メイ自身も分かっているという様に頷いた。
ドダリー卿のタウンハウスの手前にある共有の馬場に馬を預けると、アルバートは足早にドダリー卿宅の正面玄関に向かう。メイも遅れず付いて来て、私が先立ちます、と言った。訝しげに見ると、
「ドダリー卿は美術に懇意なので、顔が効くのです」
と述べた。いつもとは違い真剣な眼差しに、アルバートは頷き道を譲る。
「私が前に立ち応対するので、もし家令が渋るようならば押しのけて中に入って下さい」とメイは前を向いて言った。
アルバートは、分かった、と頷いた。
メイは拳で重厚な扉を二回、ノックした。
家令らしき声が中から聞こえる。
「大英博物館キュレーターのリチャード・メイです。ドダリー卿に折り入ってお話があって来ました。お取り次ぎを願います」
メイの声に、家令が暫しお待ちを、と言って離れていく。いくらかもしないうちに足音が有り、扉は開かれた。
「主人がお待ちです。お連れ様…ミスター・ジェラルドもご一緒にどうぞ」
アルバートと分かった上で招き入れる家令の態度に、メイと二人、顔を見合わせるが、取り敢えず中に入るのが先決、と足を踏み入れた。
案内された書斎風の居間には、口髭を生やしたドダリー卿と、イチが居た。
だが、様子がおかしい。
ドダリー卿が長椅子に端に寄っ掛かり、頭痛でもするのか額に手を当て、具合が悪そうに身体を投げ出している。
イチはその横にある一人がけのソファに浅く座り、優雅にお茶を飲んで居た。
アルバートとメイは逆の予想をして走りに走って来たのだが、これはどういう事だと顔を見合わせた。
「ああ、ミスター・ジェラルド、よく来てくれた。ミスター・メイも」
うろんとした顔でアルバートとメイをみたドダリー卿は、力無く笑った。
「実は……オリエンタルの至宝と美術談義をしたくてね……招待状を出し来て貰ったのだが……少し、私には手に余る……いや……高度過ぎる話になってしまってね……どうしたものかと、思っていたのだよ……」
その言葉にアルバートとメイは状況を把握し、一人はげそっとなり、一人は目を輝かせた。
「大変申し訳ないのだが、体調が優れなくなってしまってね……招いておいて恐縮だが……迎えも来たようだ……今日は帰って頂いてもいいかね? マイ、いやミスター、いや、レディ・オニキス」
その言葉にアルバートはいきり立った。自分の事は棚に上げてイチに無体な事でもしたのかとドダリー卿に問い正そうとしたらば、ドダリー卿はひらひらと力無く手を上げた。
「ああ、ミスター・ジェラルド……君の心配する様な事は何もない。ただ、手の甲にキスをしただけだ。だが、それで彼が、彼女だと分かってしまったのだよ……」
「どういう事です?」
「私の、悪癖は知っているだろう? まあ、元々の趣味もあるが……女性に触ると何故か反応をするのだよ……ほらこの通り……」
そう言ってドダリー卿はカフスを外して腕を見せると、鳥肌と言わんばかりのブツブツの肌に赤い親指ほどの斑点がぽつぽつと広がっていた。
「私が弱ったのをいい事に、この方はまたとてつもなく長い美術談義をし始めてだね……まあ、申し訳ないが、私の手には余るお人だ。引き取って貰えるだろうか」
済ましてお茶を飲んでいた
「大変美味しいお茶とお茶菓子をありがとうございました。私としましてはまだまだお話足りたいのですが、もし宜しければまた体調が回復した時にでも有意義な時間を一緒に過ごせたらと思うのですか?」
イチはにっこりと微笑んでドダリー卿に伺うと、いや、もう結構、十分だ、とドダリー卿は引きつった顔をして、
「今後の美術談義はミスター・ジェラルドとキュレーター・メイに聞いてもらいなさい。今日はどうもありがとう。レディ・ナリタ」
最後はドダリー卿からのきっちりと言質を取り、満足そうに頷いたイチをエスコートして、三人は屋敷を後にした。
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